黒き大地 序
今より幾数年前、三国列強より更に上った位置で、地平線の先まで荒廃した大地にて紡がれた英雄達の詩を、一つ織ろう。
魔物が溢れる其処に声変わりして間もない青年はいた。黒き大地と称される世界に、人を、他の生物を慈しむ兆しはない。大地を覆い尽くす魔物の束に、何時だって必死に立ち向かう。既に勇者なき世界、遂に勇者なき世界、世界を担うのは勇者ではなく選ばれた者達。
剣聖と謳われた、人々だ。
「ほう、君があの水銀の後継者かね……?」
先代勇者が振るっていた神造兵器竜槍を操りし英雄に萎縮する青年は、簡易キャンプの一角で英傑に吟味されていた。琥珀に輝く隻眼は知的で、冷徹で、心の臓を撫でる気迫が伺える。赤い軍服の青年、クルス・デル・アガレスは苦く笑って、腰に差す神器を撫でる。
「はい、此度の遠征より私も参加させて頂きます」
「そうかね。然しまた、随分と若いな」
僅かな口元の歪みは、微笑を携える姿である。趣向品の紅茶を手に、くゆる湯気を楽しむ素振りは気楽だ。立ち上る威圧感とは裏腹に、口から紡がれる突起のない声質とは解離して、存外有効的な語り口ではある。黒き大地の深部前に並べられた簡易キャンプの群は、此度の遠征にて様々な国から集められた十二万の兵士を収容している。
簡易キャンプだけが見渡す限り伺える景色で、外縁ともなれば常に魔物と渡り合ってもいた。移動型の拠点、中心に司令塔や聖女達や物資を固め魔物に占領された大地を一歩宛侵攻する。それが今まで行っていた事だ。一気呵成に攻め立てるのも難儀なもので、地道に山を削るように進軍している。
ある程度まで進軍した後、聖女達の賜りし奇跡にて浄化結界を施す手筈である。
「成人はしているのですよ、ハンニバル殿」
「そうかね」
紅茶を口にし、美姫と見紛う男は首肯する。艷やかな黒髪に、琥珀の瞳。一目で高価と分かる三つ揃え姿は戦場と言うより劇場であったり、汽笛の鳴る帝都であれば相応しい装いなのだろう。クルスは帝都ならではの装いに若干心が惹かれつつ。
剣聖の中で鎧に袖を通す者こそ稀ではあるが、戦地に似合わぬ眼前の男は机に置いていた羊皮紙を手にする。
「師とは一緒ではないのかね?」
「はい……前線に、一人で赴かれました」
「ほう、弟子としては複雑なものだろうな。それで? 僕へ、思惑を語ってはくれまいか? それとも単に世間話とやらかね?」
「いえ、師より他の剣聖に会ってみるのは良い経験になるだろう、と……。此度の遠征も、貴方様が総指揮でしょう? その……御迷惑でしたか?」
「見聞を広めるのは構わないがね……。然し、君は些か勘違いをしていないかね? 総指揮の任は受けてはいない、此度も例に漏れず。指揮者は他にいるものだ、僕は剣聖であり帝国軍人であるのだからね」
肩を竦める。クルスは目を開いた。
「ハンニバル殿は総指揮ではないのですか?」
「世間一般、の固着した思想ではないかね? 確かに、僕は竜槍を操ってはいるが……」
紅茶を一啜りして、男はふと目を上げる。クルスを頭から爪先まで伺うと。
「此度の遠征作戦の概要は聞かされたかね?」
「はい。此度はかつてない大規模な遠征、と、師より」
「ふむ。そうかね。君が何処まで把握しているかは定かではないが、帝国からは僕とアーサー、君の所からアイリス嬢にあの頑固爺、集国からは女狐も。法国ですら、姿を見せぬあの枢機卿も参加表明を出していたな」
「……、ハンニバル殿は屈託ない戯れがお好きなようで」
苦笑い、若いクルスには剣聖を女狐と評するのは心理的にも政治的にも苦難である。自らが剣聖ではなく見習いであるが故に。ハンニバル・メイン・ケレイフォルテの殺人批評に加担する訳にも行かず、とは言え個人として女狐と呼ばれた剣聖にも心当たりはあるから首を振るのも渋い。曖昧に無難に受け流す胆力もないのであるが、その姿を見てかハンニバルはにやついて、琥珀の隻眼を細める。
「僕があの女狐を好いてはいないのだよ。敵より味方を殺す、と、耳にしていればこうもなる。……アーサーも大概ではあるがね」
「は、はぁ……」
アーサー・ボイル、万を殺し千を屠ると呼ばれた帝国軍人だ。
