黒き大地 破
黒き大地より――。
――なにが起きたのだろうか、と。
身体中から、血が、止まらない。
指先が震えて、剣を、握る手もままならない。
垂れた粘っこい血が、赤より、黒く。煤煙が、至る所から上がっている。
赤い軍服もズタボロだ。
「アイ……リス……さま……!」
深部へ、更なる深部へ。侵攻した、順調だった。
片腕が折れて、感覚もない。足だって、引き摺っている。水銀の剣を杖に、何度瓦礫に突っ伏したのか皆目見当が付かない。血反吐だって、何度出したろう。
頭から流れる血も、目玉に刺さって視界が霞む。痛い、身体中が痛い。
「だれ……か……! だれか……! い、……ない、のか……!」
何人死んだのだろう。真っ黒な山は、瓦礫は、躓いて理解した。人だ。手足が、生えていた。息のない、人々だ。
地面に薄く浸かるまでの流血に、何度、嗚咽を耐えたろうか。
「だれか…………!」
深部で、魔王を討たねばならなかった。最初は、そうだ。ハンニバル殿が魔物達を黄金にて葬った姿に、心が沸き立っていた。あの日から、順調だった。魔王にだって、勝てる筈だった。
今や、どうだ。
「だれか……、あぁ……! なんで……!」
剣聖達が、前で戦っていたのだ。
天から堕ちた異形に、全ては、終わりを知った。先ず、ハンニバル殿が殴られて。
それから、そうだ。理解出来ずに、呆けた私を庇って。呆けた私を庇ったから、庇って、ハッシューバップ・カフェンの頭が飛んだ。分からなかった。
最初、分からなかったのだ。私は、あれが、胸元に飛び込んだ球体が、頭だと分からなかったのだ。腕に滴る血と、色がなくなった目玉に。
「だれか……!」
そうだ、そうだ。
私が、未熟だから。未熟な私が、彼を殺してしまったのだ。
見渡す限りの死体の山脈を、歩む。誰も、息を、していない。
誰か、返事を。
「あい、リス……さまぁ……!」
師は、立ち向かった。暗黒の異形に。魔王ではない、魔王ではなかった。名も知らぬ、なにか、言葉も通じぬ、なにか、分からない。分からないが、殺意だけで、足が竦んだ。
師は、異形に魔法を放っていたように思う。殴られて、吹き飛んで。巻き込まれた兵士が粉微塵になる様を、見た。
歩む、足が、足に力が、足りない。
「なんだ、……あれは……、なんだ……!」
黒き異形と、師がぶつかって。それで、視界が、水銀に染まったのだ。
なにが、起きたのかも、分からない。分からないのだ。気付いたら、誰もいない静寂しか、ないのだ。
真っ黒な空に。真っ黒な山に。臭いも、もう、なにも感じられない。
「だれ、か……!」
腕が、手が、足が、歩みに絡まって前に進めない。剣を、肉に立てて、感触に溺れても、前に、前に行かねばならない。アイリス様は。皆は。
剣聖方は何処に、何処に行ったのだろう。
何万人死んだのだ。あゝ、あれは。
視界。真下、近いのに、見え辛い。涙か、涙を出していたのか私は。聖女の衣服だ、見栄麗しかったろう肉の塊に、私は。私は、剣を刺して立っていた。聖女様を。聖女様に。
「う……ぐうッ……!」
剣を抜いて。死体の山から転がり落ちた。痛みは、ない。肉の山だからだ。血に顔が汚れて、拭って。剣を、足元の死体に刺して、進む。
「……アイリス………アイリス……!」
白銀の師を。探す。魔物は、不思議と見付からない。否、山脈の、死体の山の、前に、眼前だ。見上げた先に、なにか、座っている。
「……――?」
耳鳴り。聞こえない、聞き取れない。なにかは、死体に座っていた。堆い山頂に腰掛けて。
「……――――、――?」
「……だれ、だ……?」
掠れた声、自身の声とは思えぬ希薄さながら、僅かに聞き取れた。だが、前に座す誰かは声量を上げる様子なく。然し。
『ふむ。意識に直接語り掛けてやろう、片耳から血が出ている様子からするに、鼓膜が機能してないのやも知れん。人とは、脆弱なものだからな』
「だれ、……だ……?」
