竜な勇者
寒い……。寒くない? 寒い……。
濡れ羽鳥の髪は、頬に触れ抜けたる風に遊ばれる。酷く冷たい風は、季節の変わらぬアガレスには珍しく、灰を被った肌には鳥肌も浮かぶ。
それよりも、なによりも、重きを置くべき要は別にある。少女の四肢は木々を結ぶ蔓に巻かれ、宙ぶらりんだった。思い返すも、はっきりとした事は述べれようはない。緑や蒼を帯びた黒い角も、砂煙を受けてかくすんでいた。
誇り高き古来人種の少女は節々の痛みに瞬く。なにが、起きたのか。今一、明瞭ではない。記憶にあるとすれば勇者達と村に向かう所、気が付けば木々の中程に吊るされている。
モル・ルモは周囲に目を走らせる。真上に昇る太陽によって照らされた大地は、少女の知る風景ではない。木々が一方向に薙ぎ倒されて、折り重なって大山になっている。巨大な石や、砂が混じる長蛇の山脈を見やって。瞼で蒼き眼を拭う。
「…………?」
頭も痛い、打ったのか、背も痛みを訴える。動けない訳でもない、ただ、分からない。古来人種は頑強だ、人ならば容易く死に瀕するだろう影響にも頑強さを示すもので、モルも同様に人ならば四肢がもげて潰える衝撃に耐えていた。前後の記憶が曖昧になる衝撃は、余韻として腹奥に鈍痛を響かせている。
頭を振るう。蔓が巻く四肢を見て、なにかしらの幸運に恵まれたのを察する。辛うじて、幸いして、災いして、とも言えようか、モル・ルモは無傷ではないが生きていた。繊細な装飾、玉簾は幾つかは千切れ、中程から寂しく揺れている。
「…………タウタ」
タウタ・タウタ、族の長を反芻する。そう、己はなにをしようとしていたのか。小さな村々に声を届けなさいと頼まれ疾走した。目ぼしい村へと言葉を伝え終え、タウタの待つ村に戻らんとしていた。
「…………むう?」
吊るされた矮躯、腕を引けば岩に絡まる蔓が引き千切れた。あまりに容易く開放されたからか、やや困惑するようにたたらを踏み、記憶の糸口を探る。
村に戻る最中、勇者と名乗る者に出会った。思い返せば、タウタは勇者に付いて口を開いていたか。勇者の助力を得ると村から出たのは数日前、結果は知り得ぬが、出会った勇者達が本物ならば此度の竜討滅に乗り気ではあるのだろう。
灰色の素足で大岩を踏み、身軽に、軽快に歩を繰り出す。山頂たる岩場に屈んだままに、改めて辺りに意識を割く。
「……ロスウェル、そうだロスウェル……」
空高く舞い上がった真紅で暗い竜、を覚えている。吹き抜けた風に、抉れた大地に、記憶が足跡を辿る。辺り一面は奇っ怪だ、自然にはこうはならないだろう風景だ。
アガレスの季節、やや陽射しが強くなる時期であるから肌を焼く陽は暖かい。照り付ける強い光で陰陽がはっきりと浮き彫りになって、一方向に倒れ盛られた木々を観察する。逆に、隆起した木々の山脈を越えれば其処は巨大なすり鉢と化していた。
ドス黒い、陽すら通さぬ濃密な霊力が満たして、宛ら湖畔のようにも見えたものだ。冥宵竜種のロスウェルが発した霊力の淀みは、魔物を作り出してはいなかった。
莫大な、尋常ならざる威力で大地を陥没させたロスウェルの姿はない。赤黒く、時折雷の走る霧に埋もれているのだろう。あの巨体を天に見て、ふと落ちた影の規模に慄いて、捻じれ地に堕ちた。翼が溶けたような、あんまりにも巨大で緩慢な落下は、大地を、木々を、村を、吹き飛ばした。
避難が間に合っていればとモル・ルモは願う。大地のすり鉢の反対は、城塞だった。身が空を舞って、目と鼻の先にまで飛んだのだろうと推測する。シルト、偶に寄る人間の住まう都だ。
横に広がる長い城塞が決壊した土砂の堰きとなったか、堆くも雑多に、木々に岩に砂が山になっていた。耳鳴りがするな、と頭を振るう。海運都市の城壁は、目算で十㍍はあった筈だが、外界とを隔てる壁はなく、見下ろせば瓦礫と化していた。
