炭鉱の町Ⅳ
洗礼名セルフルクル・メルクマルクロスト。
公爵にして聖女。アガレス王国の大結界の維持を請け、日夜励んでいた。此度はシルトにて苦しむ民を憂い祈り手として奔走していたが、聞き逃すには厄介な噂を耳にした。
故に、彼女、セルフは経典を手に眼前の相手を伺う。
窓を閉め切った暗い部屋には、怪しく光る緑のランタンと、椅子が二つ。宿を借りた勇者は炭鉱調査に向かって、側付きであるアイリスも彼に伴ったので二人だけしか居ない。気不味い、どう話を切り出そうか。
子供が行おうとしたなにかを見定めなければならず、然し、裁かねばならぬ程に罪深い訳でもなし。セルフは経典を抱え直す。
「えっと……、自己紹介からしましょう」
ふんすっと、気合いを入れた。先ず第一に、相手を拘束したりするのは教義的に如何なものか、同時に勇者が考えなしに行動しないのも考慮する。初見、どう見ても勇者が子供を脅す絵面に異議を申し立てたものの、勇者の行動が極端なだけで間違いとは呼べない。
「うーん……、わたしは、セルフルクル・メルクマルクロストと申します。セルフ、とお呼び頂ければ……」
にこやかな笑顔でなるべく柔和に話し掛けたが、子供、と言うにしても年齢差は然程ないのだが、相手は椅子に座り直してどうにもらしくない顔だ。真剣な顔、緊張した顔持ちだ。勇者と対面していた時と変わらない顔に、セルフはやや内心引っ掛かるが、敢えて受け流して。
「あなたのお名前は?」
キャスケットを押さえ、じっと湿度のある緑の目。観察されている、良く見られている。目線が彷徨ったのは悩むから、考えが纏まらず逃げているから、だろう。セルフは自らの姿を反芻する、聖女らしく身を潔癖に清潔に純白に要塞として築き、何処から見ても正に聖女である。
少々、歩き疲れたのは仕方がない。普段は着ていないのに、勇者が挨拶をするなら正装だね、なんざほざ、言うので、一応持ち合わせていた正装に腕を通したのだ。服は重い、金の細工にシンボルがそうさせる。袖口の中にも刺繍があって、鮮やかだ。これは最上級の洗礼服として、魔法的、付与的な効果を考えての事だ。
教会から聖女としての階位を授かってからと言うもの、公的な場で纏わねばならなくなり、正直な本音を吐露すればあんまり着たくはない。セルフは、生来ぐぅーたらしたい女の子である。我儘な自我を勤勉に規律、戒律で縛っているだけだ。
「その……勇者様になにか、ご用があったんですよね?」
「……」
「勇者様は、ああ見えて凄い人で、優しい人なんですよ」
嘘ではない。強いて言えば勇者らしくはない人だ。
「……」
「……」
話し掛けた全て外れた感覚、ちょっと思案。指先を唇に当て、相手の気持ちをどうにか汲まんとする。
「……わたしはあなたを罰しはしません、それに、お名前だけでも……」
キャスケットに乗せていた手が跳ねて、また戻す。強く瞼を閉じたか、なにかを決意したようにキャスケットを脱ぎ去った。膝上に置いて、セルフと真っ直ぐに瞳を重ねた。
「勇者とは……凄いものなんですか?」
「そうですね、わたしの知る勇者様は五人いらっしゃいますが」
「五人……? 勇者とは、二人ではないのですか?」
「アガレス王国として公に姿を出した、となると二人ですけど。例えば白き勇者様、彼はとても頭が良いですっ」
自分で言っていて胡散臭い勧誘っぽく聞こえ、セルフは経典を抱える手を組み直す。
「ヘル様はいま、シルトにて復興に尽力しております」
「……勇者は、強い……?」
「……強いと言われましても、はい、としか」