「君も知っているだろう、あまり良い噂ではないがね? それに比べ、僕はマトモではないか?」
生きる伝説。己が師と並び奉られる神域の存在だとクルスは知っていた。武装してもいない彼に、では今正に、不意打ちで殴り掛かっても勝率はないだろう。女性のような美しさを併せ持つ英傑は、減った紅茶に月を浮かべ、やや思案を巡らせる。
「おや。どうやら、君の師が帰還したようだ」
「……、本当ですか……!」
クルスは簡易テントの外に目を向けるが、姿はない。遠くでは魔法術式と砲弾が飛び交い、チカチカと閃光を走らせている。もう暫くもすれば宵闇が被さるだろうに、夜や昼を問わず魔物は押し寄せる。曇り空を伺って、クルスは腰に差す水銀の剣に触れた。
「君は……嘘を吐かない方が良い」
「……はい?」
「顔に出過ぎだ、さぞや、嬉しいのだろうがね」
紅茶を注ぎ、彼はやや粗悪な資料紙に目を走らせる。そうしていれば、ふわっとした風。クルスの前に音もなく着地したのは、真っ白な衣服を纏う女性だった。
宵闇に揺蕩う白布はマントのようで、雪原のような髪と紫の瞳が酷く浮いていた。本来ならば存在しない色合いだ。魔法を生業にする者の中では極めて高い属性の影響を受け、髪や瞳の色彩異常が発生する事例もある。剣聖は特筆してその傾向が強いものの、紫の瞳は特別珍しい。
銀の量子が混じる髪を微風に任せ、アイリスは片手にする水銀を地に突き刺した。
「ハンニバル、東側は殲滅しました。南、西は暫くすれば殲滅出来るでしょう」
「それは僥倖だね。時にアイリス嬢、この若人と共に北へ進軍しても良いかね?」
「……何故?」
むっとした顔だ。アイリス、超克四種族に剣聖と呼ばれる数少ない事例、否、英傑。見た目に反して実は我儘な性格をしている。ハンニバルはそれなりに長い付き合いの中でアイリスをそう評価していた。力がある少しばかり子供っぽい人だ、と。
「不安かね? 僕が前線に出るんだ、異論はないだろう?」
「貴方は中央防衛の要でしょう、私が足を伸ばせ……」
「いいや、君も疲れている。連戦続きであるし、君は、疲れているのだ」
「……いえ、私は」
「疲れている、そうだな?」
有無を言わせぬ問答にアイリスの眉間は歪み、数刻視線が交差する。長い溜息と、肩の下降。
「ええ、そうですね。少しばかり、疲れています。然し、北は未だ数十万の軍勢ですよ」
「ほう、それは恐ろしいものだ。僕は無敵ではないから、やられてしまうやも知れないな……?」
「貴方が……?」
半笑いにハンニバルは肩を竦め、紅茶を飲み干すと席を立った。腰に下げた懐中時計を手繰り、目をやって、クルスににやりと笑みを向けた。
「夕飯時にして少々早い、配膳されるまで待ち惚けるのも性に合わないものだ。魔物退治に洒落込むのも一興ではないかね?」
「え、あ、はい!」
シックな三つ揃えを靡かせて、硬質な革靴を打ち鳴らす。手にはなにもなく、だが、背は語る。戸惑うクルスを尻目に、近場の士官へ出撃すると端的に伝えたハンニバルは紅茶の余韻を楽しむように琥珀の瞳を煌々とさせた。
身体から立ち上がる霊力の密度は尋常ではなく、簡易テントから身を出して辺りはざわざわと騒々しくなった。士官達や、偶に聖女、面々を流し見てか。
「そう言えば君は走れるのかね?」
「……え、あー、はい」
「質問の仕方が悪かったな……、君は空を駆けられるかね?」
「……、空?」
「ふむ、アイリス嬢……彼は空を走れないらしい」
「歩法は教えています」
「そうかね。では、僕が牽引しよう」
「はい?」
手首を捕まれて。
気付けば、雄大な空に身が浮いていた。
足裏に在った大地はなく、眼下には円を描く光。簡易テントの群は遠目に見ると魔方陣のようで、冷たい夜風に、鋭い風に、大きな月共に。
回る視界をなんとか戻して。
「ハンニバル殿……!」
「はは、新鮮だな若人とは。着地はどうかね、君はどの高さまで可能だ? 怖いかね? 足が竦むかね? 高さに胃が絞られるかね?」
ハンニバルは空中散歩しながら、宛ら踊るようにクルスを引っ張る。心底に愉快極まる面持ちに、クルスは水銀の剣に手を任せつつ。