遠目でも、人々の喧騒がする。今立つ此処が、土砂に埋もれた城壁なのだと理解するのには苦労したが。走る人、瓦礫に足を潰された人、ガラスに身を裂かれた人、唯一無事な教会、鎧を着た人が槍を手に集まる姿、噴水が壊れて道を川にする所、牙の姿はなかった。
否、古来人種の中でも民族柄関わりのないコミュニティの者ならば、いた。そいつは、眼下を呆けて見詰めるモル・ルモの真横にいた。
「牙か? 他の者はどうした?」
モルは目を向け、指を、爪を立てるように身を屈める。唐突に声を掛けられたから、もあるが、関わりのない古来人種とは仲が良いとは呼べないからだ。彼等は黒銀信仰より女神に準ずるのも相俟って、不仲でもある。争う、訳でもないのだが、手を取り合う仲とは呼べない。
獣の如き警戒を示す少女に、同じく少女か少年かも分からぬ矮躯は手を大袈裟に振るうのだ。
「ああ、待て待て。そう警戒するこたぁねえだろうに、いま、あんたらとは共闘ってもんだろ?」
海運都市に住まう古来人種は戦人に非ず、タウタ曰く様々なコミュニティから逸れた者達の集まりだ。率いる者も、赤毛の、凶星と耳にする。
「神に反逆す愚か者め……こなたに近寄るな」
「ん、反逆ねえ……神だとは思ってないだけなんだよ……ああもう、そんで? 牙か?」
白い肌に、若葉のような波打つ長髪が嫌に網膜に焼き付く。その古来人種は民族衣装も纏わず、道行く人間と同じ装いだ。困ったな、とばかりに耳をピコピコさせてから腕を組む。モル、少女は再び問われた内容に目を逃がして、耳を下ろす。
「こなた、牙ではなきゆえ、戦人。成人しとらん、のだ」
「ははー、そうかよ。んで、僕はしがない逸れもの、ヤームってもんだ。嬢ちゃんは?」
気さくに笑って名乗るが、モル・ルモの目線は依然として厳しいものだ。
「……モル」
「あいよ、心得た。じゃあよ、あんたらの大将、タウタにゃあ会いたかぁないか? っとぉッ」
言われた刹那、蒼い瞳を軌跡にモルはヤームの胸倉を掴んでいた。踏み込み、絞り上げていたのだ。けらけらした笑みは余裕そうで、神経を逆撫でする。更に力を込めるか逡巡する、悩んだのを見計らったのだろう、耳元でヤームは声を絞る。
「タウタは無事……じゃあないが、生きてんよ。僕が保証すっからよぉ、先ず、落ち着きなモルの嬢ちゃん?」
にまにました笑顔は信頼や信用とは程遠く、神経をこうも突かれては眉間も痙攣する。それに、モルは幼いのだ。感情に振り回されたり、溢れる情動に逆らえない年頃だ。
「タウタはッ……いな、ロスウェルめはあそこかッ!?」
指差すは、霊力の池、赤黒い闇の池。ヤームは慌てる少女の怒号に頷くとやんわりと言葉を繋ぐ。
「ロスウェルはぁ、いまはよぉ、怪我してるみてぇでな。余裕がねえとみてんだ。あの淀みから魔物を出しもしてねえからなぁ」
「ならば、こなたは征かねばならんッ! 好機ではないかッ」
「ああー、落ち着けモル。僕から言わせりゃ無謀だぜ、相手は……ロスウェルだからよお」
「助力を願うのは、こなたの真ではない。が……なんとしてでも、報いねばならんッ!」
「だから待てってんだ、年長を敬え。いちびりの餓鬼がしゃしゃってんなぁ?」
けらけらと、にやにやと。だが、若葉の瞳だけは真っ直ぐにモルを見定めている。
「僕らカフェンも動いてっからよぉ、一にすんなら大将んとこじゃねえかよ?」
「し、かし。ロスウェルは……ぐ……」
胸倉を掴む手をぐいっと引き剥がす握力は、モルのそれより遥かに強かった。気楽で享楽で、どうにも俗世に染まった古来人種は幼い少女を諌めるのだ。
「今代のせがれにゃあ困らされてんだが、モルの嬢ちゃんもてぇして変わらねえもんかぁ。僕にゃあ分からんぜ、死地にしたって勝算は必要だわなぁ」
幼いのだ、目の前で項垂れて困惑して迷う少女は。ヤームは長く生きた、タウタと同じく、逸れであれど長い時を生きた先駆者には間違いがない。