勇者は引け目なしに他とは違う、のは当たり前だ。強さの基準は分からない、精神的に、それとも物理的に、或いは商いに、言い出せば切はないだろう。セルフの知る勇者達は誰もが一風変わっていて、新たな着想と推進剤となっている。特筆して白き勇者の彼と関わりを重ね、一つ気付いた事もある。
「勇者とは、常軌を逸して尚、正常な方なんです」
「……?」
理解に苦しむとばかりな顔に、ですよねと苦く流す。セルフからすれば言葉の通りだが、相手はそれすら知らぬものだ。会話したのも僅かであろうし、勇者はちょっとばかり倫理観をぶっちぎる方でもある。名も知らぬ子供を拉致して監禁しているのだから、それでも、セルフなりに逃がしたりする気はない。
詳しい話をどうにか引き出せないかと四苦八苦している。が、子供は椅子から立ち上がった。胸元にキャスケットを、礼を尽くす姿は、敬礼だ。片手を胸に、もう片手を背に、足並みを揃え革靴を鳴らす。
「先程までの非礼、謹んで詫びます。当方はキャロル・ヴェンデッタ、聖女様に会えて光栄の限りです」
大声ではないが、妙に覇気があって気圧される。
「……、えーと、キャロルさん。楽にしてください。人目はありませんし……」
キャロル・ヴェンデッタ、そう名乗った。キャロルは身を崩さず一切揺れなく立っている。セルフより背は低いのに、その立ち姿は妙に堂に入っていた。日頃から飽きるまでやり続けた者ならではの気配と風格は、幼さを払拭し、とある着想をセルフに抱かせる。
「キャロルさん、もしや……帝国軍人さんです?」
「はい、当方、第七魔動機連隊所属、キャロル・ヴェンデッタです」
敬礼だ。帝国式の敬礼である。セルフはあんまり馴染みはないが、知りはする。そも、セルフは聖女として各地に巡礼していたのだが、こうしてアガレス王国に長期滞在するのは大結界の維持が不可欠だからだ。
大結界はアースウェル全域に及び、気象の維持を行っている。無論、他にも聖女はいるのでセルフが固執してさえなければ定期的に国を渡っただろう。アガレス王国に居着いたのは実際数年だ。幼い頃に見出されてからは、女神教の総本山にて洗礼を受け、数年に渡り巡礼をし、そして今に至る。
「…………、はあ」
帝国の軍人には覚えはある、巡礼の何時かに会ったり見たりした覚えは、だ。深くは関わらなかったが、どうも帝国の軍人とは聖女を甚く敬う傾向がある。勝利の女神、でもあり、命を繋ぐ楔でもあるからか。
「聖女様、私は今回、軍人として派遣されております」
「えっとぉ、……整理しますけど。先ず……無断、ですよね?」
アガレス王国が許す筈もない、が、帝国軍人は悩むように唸る。
「此度、極秘裏に動いているのは揺るぎない事実です」
「理由は話す気になったんですよね……? 戦争はだめですよ……?」
「無論です。今回……とある方からの使者として起用された次第です。当方の任務はアガレス王国内に潜入し、アガレス王国にて召喚された勇者との接触を図りました」
「一人なんですか」
「はい。当方は一人です」
一々、身を正されてはセルフも肩が固まる。背筋の悲鳴に苦笑いして、経典をぎゅっとする。どうやら、キャロル・ヴェンデッタは帝国軍人であり勇者に用事があるようだ。
「使者、と言いますけど、裏には誰がいるのですか?」
「……、リリー様です」
「……、あの?」
「はい」
「……え」
