炭鉱の町Ⅲ
昼過ぎ、日暮れまで体感三時間程前になる。僕はアイリスさんを傍らに、炭鉱の前にいた。切り立った崖にぽっかり空いた穴は巨大で、一つだけでなく幾つか存在するようだ。作業員達の目はあるが、お偉いさんの見学だろうって風体である。
僕は真っ白な服で、斜め後ろにはメイドさんが控えているのだからそんな目を集めるのも不自然ではない。魔動機が地響きをさせて動いて行く、身丈を優に超える重厚な金属は、赤い魔石照明を吊る下げて警告を発している。
操り手の屈強な男と、これまた赤い魔石照明を振る先導者。声を張り上げ炭鉱へと侵入する魔動機は浪漫があった。僕は男の子なのだ、良く分からないレバーをガチャンガチャンとシフトさせ、ペダルなりを踏み込んだりするのは見ていて飽きない。日本で見掛ける建設業界の人達なら使いこなせそうだし、僕もなんなら操縦出来そうだ。
「気になりますかい?」
真横から声が掛かった。振り向けば、身長は百七十はあるだろう熊みたいな中年男性。鼻下に乗っかるちょび髭を撫でていた。
「そうですね、魔動機は珍しいですから」
「ええ、そりゃあそうでしょうとも。ウチで使ってるのは合計三機なんですがね、今坑道に入っていってるのがラルヴァってんです」
ごうん、ごうんと四つ足が器用に可動している。魔動機の全体像は大きな蜘蛛みたいで、寧ろ巨大な蜘蛛に掘削機を乗っけたような形をしている。
「ラルヴァですか……それってあの人達由来です?」
ラルヴァと呼ばれた魔動機の横合いで小さな、そうだ、子供達がうろちょろしていた。一見はそうだが、彼等は古来人種である。人間社会に溶け込み共に生活するコミュニティだろう。
「そうですな、彼等みたいにちっこければ尚良かったんですがね。っと、失礼……名乗り遅れましたな」
すっと出された手を握り返す。作業服姿は清潔で、手も綺麗だ。
「ワシはロゴルってんです。旦那の案内を頼まれましてな。少々きたない所になりやしますが、見ててあきないでしょうよ」
「はい、宜しくお願いします。ロゴルさん。さっそくなんですけど、ラルヴァって魔動機はアガレスで造られたものですか?」
「いえ、ありゃあ帝国ですな。ちょいと弄ってはいやすが、ウチにある三機は帝国から買い取った魔動機ですぜ」
「高いです?」
「そりゃあもう、たけぇですな。あ、もしや旦那……買いたいって口ですかい?」
「運転してみたいって感じですね、僕も男なんだなって思ってます。あ、難しいでしょうから流しても良いですよ」
「うーん、そうですかい。相談してみやす……。そんで、旦那は何処から見やすか?」
「その前に、ロゴルさんってここでは長いんですか?」
不思議そうな顔をされた。
「あぁ、そりゃ長いですが……。ワシは現場総括させてもらってやすからな」
「そうですか……その、坑道に棲む竜とかって知ってます?」
「いやぁ……二十年は働いてやすが、耳にはしませんな。竜ってもんは人里には近寄らんですから、それに……旦那達が倒しちまった赤竜の縄張りってのもあるんですがね」
「はあ、こんなにも遠いのに縄張りなんですね?」
「じーさんが言ってたままなんで、ワシもよー知らんので。実際……竜ってもんを見とらんですから」
布を巻いた頭を叩き苦く笑い、ロゴルさんは腕を組む。竜が居ないのは強ち間違いではないのだろう、と。確かに、竜はぽんぽん現れる存在ではない。普通は馴染みがないものであり、知ってはいても対面する事も基本はない。正に熊みたいなものだ、特定の地域でなければ遠くに竜が飛翔する姿を拝めはしないだろう。
となると、竜の正体は竜ではなく、竜っぽいなにかになるのだろうけれど。
「……旦那?」
「ああ、すみません。考え事をしてました。所でロゴルさん、行方不明が相次いでいる坑道はどちらになります?」
「そりゃ……あれですな」