「タウタは……、タウタは本当にだいじょうぶ……か?」
縋るような姿は、本当に本当に幼いだと分かる。古来人種は見た目こそ幼いが長命種だ、しかし、モルに関しては見た目のまま未熟なのだ。牙でもなければ、頼れる身内も側にはいない。手の届く位置に頼りがないのは、彼女に取って初めての経験だろう。それは逸れ者たるヤームは十全に理解するし、なんならどうにかしてやりたいと思うものだ。
自らが感じた、底のない水に落ちるあの感覚は好めないものであった。だから、なるべく自信を込めて明るく振る舞うのである。
「おうとも」
自信に満ちた顔に、モルの背を押す焦燥は次第に落ち着く。陽は熱く、風は冷たい。淀む空気に酩酊するように、何処か空気に呑まれてしまったのだろう。少女は玉簾を鳴らし、やっと力む身体を緩めた。人々の喧騒は近い、そして意識すれば大きな声だ。
今後の事より、波紋が広がるような喧騒に目が向くものだ。自然と、人の姿を観察する。遠くで騒いで、泣いて、怒る人の姿をだ。
「人らは……」
ぽつり、とした声だ。
「……ん、あぁ。死んださ、沢山なぁ。喧しいったらねえよ」
眼下に広がる街並みは、海に近付く程に崩壊が緩やかだ。それも程度の差と述べられようものだが、人々の喧騒は目で見て分かる。静寂に包まれるよりはずっと良いとばかりに彼は笑い、傍らの少女、モルへと向き合う。
「幸い、カフェンの被害も人らの死も、タウタが城壁に突き刺さってんで減ったんだぜぇ? もし、あいつが飛んでこにゃあ、もっと死んだろうよ」
「タウタ、飛ぶ? 突き刺さる?」
「あー。なんだ……頭から、こう、ぐさって城壁を突き破ってだなぁ」
身振りを加えて詳しく説明するが、モルの疑問はそれではなかった。続けよう、とした間際。ひんやりとした、でも、生温い空気が首筋を舐め上げた。怖気が走る、背中の産毛が逆立って、髪や耳が反応する。
若葉色の彼、ヤームはモルの身を押して背に庇うと。
「あん? 竜種かぁ。逸れにしたってよぅ、何用だぁ? そんな気配で、何様だぁ?」
漆黒の鱗は黒曜石の如く、鈍く翡翠の走る尾が波打つ。ゆらゆらと翡翠と夜を綯い交ぜにした圧力は、不吉で不穏だ。剣か如き尾先が、地にある瓦礫に触れればぎりぎりと両断され、辛うじて鉄筋で繋がっていた瓦礫が斜面を下る。
ぬるり、と。長身の女がいた。薄着で、見た事のない意匠の衣服に身を包み、かてて加えくつくつと笑う姿は気品すら漂わせている。だが、身丈に合わぬ漆黒の尾が生えている。
角や翼はなくとも、縦に走る瞳孔は人らのものでは到底、有り得ない。鋭く、卑しく、獰猛で。直視するだけでも、己は竜種に対しては無力で無謀で無知な捕食対象であると言下に縦貫させられる。竦む足は錯覚か、モルを年長者として庇うヤームは猛々しく牙を剥く。
「おう、なんだぁ黒竜ってんで抗わねえと思ったりゃせんよなぁ? 僕はぁ、古来人種だぜ? 竜の二三匹に怯えるたぁ見繕うなよぅっ!」
どん、と踏み締めた瓦礫が砕ける。素足、ではない。ヤームは人らと同じ装いだ、靴を履き、身を整え、シャツを纏う。滲むは、若葉の霊子。粒子が髪から散り、戦闘へと肉体を最適化していた。瞬時に、況してや慢心もない。
「あら、なに言うてはるんやろ、おもたら。……えらいおもろいこと言いなはるなぁ」
「状況見てものを言えよなぁ、竜種がいま、ここに、なぜ、いるかだろうが。あの濃霧の中にいるやつと、てめえが関わらねえと?」
あー、困るわぁ。とぼやいて、美姫はすらりとした足を繰り出した。翻るスリット、尾の行方を辿りヤームの目が向く。戻せば、糸目に微笑む面。コロコロした笑顔は、シルトに集まる商人になんとなしに酷似していた。
渦を巻いていた尾が忽然と消えれば、否応なしに面を交えるしかなく。背丈の差から、下から抉るようにヤームは睨みを増す。