リリー、とは即ち。リリー・ド・ヴィクトリアだ。大帝国の姫であり、王位継承権を持つ方で、聖女だからと容易に接する事も許されない。突然の告白にセルフは困惑する、何故、と。勇者に使者を差し向けるにしたって礼儀や作法があるだろうに、一人で向かわせるのは相応の理由があると最早明言していよう。
アガレス王国にも内緒にして接触を図る、その真意、意図をセルフなりに導こうとするも特に浮かばない。取り敢えず出来る事をしようとキャロルを見やる。
「勇者様が帰ってくるまでいてくれますよね……? い、一応、お尋ねしますけど……リリー様はなんとおっしゃって?」
「助力願いたいのです」
「具体的には、どのような? それは、アガレス王国が介入できない話なのですか?」
「これは……繊細な話なんです。極秘事項ではありますが、近々、帝国は荒れます」
「また、どうしてそのような……」
「死去されました」
「……、まさか」
「はい」
セルフは経典を膝上に置き、一息逃がす。ふと、なにかの気配。途端、爆風。身が浮く。
「きゃぁ!?」
「くっ! SHAS! SHASッ!」
セルフは床を転げた。ランタンが唐突な爆風で砕かれて、硝子を宙に回している。肌を焼く熱波に身を縮め、数刻したか。煙立つ部屋をセルフは見渡した、幸い怪我はない。洗礼服の強度は折り紙付きだ。
ドラゴンの息吹にすら耐える極上の一品に武装したのもあって、部屋の惨状に反してピンピンしている。視界が定まらない中、鼻腔を卑しく突く焼け焦げた臭いに顔を顰めた。辺りは、黒煙ばかり。
咳き込む前に袖で鼻を覆い、頻りに見渡す。キャロルの姿を探していたのだ。口を動かして、キャロルの名を呼ぶが、どうも耳は確りと機能してもいないのか、自らの声すら聞こえない。
頭痛は、頭をぶつけたからより爆音と衝撃によるものだろう。瞬きを繰り返しセルフはどうにか事態を掴もうとする。
「きゃぁ!?」
腕を引かれ思わず声が漏れた。ぐいっと力強く引っ張る影は、崩れた壁の山に身を押し込ませた。乱暴な牽引者の手を弾き、漸く止まる。黒焦げの視界は、次第にチラチラと朱を帯びていた。火、であろう。椅子やベッドが燃えている。
「当方ですッ、どうか御身を任せてッ」
振り払った手が又もや伸びて、物陰に身を転がす。白かった服は見る見る内に煤けて、充満する異臭や煙に咳き込んだ。そんなセルフの姿を一瞥し、キャロルは慣れた素振りで物陰に身を埋め、懐からごつごつとした無骨な金属を取り出していた。
「SHASッ! G´IS! 勘付れたかッ!」
回転式の拳銃を片手に、蹲る聖女を庇いながら悪態を吐く。床に散らばった鏡の破片に気付くと、拾い上げて物陰からそっと出す。炎に包まれつつある部屋が鏡の破片から伺えるが、人影が見当たらない。
「聖女様っ、お怪我は?!」
「あ、ありませんけど。ありませんけどー!」
「どうか、落ち着いてくださいッ」
一通り鏡の破片で周囲を伺ってから放り捨て、キャロルは空いた手で震えるセルフを宥めに掛かる。経典は、椅子の側で燃えていた。手を合わせ、寄る辺がなさそうな手を握る。
「大丈夫、大丈夫です。当方が御身を死守致します」
「な、なにが起こってるんですかッ?!」
「襲撃です。恐らく他派閥からの」
焼け落ちる木に舌打ち、キャロルは逃走経路を確認する。駄目だ、セルフを連れて行く道が見当たらない。銃器を手に、恐る恐る物陰から身を出す。火の手が迫って来ている。熱波は、じんわりと汗を滲ませて、目に触れ視界がぼやけていた。袖で乱雑に拭う。
キャロルは鍛えられた軍人だ。然し、セルフのような服を着てはいない。先程の爆風から辛うじて生還したものの、節々の鈍痛が進行形で蝕んでいる。とは言え、長居しようにもこの火の手が問題だ。