顎で示したのは、木の板で塞ぎ、簡素ながら扉も付けられた入り口だ。他の坑道とは違って少し縦横が狭く、人が並ぶと五人位しか入れなさそうな大きさだ。
「行方不明になった時期は?」
「……ちょいと前になりますな。捜索したんですが、見つからんのですよ」
「そんなに複雑な地形をしているんですか?」
「いや、簡単ですよ。真っすぐ行ったら、奥に地底湖がありまして、そんで池が出たもんだから掘削を中断してるってんです」
「地底湖ですか」
「ええ、掘ったのは随分前だったんですが、何人かの新人が迷って入っちまったんでさ」
「で、皆さん見付からないと」
「ええ……」
当時を思い出したのか顔色が悪くなっている。だが質問には答えようとしている様子だ。炭鉱を見ていた眼差しが僕に戻った。
「探すってんで入ろうとしたら、青い光に、竜みてえな声がするぅ、とかなんとかで。実際は奥にいっても……なーんも、なかったんですがね」
怒りとも悲しみとも取れぬ言い方だ、理不尽や不条理ってものは人を狂わせるものである。殊更、相手が存在しない場合は特に。腹の底で行き場のない淀みが、気付けば己の肉を突くようになる。ぶつける相手が存在するだけ救いでもあるし、幾分かはマシだ。
とは言え、貴方の娘さんは殺されたので恨めるだけ良いよね、みたいな無神経にして終わってる台詞なんぞ口には出来ないだろうけれども。
でも同時に、僕は思うのだ。
向けるべき矛先が存在し得ないのは耐え難い苦痛を伴って、しかも自己を苛む事だって出来なかったら、もしもそうなるしかなかったなら、一体、ソイツはどうなるだろうか、と。
碌でもない話ではある、記憶にもある話だ。
「坑道は暗いでしょう、地底湖で溺れた線もあるのでは?」
「そうだったとして、ワシらには確認が出来ねえですからな……」
「ランタンって防水する必要が……?」
魔石を動力にしているのに、有り得るのだろうか。家電ではないのだし。
「いんや、地底湖に入れねえんですよ」
「はあ……」
毒だろうか、まあ、何かしらの有害物質が含有されていて手出しが出来ない、と言う感じかな。防護服はなさそうだし、魔法とかで解決するにしても一般的に魔法や魔術ってものは貴族しか使用出来ないから、どうにも手段もなし、か。
ともあれ、実地調査はするべきだろう。
「現場の案内して頂けます?」
「え、えぇ……その格好で、ですかい?」
アイリスさんや僕を見て、ロゴルさんは心配したようだ。だが、洗礼服の優れた点は衝撃吸収だけではない。なんと汚れにも強く、比較的綺麗なままを維持する。細かい原理は知らないけれど、これがまた便利なのだ。カレーうどんとか食べたとして飛散した汁に悩むなんて事がなくなる、革命的な服だ。浸すのは流石に厳しいだろうけれども。
アイリスさんは、まあ、うん。大丈夫だろう。スカートを地面に擦らせるヘマをするようには思えない、樹技の合間を散々歩いて綺麗な人なんだし。故にロゴルさんの心配は無用なのだ。
「このままで大丈夫です」
「は、はあ……なら、案内しますが……コケても知らんですよ?」
ロゴルさんはそう言って、傍らの板に掛けられた名札を引っ繰り返し、ランタンを片手に歩を進める。腰に下げた鍵の束を弄り、小さな鍵を取り出すと簡素ながら戸締まりされた扉を開く。
引かれた扉の奥は、光もない暗黒だ。風向きはほんの僅かに内に向っているように思う。
「そんじゃぁ、足元にきぃつけてくださいね」
ランタンの白い光を先陣に、僕達は炭鉱の内部へと足を進めた。鼻腔を突っつく臭いは不快になる程でもなく。僅かに残るのは火薬っぽい臭い、朽ちた木の臭い、それと湿った土の臭いだ。香りより気になるとすれば、一歩踏み込む度に肌に触れる空気が冷たくなって、足首辺りは一層冷えている事だ。
当然、日陰だし土の中だから気温も下がるだろう。洞窟の壁を見やれば等間隔で木による枠が整列し、崩落防止策が講じられている。木の腐食も問題となる腐敗率でもないし、組み方だって下手でもない。