「いやぁ、にしてもえらい騒ぎやねえ。ロスウェルがああも見事に墜落するとは思わへんかったわ……、あのドアホなにをしでかしとるか知らんけど……」
糸目になれば、瞼を染めた朱に目が向く。自然と、所在や言葉の抑揚、息遣いが思考を誘導しているのだ。切羽詰まってはいるものの、両刃とはならず。語り合いにて解決するならばとヤームも思考しているが故に、双方は距離を詰め切れない。
「ヤーム、こなたは知るぞ。その竜種はシャチョー? お嬢と言う、勇ある者だ」
シャツの袖を引っ張られて、仕方なくヤームは耳を傾けた。警戒は解けないが、対話を放棄はしない。対話が望めないならば、と何時でも牙を剥けるように備えて。
「シャチョー、やけど、名前は文月やね。ちゃあんと覚えないかんよ、めんこいんやからもー……。そや、元気っぽくて良かったわぁ。モルちゃん、空を飛んではったから」
あてびっくりしてなあ、腕を組み何回か頷いた。警戒を多少は緩めたヤームをすっと伺って、細く長い指を立てる。
「ロスウェルが飛べなくなる、とは聞いとったけどあても飛べへんし……。なんや、この、ごっつぅ……違和感があるんやけど。あんさんらかて、なんぼか感じなはるやろ?」
文月の問いは確信だ、それに答えを出すのはヤーム。彼女の口からモル・ルモの名が出たのを境に、逆立った毛を撫で付けて整えていた。
「それは、魔の類が使えねえからだ。ずっと、じゃねえとは思うがよぉ……」
「あのアホンダラ……」
恨み言、何処か、そう王都の方角にぼやいた。
「ええわ。……そんで、これは治ると思ってええかいな?」
「知らねえなぁ、感覚……でいやぁ……じんわりと戻ってるからよ、数時間も猶予があれば避難も進むが。ロスウェル次第、だなぁ」
「めっちゃ派手に咲いたもんなぁ」
女の作り笑いは完璧だ、見事過ぎて反吐が出る。笑顔とはこうあるべきではないとヤームは思うし、逆に、態々作り笑いをする理由も理解はする。シルトの被った被害の甚大さは筆舌に尽くし難く、なんなら吹き飛んだ瓦礫により人々を導く領主が真っ先に死んでしまったので最悪に最低だ。
カフェンが率先して領主が吹き飛んだのを知り、手を貸して手を回してはいるものの、事態は芳しくはない。重々しい空気が積もるシルトを見渡せばカフェンの面子が時折活躍していた。
だからこそ、故に。ヤームは怒気が強まる。
「……わざと、なんだろ。人らが、どんだけ死んだと思ってやがる」
「……はぁ」
嘆息、女は薄ら笑いを零して腕を組む。太々しい態度はいっそ清々しいものだ。
「ほな聞くけど、飛んどるままやったらなんも出来へんちゃうん。呆けとった言う話もちゃうみたいやし、なにより、おどれはあてを咎める筋はないやろ」
毒を含む微笑に、ヤームは肩を竦めた。怒りだけではない、確かに、たらればは切りがない。なによりもロスウェルを既に小一時間は押し留められたのは、あの墜落による傷が癒えていないからだ。双方、でなければ救助も避難も更に進展するのだが、現実は甘くはなかった。
「それに、あんさんら古来人種の守り神様はどないしてはるん?」
「ちげえねぇ、が。ちょいと事情が込み入ってんだ、僕から言えるってえと……冥宵竜種だからよう、ロスウェルのやつぁ……」
池のように霊力を淀ませる、大きな穴にヤームは苛立ちを捨てる。
「そもそも、やつが狂気に落ちてんのか、主の命に従ってんのか、わかりゃしねえ……」
若葉の長髪を掻き、柄が悪く、しかし妙に馴染んだ風体で続けた。
「なにが違う言いなはるん? そも、あんさんらの神には懇願せえへんの?」
ウェンユェが見詰めた先には、銀色の幾つかの天体を象った首飾り。ヤームもモルも下げているそれは黒銀信仰である証明だ。アガレス王国の古来人種の大半がそうであるように、彼等二人も例外ではなかった。