じわりじわりと呼吸も苦しくなっているし、言い方はあれだが荷物がある。逃走経路を探していれば、倒壊しそうな扉が目に付く。
或いは、と、聖女の纏う衣装を確認する。女神教会の中でも特注の、最上級の代物だ。
爆風や、熱波を受けようと完璧に身を保護する代物。扉に向かうのは愚策だろう。爆破された部屋は思ったより被害は少なく、間近で食らった己が生還しているのもあってキャロルは逆に訝しむ。安易に廊下に出るべきではない、伏兵の可能性を捨て切れない内に愚かそうな選択をするのはあまり気分が良いものでもない。
「聖女様、詳しくはこの窮地を脱したら必ずします」
「そ、そうですか!」
ならばどうする。
窓を注視する。目算もなにも、高所かも分からない。分かるのは、聖女が丈夫で頑丈である点だけだ。
「ど、どど、どうしましょう!?」
火の手が更に増している。
肌を痺れさせる熱も聖女からすれば大した被害はなさそうで、聖女の手を引きつつキャロルは思案を巡らせる。勝算はあるだろうか、否、今からでは後手となる。後手ならば、どうすれば覆せるか。相手の予測を上回る方法を取るしかないのだ。
勇者とは常軌を逸しているらしい。常識を覆す方法。
窓から聖女をぶん投げる。
うろちょろする碧眼は、心配と不安がせめぎ合い潤んでいる。心配とはキャロルへ、不安もキャロルへ。自らの身より他者を思い願う姿は聖女らしく、故にキャロルは覚悟を決めた。窓から投げるにしても、空気の逃げ場だ。
よちよちと近付けば火に呑まれ、焼き魚みたく口をぱっくり開けて終わりだ。第一、尊き方である聖女をぶん投げるもどうかと思うのだ。
「SHAS!」
そうこう悩んでいる時間もない、頭上から降り注ぐ焼けた木片に目を細めた。腕に掛かった火の粉を跳ね除けて、聖女を牽引する。
「聖女様は空を飛んでみたいって思ったことは!?」
「あ、ありませんけど!?」
「なあに! 存外爽快やも知れません!」
「あ、あのー! 分かっちゃたんですが! わたし! キャロルさん! ま、待ちませんか! 考え直しませんか!」
背丈は勝るが、膂力は負ける。子供に引き摺られ顔を引き攣らせる聖女は、頑なだ。
当然だ、当たり前だ、なにをトチ狂ったのかと問い質したい衝動は焦燥となって顔に現れている。
セルフ、聖女は知っている。此処は、この部屋は四階だ。町興しの一環で、他では類を見ない程に高く設計されている。最上階となるこの部屋は、そりゃあもう高い。王都でもこの高さの建築物は稀だ。
理由は勿論、宿屋で其処まで高くする必要がないのと、王都の風情法案にて教会及び王城の品位を損なう建築を禁じているからだ。この大本の由来は神なる銀黒が街並みを設計し、大結界に悪影響が出るからだ。故に王都での建築は厳密に協議され許可を貰わねば建築すら不可能となっている。
ともあれ、そんな制限もない炭鉱の町では高さによる安全性は普遍的な基準にはなく、ともすれば手に入った安心感とも仲違いし不変的ではなくなるものだ。
セルフの焦燥に、やけに熱狂した牽引が押される。キャロルのなにか確信めいた狂信は、狂った程に信仰して止まないセルフからして気後れする圧力となっていた。手を引かれれば力負けするし、説得を試みて言葉を選り繰っても事態は悪化の一途を辿る。
辺りは猛火に染まる。木造とは斯くも脆弱であったか、セルフの碧眼の右顧左眄っぷりは上々にして中々であった。腰ベルトに回転式拳銃を押し込み、諸手を自由にしたキャロルには成す術もなく、ひょいっと持ち上げられた。