ランタンに照らされ薄暗い洞窟も、足元には時折水溜りが伺える。天井から落ちて来たのだろう。
「此処を掘ったのは、厳密には何時頃です?」
「三年前、ですかねえ。そんときゃ入り口を塞いでなかったんですが、もっとしっかり塞いでりゃあ……」
新人達は死ななかっただろうか、と。口にするまでもなく僕は耳にした。特に返せる言葉もないし、労う立場でも、咎めたり哀れんだりする立ち位置でもないし、かてて加え、たらればってものに首を突っ込んでも碌でもないので黙ったまま背を追う。
アイリスさんは足音すらさせず、ぴったり僕の斜め後ろ、適切な距離と角度を維持している。涼やかな顔とは裏腹に、普段見ない風景に興味があるのか壁や天井に視線を揺らしている。目をキョロキョロさせている姿は新鮮で、ちょっぴり可愛い。
何時もはスンって感じだし、興味深そうな様子に若干惹かれる。
「ロゴルさん、あれは?」
指差したのは壁だ。最初こそ暗闇ばかりであったがランタンの白い光に晒された壁面は次第に様子を変えていた。最初こそ湿気による反射だと思っていたが、どうもそうではないらしい。近付いて見れば壁面がじんわりと発光しているのだ。
「んあ? そりゃあ旦那、ここは魔力結晶の産地ですぜ?」
なんぞ呆れ顔だ。肩を竦めるロゴルさんの説明を掻い摘むと、魔力結晶とは鉱物資源に魔力が長時間蓄積され、変質した物らしい。故にか、鉱物の種類、浸透した魔力属性に伴って様相は違う。この鉱山では遥か昔活火山でもあったのか、希少な鉱物なりが多く産出され、特筆して金剛石、詰まりダイヤモンドが多い。
ダイヤモンド自体の価値も高いが、そう言った宝石は魔力の浸透率や蓄積量が多く重宝されている。アガレスはそれでも地下資源に乏しい側らしいけれども、なにはともあれ、光る原理は微量の魔力を放出するランタンに呼応し、同じ属性の魔力が引き寄せられるからだそうだ。
「ランタンが原因なんですね」
「このランタンにゃあ、白、つまり光属性ってのが多いんでさ。だから壁も白く光ってるって寸法です」
「ふうん……」
なら、青白く光る洞窟の謎はランタンではないだろうか。いや然し、外に溢れる程の光量ではない。ふと、アイリスさんを見る。目が合った。不思議そうにやや頭を傾け、瀟洒なメイド様は僕が喋るのを待っている。
「アイリスさんって、えっと……なんて言うのかな? 属性ってやつ? なに属性になるんです? クルスさんとか銀色だったじゃないですか」
アイリスさんは暫し目が迷い、考えている。人差し指が回れば、銀の量子が舞った。白でもなく、黒でもなく、灰でもなく、銀である。その指先に翻弄されていれば、歩き出さんとしていたロゴルさんがぎょっとしたように。
「あんたぁ、まさか……!」
「ん、なんですロゴルさん?」
「いや、銀……だよな。銀……女で銀…………、アルファノス・テアンに、まさかぁこんなトコで会えるたぁ……」
頭の布がズレていた、のを直し直しロゴルさんは嬉しそうに語る。どうも水銀ってのはアガレス王国で特別らしい。憧れを見付けた子供みたいな中年にやや引きつつも、僕だって可憐な指先がくるくる回る姿に釘付けだ。
爪も綺麗で、肌も染みもなく、細くて繊細で、柔からかな動作にぐっと来ている。銀の量子が空間にじんわり色を添えていたけれど、壁面は銀に染まる訳でもなかった。聞いていた話と違うな、霊力に反応するならば銀にならなければ辻褄が合わないのだけれど。
「んー、銀って珍しいものなんですか?」
「そ、そりゃ珍しいでさ! アルファノス・テアンしかおらんですからな!」
「ふうん……」
生産者の話、属性としてこの世界に存在しないと言う可能性に付いて考察すべきだろうか。この世界には霊力、魔力、エーテルと様々な呼ばれ方をするが未知のエネルギーが満たしている。人々のみならず魔物ですら霊力を宿しており、必要不可欠な存在だ。