『私か? そうだな』『私は、君たちを滅ぼさねばならないのやも知れん。それが手っ取り早く可能性を示せるだろう? 勇者なき今宵、私は、君たち人の可能性こそを信じて止まない者だ』『この世界は非常に不愉快で、針の上に建つ幻朧に過ぎない。エーテルがなければ成り立たず、エーテルにあまりに染まった世界だ。然し、それは幻朧に過ぎず、儚いものだ。君達は……不思議な事を、ついぞ、宣うものだが』『私の目的かね……? それは多くもあり、少ないとも言えよう。私は生命の可能性を信じている。未来には、いずれ、とね』『ようこそ、人よ。星の子よ、私になにを示す? 先代勇者とやらは生き様を語ったものだ。君は、君を選定してやろう、述べ給えよ』『私が滅ぼされようとも、私は滅ぼされようとも、人の可能性は正しかったのだろうと胸を撫で下ろし、私が、私は、人を滅ぼそうとも。私は、私が正しかったのだと胸を叩くものだ。努々、忘れぬ事だな』『私が人を襲う理由、か? ふむ……簡単だ、エーテルの廃滅よ。そも、シ・テンスを滅ぼさねばならんがね』『なにも……とって喰いやしない、そう怯える事もないよ人の子よ』
圧縮された、意味に、頭が軋む。痛みを伴って、誰なのか、私は一つだけ理解した。
「……魔王……」
『そう、呼ばれもするがね。然し君……肋三本の粉砕骨折、内一つは肺に刺さっていないかね? 治す、のは主義に反するので手出しはせんが』『君の服はアガレス王国の意匠だな。あの国は古めかしいな、未だに魔導車もないのだろう?』『シ・テアン・レイめは私に付いてなにか口に……は、せんか。人の繁栄も滅亡にも心には触れぬだろうからな』『先代勇者の神器を継いだ人の子は、無事ではあるな、死んではおらん』『進むのかね、絶望しかあるまいに。だが、悪くない。人とはそうあるべきだ』
雪崩れる意味に目眩がする。私は、何度目を擦ったか。不意に、光が差した。月光だ。空を覆う雲が、裂けて、隙間から降っていた。ボヤケた視界に、死体の山に胡座を掻く魔王を。魔王を見ていた。
異形ではある。不定形な、暗がりと月明かりを綯い交ぜにして、悪意と善意を足して善意なる悪意をぶち撒けた形。無数にあるのは、手だろうか。真っ黒な、霧。輪郭がない。輪郭が移ろっている。
彷徨う眼は、空洞のようで。
「魔王よ……、わたし、は……! とめる、とめてみせ、る……!」
『私は人類を滅ぼしはせんよ』『あれはなんだったのだろうな、異界からの使者であろうか? 随分悪趣味ではあるが、まぁ、悪くはない』『可能性の話をしないかね、君のような人は珍しくもある』『剣聖は死した、か。勇者なき今に剣聖は勇者の代理が務まるものだろうか?』『おや、足から骨が出ているぞ。成る程、皮膚を突き破ったのだな。歩行力の低下は理解していたが、剣を杖に見立てたのかね』『ふうむ、聖女達の奇跡もあの異形に届かなかったとみえる。麗しき乙女も、臓腑を暴かれれば単なる血袋、道理ではあるが』『聖女と言えばだ、女神の奇跡すら通用しなかった、と仮説すべきかな。奇跡、女神の権能を借りた上で虐殺され貪られたのだろうがね』『アガレスの、そう、青い果実が好きでね。甘く、酸っぱく、時折苦い。病み付き、とやらだ。是非欲しい』
ぐらぐら、する。足元の死体に刺した剣に体重を任せると、ずぶずぶと、肉に埋まる。
「……魔王……! わ、たしは……! う、つ……!」
『人類は滅ぼしはせんと述べたがな、血が足りておらんとみえる。滅ぼそうとは思ってはおらん、滅ぼそうとはするがな』『アルファノス・テアンの実力は筆舌に尽くしがたいが、異形に対し術が十二分でもなかったか。彼女に、息はあるだろうか?』『ハッシューバップ・カフェンの老骨も酷な事をする。若き者に可能性を託すのは賛同するがね、だが、こうも事態が悪ければ私も手を抜かねば無作法であるな』『知っているかね、古蟲人種とは元々この世界に存在しなかったのを。あれもだが、世界に不純物ばかりが蔓延しているな』
水銀を構えようにも、身体は命令を遂行しない。ふらふらとして。足が重い。
「ど、けぇっ……!」