「しょ、正気ですか!? 女神様も猜疑の眼差しを向けよう行いですけど!」
「正気です! 正気ですから!」
正気ならば血眼にはならまい、と。セルフだってこれまでに培った疲労で血眼だ。顔を照らす火に、目を焼かれそうで。チリチリと髪先が燻る音色は実感を与える。火とは恐ろしい。
「だからって、投げるのは如何なものかと!」
「自ら進んで飛び込める胆力がございますか!」
「ある訳ないでしょうに!」
「ならば当方に従って頂きたいッ!」
「女神様はあらゆる罪を赦すでしょうけど! 不本意! 絶対、不本意! あゝ! 神よ!」
「舌を噛まないよう閉じて!」
一層強く。踏み込んで、背負い投げの要領で聖女は放り出された。窓硝子はとっくに砕けている、が、枠はある。
「あゝ神よわたしを――!」
遠退く祈りは残響し、枠を砕いて、残っていた硝子が舞う。キャロル・ヴェンデッタは勢い余って落ちそうになって、慌てて後ろに転げた。火が衣服を焦がし、咄嗟に身を跳ね起こす。
腰に差した回転式拳銃を引っこ抜き、正眼に構えると小さな身丈を更に小さく小さく屈める。聖女の安否は天に祈り、自らの脱出経路である扉を凝視する。物音はない。素早く身を走らせ、燃えつつある扉を蹴破った。
蝶番の高い音色と、扉が床に沈む音。埃より、火が押されて寄せる風景は、宛ら海で背丈を伸ばす波のようだ。朱の視界を探り、カーペットの敷かれた廊下に転がって。足早に、なるだけ迅速に構造を把握する。
広い、廊下は走り回るには十二分の長さはある。宿泊施設にしたって大き目である。奥に伺えるのは階段であろうか、手摺らしき影を見付け歩を出す。キャロルは左右の、開かれていたり閉じられていたりする扉に意識を向け、警戒を強め前進する。火の手が他の部屋からも迫っているのを鑑みるに、他の部屋でも同様に発破された可能性が高い。
複数人の犯行だとすれば、火の手の回りに納得出来るか。否、それでもあんまりに早い。覗き込んだ部屋に取り残された人影はなかったが、火は部屋を満たしていた。下手に覗き込むと前髪を持って行かれそうになる程だ。キャロルの勘は警鐘を鳴らしている。依然として姿は見付からないが、必ず、なにか行動を起こす。
朱に対し緑を光らせて、ほんのりと温かい回転式拳銃を握る力は徐々に強くなる。
「SHAS……」
スラングが口からおちゃらける。キャロルは階段に辿り着いたが、階段には椅子や家具が山のように積まれていた。ご丁寧にも炎のオマケ付きだ。硝子も用意周到に撒かれており、ふと、閃く。
「そいつ、どうやって……?」
二階相当、ではないのを今は知っている。聖女をぶん投げた際にやっとこさ気付いたのだ、やっちゃったなんて思う前に投げ捨てたのだが、キャロルはだからこそどう逃げたか見当が付いた。階段は端に位置する、その一カ所しか昇降可能な経路はなく、火の手は奥の部屋の方が激しい。
階段側の方が緩やかであるのだから、要約するに。目に付いた扉、一番階段側の部屋だ。罠、か。否、罠だとしても道がない。
「……うぅ、SHAS……」
気持ちは無視する、助走を、加速を、身体に更なる質量を与えて扉をぶち破った。部屋に転がりながら、回転式拳銃の銃口を部屋奥に。人影、躊躇う事なく発砲した。
撃鉄に叩かれた弾丸は、極小の魔石が弾け、中に詰まった術式に引火する。血管のような模様に霊力が迸ると、忽ち、術式は充分に効果を発揮し、楔形の弾頭が射出される。空気を引き裂き、乾いた炸裂音が鼓膜を叩く中で、キャロルは定めた銃口を横にズラす。