なれば、霊力とは一体なんだろうか。レイちゃんやガランシャッタちゃんにでも教われば良かったかな、あんまり興味がなくて無知ではある。霊力には種類があるだとか、属性があるだとかは知ってはいるけれど、霊力の正体には詳しくはない。
少なくとも僕は霊力って奴を知らないし感じられない。なくたって生きてるし、困ってもいないのだ。現に、一部を除いて市民からすれば魔術や魔法とは疎遠である。それもこれも体内に保有する魔力だか霊力だか知らんが、少ないからで、少ない事による弊害にもとんと見当が付かない。
霊力は必要不可欠とは言うけれど、そんなに必要そうではないし、あると便利なのは否めないけれど、僕基準だと今の所は困ってはいないのだ。
一応魔力が多いと肉体的に優れた力を発揮する、らしいし、アイリスさんとかみたいになるらしい。物理法則に従っていないような頑強さも膂力も魔力有りきの話であるけれど、霊力とは存外万能なエネルギーであるのだろうか。
僕には全く感じられないが、なんとなく外付けの追加バッテリーかなと考えている。
「私の霊力性質は極めて特殊ですので、属性で言うなら……無属性に近しいのではないでしょうか」
「属性がない?」
属性がない属性、要するに出力される際に属性って言う添加物が入っていないのだろうか。
「属性に付いてご説明致しましょうか」
僕を見て、アイリスさんは提案する。軽く頷きつつ、ロゴルさんを先頭にまた歩を踏み出した。直線の道には金属の棒、レールであろうか。足元が暗いので気を配りつつ、アイリスさんの抗議に耳を傾ける。
「属性とは、その属性に準じた性質をもたらす要素です。大別すると陰と陽に区別出来ます」
「ふうん。太陽に月とか?」
「はい」
「ん? それで、属性って結局どうなの?」
「属性は、そうですね……火や水、風、地と呼ばれるものがあります」
「アガレスだと地が一番ですかねえ? 魔力結晶なんかも地属性が多いんでさ」
な、おっさん。入ってくるなよ、道案内だけしてろや。と、口には出来ないのが僕なので、流れに身を任せる。奥に進むに連れ、少し冷えて来た。レールの凹凸は規則的な罠ではあるけれど、ふらふらしなければ足を引っ掛ける事もない。
時折、使用されていないトロッコが枝分かれした窪みに収納されているのを伺いつつ。
「地属性ってなんなの?」
「地属性でさぁ旦那」
いやだからなんだよ。風とか火とか水とか地ってなんだよ、物理法則として説明して欲しいんだけどな。もっと理論的に且つ論理的に、学術として。地属性だよ、と言われても全くピンと来やしない。なんなんだよ、四大元素だぜ、とか宣う気か。
火はまあ、分からない事もない。風も縦しんば許容しよう。水は、まあ良いとして。地ってなんだよ。原子の事か。
「地、とは厳密には土や大地ではなく、万物の原子に親和性が高い霊力因子です。或いは、物質の状態です」
アイリスさんの口から軽やかに専門的な用語が並べられ、翻訳奇跡を貫通しそうになったが、僕は公用語、或いは公共語に精通しているので自己解釈を改めて行う。一考、後。
古代原子論みたいな話だろうか。あらゆる物質は地、水、風、火に属するって事だろうか。古代原子論だと火はプラズマってよりはエネルギーとして考えられているので、物質として世界を構築するのは固体に液体に気体で、目に見えないエネルギーこそが霊力や魔力だとか言われる力に該当するのだろうか。
エネルギー=物質に関してはアインシュタインがE=mc2と証明しているし、まあ分かる。そう考えれば四大元素ってのは存外に的外れでもないのだろうな。それが一般的に普及しているかは別にしても。
「火、水、風もそうなの? でも、火に関しては固体、液体、気体ってよりはプラズマとかになるのかな、更に言えば、魔法や魔術って燃える為の燃料がなくても燃えてない?」
「ええ、火は霊力を、霊子運動状態が激しくなった状態、またそうさせる要素ですね」