「私はッ! 私はアイリス様の足手まといにはならないッ!」
「そうだとも若人よ! 僕らは剣聖だ! この空も、この地も、あの黒き波さえも! 民を守る剣であるのだから!」
両手を広げ、ハンニバルは空を駆ける。月光より尚強い琥珀の眼光は、地平線を隆起させる軍勢を見下ろすのだ。
「若人よ、アレが敵だッ! 目に焼き付け給えッ! 一度進軍を許せば、民が死ぬッ! 女もッ! 立ち上がれぬ乳児すらもッ! SHAS! G´IS! あの丘はッ! 嘗て古蟲人種の都があったッ! 今ではどうかッ!」
猛烈な風と。獰猛な狂気。牙を剥いて嗤う怪物は、人の形をした兵器は空を踏む。演劇のように舞い、悲劇を語る。
「そうだッ! 奴等に心はないッ! 生きてはいないッ! 女神様が手を差し伸べなければ、世界は闇に染まっていようッ! だがッ! 僕は此処にいるッ! G´IS! G´IS! G´ISがッ!」
高らかに嗤う。クルスから手を離して、月光を背に受けた男は嗤う。三日月の天体と、満月の天体を重ねて、嗤うのだ。眼下の黒を。犇めく津波を。
幾つもの閃光が、簡易拠点から放たれている。槍のような、砲弾のような。様々な術式だ。爆炎と轟雷と、閃光と震撼が混ざり響く。交響曲の高鳴りに合わせ指揮を振るうかの如く、自由落下するクルスなぞ眼中になく。
奏でられし戦場の音色に、ハンニバルは狂気に染まった獣の声を轟かせるのだ。なにもない空中に立って、潰れた隻眼を押さえて、嘲笑うのだ。
「みせてやろうSHASでG´IS共よッ!」
天に掲げた手には、瞬きもなく、一本の槍が在った。杖とも槍とも言えるそれは、不可解で不可能な造形だ。槍先を正しく視認出来ないのだから。誰もが、その武器の柄しか認識出来てはいない。
槍先を見る者は、闇に包まれている、とも、ステンドグラスの束に隠れている、とも、空間が捻り消えている、とも、述べる。黄金に輝く槍か杖を右手に。
「ふ、フハハッッッ! HaHaHaHaHaHaッ!」
犬歯は、野獣の如く。
金色に輝く眼は捕食者でしかなく。
掲げた旗は黄金で。
悍ましく、勇ましく。
苛烈にして、下劣に。
笑う。嗤う。
腹の底から込み上がる愉悦に、酔って、微睡んで。歌って、踊る。
天から堕ちる黄金の槍は、流星となり黒い大津波に沈む。
眩い光が、夜を殺す。金色に、染まる。天体に、風に、男の声は響き遠退く。
「ふははははッ! クハハハハハッ! SHASッ! G´ISッ! G´ISッ! G´ISッ! G´ISッ! SHASッ!」
地平線を黄金に染色したそれは、激しい衝撃波ではなく、地上で戦う者達にすら届く波となって。肌を焼く熱さでもなければ、鼓膜を破く音でもなければ、目を貫く閃撃でもなければ、況してや、無視出来るものでもない。
瞼を閉じても、確かに感じる。
兵士達が放つ術式が膨張した黄金に呑まれてから、数秒したか。
ぱったりと、夜は戻る。
遥か天空から三つ揃えを靡かせて、黒く染まっていた大地すら跳ね除けた一角に着地する。なんなら、その勢いと衝撃の方が強かに周囲に被害を出していた。大地を砕き、緩和するでもなく垂直に着地した男、ハンニバルは舞い上がった土煙を振り払うと悠然と腕を組んだ。
「……、はてさて……? 如何なものかね……?」
顎に手を当て、大地を侵食していた魔物が消えた辺りを見据える目は、優美な楽曲を吟味する紳士のようだ。次に、土煙を晴らす夜風へと目を向け、地面に突き刺さっていた竜槍に身を寄せ、体重を乗っけて凭れ掛かる。
奇妙な静寂に、ハンニバルは一頻り観察と確認を行っていた。
「ふむ……、魔力の源を絶たねば……、か。兵は揃えど剣は足りず、と言ったものかね」
大地は、黒い。
魔物が消え失せていようと、転がる石に、敷かれた土も、名も知れぬ雑草すら、黒いのだ。足元の黒は、魔力に浸り存在を変容させた成れ果てである。根本的な解決をするには、発生源を仕留めなければならない。
無尽蔵の魔力で、魔物を創り、世に純然たる悪意を振り撒く元凶を、だ。
「暫し、猶予は稼げはしたと見るべきか……否か……」