人影、本当の意味で、人の影が壁にある。壁を動く人影に弾丸を食らわせたが、貫いたのは木造の壁面、僅かな弾痕しか得られはしなかった。
火で照らされ、生じた影を撃ってしまったのだと。刹那、回転式拳銃が手から離れた。強い衝撃だ、真横から伸びた足が蹴り上げたのだ。床に重々しく落下した回転式拳銃を横目に、背に片手を回す。尻を弄れば、其処には硬質な柄。片刃のナイフである。
身を低くし、蹴り飛ばして来た相手から距離を置く。部屋は幸い、火に包まれてはいなかった。
「……、何処の派閥だG´ISッ」
「言う訳にはいかんだろ?」
アガレス王国の鎧に身を包む男は、慣れた手付きで回転式拳銃を拾い銃口をキャロルに向ける。距離は、数歩。じとり、と粘性のある汗が背を伝う。暑さは、血管の中を泡立たせている。暑さだけではない、胃を締め付ける張り詰めた気配は、男から滲む殺意に他ならない。
空気が錆び付いたように軋む。訓練された人間だ、それも人に対して。腰に下げた剣は飾りではないだろう。魔導師か、それとも。正体を探りながら、どうしてか発砲しない男を不審に思う。
「G´ISッ」
「……なんて言葉使うんだお前は。俺に娘がいたらお前くれえだぞ? 教養がねえな」
「ぁあ? ――――! ――! ――!」
「……おい、酷すぎるぜ……。まあ、良い。お前こそ、誰の下にいる?」
「……、今更なにを言ってやがる?」
銃口を向ける男は肩を竦め、傍らの書斎机に腰を預けた。目は、警戒したまま、鋭利で冷淡で、暗鬱だ。汚泥に浸かった鈍い眼は、本能に訴える。気持ちが悪い、人を数として捉えた者特有の眼差しだ。キャロルは嫌な記憶が生えて、その芽を切り唇を噛む。
「……お前が、まあ、聖女や勇者に接触するのを見てるだけにはいかんのよ。俺だって仕事だ、出来れば女子供をやりたかねえ」
「なら、それ、返せよ」
「嫌だね、お前さっきからナイフを隠して、狙ってんだからよ。仕事は仕事だ、汚くとも誇れんでも仕事っつーのはやらなきゃならん」
分かんだろ、と追記。銃口は眉間を狙い、脱力したように偽装し真意を探っている。何処の派閥か分からないから、確定していないからだ。強行策に出たのは緊急性があり、尚且つ判別が出来ないからだろう。彼等の予想外は、恐らく。
キャロルは噂話や事態から解釈し、推測を立てる。
「はー……勇者たちに焦ってんな?」
「……」
銃口が近付いた。曲がっていた肘を伸ばしたからであろう。顔は笑っていたが、目は死んでいる。
「勇者が来るのが想定外……、にしたって、こりゃあ雑だろ」
「お前が言うのか、それを。俺は計画的で、お前こそ杜撰な行き当たりばったりだろうが。ええ?」
書斎机で寛ぐ男はせせら笑う。キャロルは身体の位置、重心を僅かばかり動かした。男はそんな些細な動きにも気付き、眉を上げる。
「所属を言え、誰がお前をよこしたよ?」
「言う訳ねえだろ。お前こそ逃げたらどうだ? 火だって何時までも待ってはくれないんだ」
「……なんでガキに言われなきゃなんねえのよ。俺が言いたいわ。お前こそ、とっととゲロって潔く死ね。軍人なんだろう?」
「任務を前に職務放棄する軍人はいねえよG´IS!」
「きったねえ台詞だぜおい。状況分かんだろが。この距離をどうにか出来る訳ねえよ、コレ相手にゃあな」
回転式拳銃をこれ見よがしに翳し、ふわっと甘い香りに男は目を。
「キャロルさん、とはどちらですか?」
侍女が、二人の間に瀟洒に佇んでいた。キャロルはすかさず、即座に声を上げる。
「はい!」