ふむ、成る程。おっと、水溜りだ。少し横に移動する。
「風と火の違……冷……その二つは違うの?」
天井から滴る水が顔に触れた。量はないが、湿気が増しているのだろう。壁面や床、天井は常に濡れてランタンの光を反射している。地底湖と言っていたので然もありなん、ではあるけれど、鬱陶しいものだ。
「風と火は混同され易いですが、私の知り得る限り、火はエネルギー、風は物質の状態として考えらております」
「物質の三状態に……足して、霊力があるよ、です?」
「仰る通りで御座います」
「ふうん、じゃあ無属性ってのは……熱とかみたいな要素のない純粋な霊力って扱いですか」
「はい」
アイリスさんはすっと身を引く、と、水滴が床に。凄いなこの人、水滴を当たり前に避けるのか。僕は目で追えはするけど視界内が精一杯だ。目を向けてもいないのにどうやって感知しているのか謎だ。
「お、旦那。みえて来ましたぜ」
ランタンを掲げた先、一層深みに伸びた先に、少し開けた地形が伺える。なんなら、その坩堝からは壁面のぼんやりした輝きより強く、光量を携え埋まっていた。遠目からでも水面が光っているのが分かるが、同時に、アイリスさんに袖を摘まれた。
「……どうしました?」
立ち止まり振り向く。
「……、霊力密度が高いので、近寄るのは危険かと」
「……あー、ふぁんたぁじぃ、な、話?」
水面の輝きに反し、陰鬱に目を落とす。数秒考えて歩を繰り出した。確かに、なんとなしに、感覚的に、少しだけ圧を感じる。心配そうに伸びた手を振り切り、僕は水面の側にまで近付いた。辺りを見渡して、下や上を観察して、首を傾ける。
考えていたより、事態は切羽詰まっていそうだなと。
「アイリスさん、セルフちゃんの所にいってくれます?」
「……?」
アイリスさんは伸ばしたままの片手を引っ込め、目が外と僕を交互に見た。
「出来れば、直ぐに」
「承知しました」
深々と会釈して、ふわっとした風が起こる。瞬き数度、アイリスさんの姿は泡沫の幻の如く消え去っていた。ランタンにより揺らぐ影を観察して、僕は水面の側で屈んだ。所謂、ヤンキー座りである。
ロゴルさんが頻りに辺りを見渡して、アイリスさんを探していた。気持ちは分かる、逆の立場なら僕も探すだろうから。
「ロゴルさん、水面の下って見えます?」
「みえねえですよ、ワシは近寄れもせんのですからね」
と、僕の背に向けて。ロゴルさんは遠く、下りが始まる間際で立ち止まっていた。どうも、霊力とは毒になるらしい。日頃から微量の魔力だか霊力だかを浴びているロゴルさんをしても、この地底湖に身を寄せたくはないらしい。
それは簡単に言えば、足を滑らせでもすれば危ないからだ。同時に、大気中に充満するであろう霊力の密度から呼吸だって難を抱える。魔力の欠乏なら記憶にはあるが、魔力の飽和はあんまり記憶にはない。中毒症状として、酷くなれば生死に関わるのは把握してはいるけれど、今の所僕はなんとなくそんな気がしないでもないかも、程度だ。
まるで暗がりに沈む朱の鳥居へ、おいでなさい、おいでなさい、と招くような不気味さはある。振り切れない印象と言うべきか、勘違いと言うか。論理的に、理論的に、否定可能でも拭えない感覚ってものに僕は染まっているようだ。
真っ白に灯る静寂な水面、地底湖は神秘さと不気味さを綯い交ぜにする。ロゴルさんが遠くから観察するのを確かめつつも、僕の目は水面の先を見透かす。
「……、思ったより厄介なパターンだな」
水面の下には、人々の死体。でもあれば良かったのだが、いいや、良くはないけれど、まあマシではあるだろう。事故って可能性もある。然し、水底に死体はないし、どうも、ロープが一本沈んでいるだけだ。
見る限りはなにもない、だが、この壁の先になにかがあるのは確信に近い。
「……参ったな」