剣を引き摺る。前に、進む。血が、重い。衣服が濡れて重いのだ。魔王は、ついっと指を立てていた。
『前に進むか、人の子よ。その先は絶望やも知れんぞ』
魔王の座す丘を越える。引き留めようとする声を、振り切る。
『見なくとも良い現実もあるのではないか? 少なからず、人たれば、な』
堆い死体の丘を越えれば、遠くに、ぽつんと白銀が落ちていた。
「あぁ……! ぁあっ……あゝ!」
剣なんて投げ出した。
真っ黒な大地に転がる、女性が一人。
師に、腕はなく。
師に、足はなく。
目が痛い程の真紅に埋もれている。
「アイリスさまぁあぁああッッ!」
白銀に煌めく師は、其処にある。
師たる女性に四肢はなく。
血潮に沈む姿に音はなく。
赤に没した『銀』はある。
目の前が真っ暗になる錯覚。取り乱して。なにをしたのか、分からない。気付いたら、気付いたらだ。腕の中に、小さくなった師があった。息は。音がない。真っ赤な、生温かい血が私を浸す。手が染まる。涙か、涙だ。アイリス様の、寝姿に粒が落ちて、血が淡いて薄くなる。
「アイリスさまッ……アイリスさま……! あぁ……こんな、こんなぁッ……!」
瞼を閉じた、小さくなった師を抱き締めて、私は、私は叫んでいたのだ。
私は、愚かな男だ。剣聖でもなければ、勇者でもない。哀れで救えない、人なのだ。
僅かに、瞼が。私は、外気に触れて発光する銀の眼差しに。
「アイリスさまッ……アイリスさまッ! わ、私が、貴女を救ってみせますッ! 貴女をッ! 貴女だけはッ!」
「…………」
師は、私を見てはいない。否、夢を見ているのだろうか。目線は私に向いているのに、意識は何処か別にある。ような。銀の瞳が、光が弱まっている。
『ふうむ……、壮絶なものだな。で、あるが……死にはせんだろう。霊力さえあればな』
「わ、私が捧げますッ!」
背後の魔王は手を打ち鳴らし、嗤う。
『足りんよ。人類を滅ぼさんとはするものの、やや、風向きが変わった。死なれても困るのだ。故に、私からの選別だ』
黒い、霧が辺りを包む。私は手を必死に、振った。魔王の力を振り払おうとしたのだ。
「……目的は……」
「……!」
師の声に、魔王は死体の上に座すと首を傾げた。
『そうさな……人助けか? 否、私は人を助けんとはしてはおらんな。私は、私が思う最善であると確信する。借りとも思わんぞ』
「アイリスさまに近寄るなぁッ!」
『魔王だから、かね? まあ、それも良い。然し、これは決定事項であり合意なぞ不要だ。私は、私が思い願い祈る未来の為に、人の可能性を信じ、適切に滅ぼさねばならんからな』
黒い霧は、アイリス様に近寄っている。腕を振るって追い払っても。
『君の師は、いずれ死するだろう。だが、気に食わない。私の手によって死するならば、是非もないがな。あの異形になぞに渡してなるものか』
ぐいっと、魔王が肩から顔を覗かせる。私の背後から、魔王は、囁いた。私には、甘くて、抗う気力を削ぐ、余りにも悪辣に。
『私は数年間、大人しく復興を待とう。だが、異形に言葉は通じん。加え、君に師は救えるのかね?』
私は。私は。
アイリス様の銀なる眼差しから、逃げて、強く目を閉じた。唇を噛み締めて、私は、私は経過を、過程を、指を咥えて傍観するしか出来なかった。
私は、必ず。必ず私は、魔王を討つ。だが、だが、その前に。
異形を、師を、こうも、こんな。許せるものか。
許せるものか、道理があるか。
絶対に殺してやる。
「絶対に……! 絶対に忘れん……! あの災厄に、私は立ち向かうッ! 我魂に刻む、命に誓いッ!」
――。
――――。
それは、災厄との出会いだった。私が、修羅に堕ちても構わないと誓った日でもある。小さくなった師を抱き締めて、あの日、誓ったのだ。誓ったのだ、魂に。この我が魂に。
絶対に見つけ出し、滅する。
必ず。
クルス・デル・アガレス。白馬に乗った王子様系だが、災厄によって怒れる化身となった人。剣聖と言う縛りや枷がなければ、彼は実に凶人でもある。