軍勢を前に進め、聖女達に結界を張って貰えば一時的に大地から黒を浄化が出来るものの、それもやはり堂々巡りではある。ハンニバルは腰に下げていた魔導通信機を手に、数刻悩む。
そうこう悩んでいれば、ハンニバルの傍らに息も絶え絶えな青年が降って来た。空中をなんとか歩んで、否、殆ど落下するように大地にぶつかっていた。赤い軍服を視界に入れ、水銀の剣を両手で握った青年になるべく柔らかい笑顔を向けた。
「おや、随分遅かったものだね、先に着地していると思っていたのだが」
「ご、御冗談を……、はぁ、……はは……凄いですね、っう……はぁ」
息を整え、クルスは剣を杖に見立てている。これもそれも、ハンニバルが空中で手を離したからだ。慌てながら、師の教えを必死に漁って、ほぼ墜落しながらも着地を行えただけである。何十万も存在していた魔物の濁流に、ぽっかりと虚を空け、英傑ハンニバルは立っている。
魔導通信機から流れる耳障りな砂嵐に思慮を流し、ハンニバルは若き英傑たるクルスを品定めしていた。
「――之より、全軍、前へ」
魔導通信機に呟けば、騒々しさが波紋となる。次第に、月夜に伸びる魔導照光器の柱。柱が数十は立ったか、背にする簡易拠点から兵士の軍靴が木霊する。耳を傾け、その音程にハンニバルは興を乗せる。
「若人よ、食事は暫し後となるが良いかね」
呼吸を落ち着けていたクルスは強く頷く。
「問題ありません。ですが、質問しても?」
「ほう。なにかね」
「深部への侵攻は一朝一夕ではないと心得ておりますが、先の様子を見るに、なぜ、足踏みなされておいでだったのですか?」
ハンニバルは、背凭れにする槍か杖かも分からぬ金色を示す。
「剣聖とは代えなぞあるまい、とは、総指揮者の言葉だ。とは言え、僕のように剣聖でなければ打破は不可能でもある」
「そう、ですね。となれば、今回の大規模作戦で剣聖方が主要になるのでしょうか?」
「であるな、段階を踏み剣聖が交代しつつ深部へと矛先を穿つ、手筈ではある。因みに、僕はこれから更に侵攻し、後、総指揮者から叱りを受ける」
はっはっはっ、と。快活に笑ったハンニバルにクルスは困惑する。
「何故……? 前線の一番槍ではありませんか」
「政治的な側面もあるのだよ、君。帝国の最大戦力であり、失いたくない有用な駒だ。あゝ、僕がそう思わなくとも、評価とはそうなるべくしてなるものだがね?」
であれば、と。ハンニバルは深部へ顔を向ける。遥か先には黒く波打って、拠点に向け迫っている様子が伺える。魔物の群れであり、背後から響く軍靴を掻き消す程に大きな雑音だ。奇声と肉が潰れる音である。雪国特有の雪崩より、雨量が激しかった山岳地帯の土砂崩れより、激しく、醜悪だ。
生き物ではない。知性とは、細部に宿るものだ。ハンニバルの煌々とした隻眼はなにを思っているのかクルスは慮りながら、剣を握る力が自然と増した。
「帝国としては失いたくはなく、然れど、投入はせねばならない。然るに、僕は最も安全な中央で『拠点防衛』と言う『鳥籠』で飼われるに至る。無論、不服だ。君の師、アイリスが僕の穴埋めをしているのだしな」
肩を竦めたハンニバル。
「師は気にしないと思いますよ」
「そうかね」
「それでも、ハンニバル殿のお心遣いには徒弟として礼を述べさせて頂きたい」
「そうかね、当人は誠に遺憾と言った態度であったな。アガレス流に述べれば『陽に語りき間もルシアを求めるは、左手を添えるに等しい』かね?」
「はは、では私から『アイリスは咲く、その手に』と、贈りましょう」
「くく、ふははははっ! 君からの言葉、忘れはせんよ。あゝ、しかと刻もう」
くくく、と喉を鳴らす。頷き、咀嚼し。ハンニバルは傍らの槍とも杖とも映る黄金を軽快に蹴る。足の側面で打ち、くるりと回ったそれを掴むと肩に回した。
「――ともあれ、軍靴響く戦地だ。いざ、一番槍を務めねばな」
「――手足らずではありますが、背はお任せを」
津波は、もう直ぐ。聳える黒波に恐れがないとは言わぬ。ハンニバルも、クルスも、魔物に恐れを抱く。
だからこそ、剣聖で英傑なのだ。
金色と銀色が混ざる。夜を彩る。
今宵は長き戦い、その一番槍なるぞ。