挙手した。造次なく、間隙なく、アイリスは全く汚れのないヴィクトリア式のメイド服を靡かせ、銃器の前に立ち塞がっていた。
「ッ! 水銀ッ!?」
ドンドンドンドンドンッ。
男の回転式拳銃が吠える。
眩い閃光は五発繰り返し、がちりがちりとトリガーの音だけが虚しく響き続ける。
アイリスは、真正面から銃弾を浴びていた。胸元に、五発受けたのだ。それも、その手にある回転式拳銃は術式を纏い発射されるもので、厚さ五十㌢程度の鉄板なぞ歯牙にも掛けない貫通力を発揮する代物だ。
代物だったのだが、ポロポロと言った効果音でもしそうな程に、床へ転がる弾頭。落ち着いた瞳が最後の一つを追い、そうして不思議そうに小首を傾げた。
「ふざ、ふざけるなよSHASッッ!?」
「ですから、何度も申し上げておりますが」
銀色の量子がチラついて、瞬くと瞳の奥にゆったり消えて行く。
「弱くなったんじゃなあおぐぁ!?」
回転式拳銃を握る手を、優しく握り、鉄の塊である回転式拳銃すら巻き込んで手を握り潰しつつ。紅い血が夥しく溢れても、気にした様子はなく、アイリスは痛みに悶絶する男を冷静に観察していた。
「事実、私は全盛期の力を出せずにいます」
ぐぎゃり、歪な、骨肉金属が混ざる音。
「アギぁああぁあッッ!?」
血が圧力で、指の隙間から噴出する。冷めた目だ、途方もなく、途轍もなく、遥かに、果ての果てまで熱のない瞳だ。男の野太い絶叫なぞ、そよ風でしかなく、茶の瞳は憂うかの如く伏せられた。
「然し、今の私が弱いとも限りません」
霊力も感情の昂りで少し過る程度、生身だけで大勢に勝るアイリスは突き抜けた膂力で男の右手を粉砕し、手をぱっと離した。真っ白な手に紅は酷く映え、床に雫を落としている。ぶんっと、振るい、血を捨てると慎ましく前側で手を重ねる。
見た目は侍女でしかない、だが、キャロルはこれが水銀なのかと妙に納得した。帝国まで轟く名だ。比類なき化け物。
「――所で、そう。聖女様を窓より投げたのは、あまり褒められる行いではありませんね」
表情の読めないメイドに咎められ、キャロルは萎縮する。銃器の通用しない人類に、真っ向から顔を突き合わせる気概は流石にないのだ。キャロルの様子を見てか、アイリスは静かに息を流す。
無事に間に合ったものの、一体なにが起きているのか全体を把握出来てはいない。燃え盛る宿屋も、この男も、或いは聖女を助けたキャロルなる子供も、なにかが厄介にも絡み合っている。
竜の噂と関係があるのか、はたまた別件か。いずれにせよ、アイリスのやるべき事に変化はない、淡々と粛々と主を守り側に控える事だ。メイドとしての心得である。
「は、はははッ。い、いいのか水銀ッ!?」
片腕を潰された男が喚く。アイリスは目線すら向けなかった。そんな風体に苛立ち、男は声を更に荒げる。
「きいてんのかお前ッ! 聖女はどうしたッ! 俺は一人じゃあねえぞッ!」
指先が立つ、口元に当て黙るようにと示す仕草だ。不意の動作に男は呆気に取られたが、憤怒を思い出したのか潰れた拳でアイリスを指す。
「てめぇなんなんだッ! 聖女がどうなったってもいいってのかッ?! あぁッ?!」
「そう、申されましても……。道中、四人でしたか……? 既に捕獲しておりますし」
「……、四人……」
男は急に黙った、いいや、先程まで怒りに任せ吠えていた姿こそが演技だったのであろう。人数を聞いたと同時、男の顔から表情は失せ軍人らしい顔付きに、目には確りと理性が芯になっていた。
「……そうかい、そりゃあお手上げだわな」
「後一人、いましたよね」