水に、恐る恐る指先を漬ける。一秒、から少し。痛みはない。気分も、問題ではない。が、大丈夫かは分からない。指を引き上げ、ロープをもう一度観察する。ロープがあるのは人為的な働きに他ならず、ロゴルさんもそうだが、本来近付くのだって大変だ。
炭鉱で地底湖が現れた際、問題となるのは水ではなく、水に浸透した霊力に起因する。霊力の高さが一定を超えれば、酸素欠乏症みたいに蝕んで来て仕事にもならないものだ。当然、僕は知っている。毒物の線も潰えたし、事故なら水底に死体がないのも可笑しい、ロープが張られているのも違和感しかないし、はてさて。
「どうしたものかなぁ……。あ、そうだ。ロゴルさ……」
丁度、ランタンが床に落下していた。
つい、目で追う。
下り坂の一番下にいる僕は、転がるランタンを片足で受け止めた。幸い、壊れてはいない。壁に項垂れたロゴルさんを視界に入れ直す。
鼻腔を刺すこの臭い、暗がりに没した、崩れへこたれる人体。
重油のような液体は血であろうか。他に人影はない、ランタンの光や地底湖の光では足りていないし、なにより、姿がない。瞬いて、目玉を回してもそれらしい姿はないが。
「概ねは想像通り……、となると……やっぱり簀巻き一択だったのかなあ……」
ランタンを拾い上げる。なんとなく、ああいや、そうじゃないな。最初から確信していたのを意識の外に置いただけ、なんだし。今更言い繕うように、言い訳するように、恥じるように、生き方を強要すべきでもないけれど。
敢えて人死を考慮しないならば、そう思考を回していたかったけれど。現実とはどうも二進も三進も行かないものだ。辺りを見渡しても意味はないだろう、ならば逆に考える。
どうしたい、なにがしたい、を。
逆算する。推察する、考察し、熟考し、判別し。
実行する。
ランタン片手に、僕はキックを繰り出した。ハイキックだ。中々の威力だと自負する。衝撃と、声と、肉を潰した嫌な感触。
「ん? クリティカルかな?」
足を徐ろに戻しながら、虚空を蹴り飛ばした感想を纏める。相も変わらぬ闇ばかりではあるけれど、なにかが前に存在するのは確定だ。
困った事に、一等に面倒なパターンを引いたらしい。
あ、帰りたい。
欲を振り切る、頑張れ僕。
足に触れた感触からして、高さからして、腹ではなく顔面だ。だと言うのに姿もなく声も上げないのは相手が慣れていると言う結論になる。身体を点検し異常な箇所がないか観察し、改めて身を固める。構えは取らない、必要ないから。
力は入れない、無駄は嫌いだ。
やや重心をズラすだけ。騙すだけ、それだけはする。
さて、帰りたい。あゝ、帰りたい。超、帰りたい。
判断は間違ってはいない筈、選択はした、決断もした。でも、帰りたい。
「…………、めんどくせえ」
日本語でぼやく。天井も仰ぐ。ランタンの光はそれでも揺るがない。糞みたいな現実に辟易したって変わりはしないなら、僕は物事への激突の向きや角度に注力する。今回の相対は、まあ、正面衝突だ。
勘弁願いたい。
失敗したなあ、アイリスさん行かせなきゃ良かったなあ。とか、普通に思う。後悔は後から悔いるから、後悔。当たり前が僕の鼻っ面をぶん殴る、これだから嫌なんだ。流されるにしたって、節度を持たないと駄目だ。
誠に遺憾である。
かの奇天烈にして珍妙なる聖女には苦言を呈さねばならぬ、我に友人は居らぬ、然れど人一倍、関わりとやらに聡くあった。
かの機関車にして爆速する乙女には苦心を伝えねばならぬ、我に労働の二文字はない、然し人一倍、流される体質であった。
現実逃避するにしたって、殴って来やがる現実には無力だ。内的環境で改善されるのは外的要因が害さない場合に限る。無視も、看過も、妥協も、全部余裕がなければならないものだ。
今は、違う。やる気云々ではなく、直接の対応をしなければならない。
「……分かっていた分、辛いなこれは……」
本音だ、まじで。
神様、もし会えたら、頬が無事であると思うな、と決意する。考えるだけ、それだけは僕にも許されるだろう。きっと。