アガレス王国の脱走兵に扮していたのは六人だ。
「そうだな?」
乾いた笑いを顔に貼り付け、男は出血が続く手を一瞥する。もう片手で止血はしているものの、時間の問題で身体機能に著しい支障をきたすだろう事に言葉は不要だ。
「素直、ですね?」
「あんたには分からんだろうが……人ってのは怖い時には素直なもんだぜ……? 銃弾すら、ほんっとに……通らねえんだからよ」
同じ人間なのに、とでも続けそうな物言い。それは呆れのようで畏敬でもある。男は無駄に体力を使う抵抗こそ止めたが、アイリスはその潔さにささくれを感じ取っていた。過去を振り返れば少なくない話ではあるのだ、化け物と評する他者からの思いに四苦八苦して、耐え切れずに嘔吐する日々だってあったろう。
期待に押し潰されながら、流血だけが恩に報いる方法だったあの頃と同様である。別段、強いて挙げる話でもなし、軽く流すべきでもある。
「……勇者は、赤竜を倒しちまったな?」
赤竜は勇者達が討伐したと世間に広められている、これはアガレス王国の政治的な判断も含まれた結果だ。赤竜を討伐出来たのは勇者、特にウェンユェの功績が確かに大きい。唯、決定打は水銀である。
本来ならば帝国の遥か先、黒き大地にて剣を佩く英雄がロスウェルに終幕を与えたのだ。アガレス王国は英雄と勇者の双方を持ち上げつつ、勇者をなるだけ推している。赤竜の討伐は勇者と英雄の物語なのだ。
流血、意識が混濁し始めている。頻りに襲い来る眠気と戦う瞼を擦り、男は苦く犬歯を晒し笑う。冷や汗と、胃をざらりと舐められるような吐き気、視界が霞に掛かって輪郭も曖昧だ。
「貴方は罪を吐露し、刑罰の軽減が可能な立場にあります」
キャロルは悠長に話すアイリスを見やって、背後を伺う。壊した入り口から、遂に、黒煙が入って来ていた。天井を黒蛇のように這いつくばって、蜷局を巻いている。視線に気付いたアイリスは、背にしていた窓を示す。
どうぞ、と言外に言われれば、窓に近寄るしかない。窓から身を乗り出し、無理だろと引っ込める。
「どうやって上がって来たんですか?」
「走って、ですが……?」
「垂直ですが……冗談ですよね、ロープとか……」
「……いいえ?」
「……、本当に?」
「左様で御座います」
帝国でも水銀は有名だ。堕ちた星と揶揄されようとも、傑物であるのは昔も今も変わらないのだ。これで弱体化しているのだから全盛期はさぞ常に有らざる英傑だったのだろうが、キャロル・ヴェンデッタは綴る思考を切って。
「とにかく、……脱出に助力を願えますか」
「……?」
窓から外を見れば、人集りが目に止まる。その中には煤けた聖女の姿もある。なにかを叫んではいたが、宿屋が燃焼する騒音や野次馬の声に掻き消されていた。高いには高いが、問題にはならないだろうとアイリスは再び首を傾げた。
「帝国軍人でありましょう?」
「誰を、基準にしているのか分かりかねますが、当方では、足が折れてしまいます……」
「左様で御座いますか」
得心が行かない顔をして、有り体の言葉を選るならば浜に打ち上げられた魚のような、満身創痍な男を見下ろす。襟首に手を伸ばしつつ、アイリスは。
「では、投げます」
と、簡潔に回答した。
方法を相談する間なく、胸元に伸びた手。
「え、ま」
信じられない膂力でキャロル・ヴェンデッタは空を飛んだ。それは、きっとアイリスなりの意趣返しだったのだろう。
アイリスさんの握力は余裕で数十㌧出せるんです。冗談みたいですが、ガチなんです。どっかのバッタなライダーも驚きですね。
霊力はパワー!