ヤームは首飾りを指先で弾く。
「……あー、神なる銀黒様はアガレスを拠点に永らく滞在しておられるだろ……? で、ロスウェルってえのは夜の明星……つまりゃあ……神なる冥宵の王様のもんだからよぉ」
「そないに仲悪いん?」
「さあなぁ? 僕にゃあ分かったもんじゃねえや。タウタが言うにゃぁ、助けを求めに王都に向かったっつー話だったか? ってこたぁ、あんたら勇者ってやつに、なんだろ?」
「んー……あてら、より現人神って噂になっとる黒き勇者に、やけどな」
ウェンユェは王都を指差してから、コロコロした笑顔で答えた。
「ぁあ! 神なる夜様かぁ。あのお方に助力を願ったのか……」
「黒き勇者だけ、扱いちゃうの気になるわあ」
「あん? たりめぇだろ、神なる夜様ってぇのはあんたらとはちげえからな」
「なんそれ、詳しゅう頼むわ」
「……? こなたも知るぞ、神なる夜は勇ある者たるまえより、超克四種族にならぶ神なる人だ」
モルとヤームのなにを今更、とばかりの返答にウェンユェは二秒程静止した。薄く開いた目玉が王都を見て、またにっこりと笑顔に沈める。
「やっと、合点がいったわ。あの子、ほんにあてらとはちゃうんやね」
「あの方は降臨なされたからな、他と違って女神様にゃあ導かれてねえ。ああ、いや……? 白いやつって勇者にいたか……?」
ヤームが顎に手を添え思考する、ウェンユェの目線に気付いたのか頭を振り。
「タウタ抜きで面を重ねても意味ねえからよ、モルの嬢ちゃんもだが、あんたら勇者ってのも竜退治に一枚噛むだろ?」
巨大な霧の池、濃密な霊力の淀みは本能的に避けたくなるもので。巨大な都市シルトの前を暗闇にするそれは、見通しもなくば見通せもしない。
何処までも深く、濃く、静寂だけが広がっている。
「すぐにでも噛みたいんやけど、ちょいと困っとってな」
「あん? このカフェンクランが請ける仕事に一枚噛めんだぜ。なんかあんのか?」
「あー、あてらはさ。勇者やん? 勇者ってのは五人おる、んで……来とるのがあてを含め三人や」
おっさんらは回収したからええんやけど、吹き飛んだ時にタイヨーと逸れてなぁ。とは、可笑しそうに笑って手を叩くウェンユェの言葉。友、でなくとも仲間であろう二人の安否が不明な割に図々しい態度だ。思わず、ヤームの眉間に怒りが駆ける。
「……おい、てめぇまさかよぉ」
ヤームが言い終わる前にウェンユェの微笑が遮った。池のような濃霧の溜まりを一瞥して、心底愉快そうな口振りだ。
「せや、うちの二人が霧の中に、な?」
飛び切りの笑顔だ。ほんま笑かせてもろたわ、もウェンユェの言葉だ。
「おい……いや、おい。仲間じゃねえのか……?」
ヤームはちょっとだけロスウェルが墜落した方向を覗き込んで、ウェンユェに戻す。
「分かった、そっちも考えらぁ。てめえんとこのもだが、とっかかりを見つけねぇとな……。神なる夜様に謁見したぁつぅのは、タウタだけだからよぅ」
「ほな、行きましょか」
手を叩いて鼻歌混じりに歩を繰り出した、のが気に食わない。
「いやおい、心配じゃねえのか?」
「せやねえ……あんま心配してへんよ」
カラカラ、コロコロした微笑は人のものではない。竜種、女は人ではない。価値観も倫理観も全く違うのだ。だから、ヤームの不機嫌そうな問いにすら振り向きもせず、躊躇いもしなかったのだろう。
「そりゃどうしてだ?」
「色々あんねんけど……」
シルトの斜面を身軽に降りるウェンユェは言葉尻を伸ばした。目の前に広がる惨状や、人々の声に意識を配っているようだった。モルやヤームが背を追って、ウェンユェの顔色を伺えど、その顔は仄かに笑みをたたえている。
「あん? 心が痛む玉じゃねえと思ったが?」
「あんたあてをどう考えてるんか知らんけど、こんな惨状に無責任って訳にはいかんやろ」
「だが、あんたらが落とさなきゃ、ロスウェルは都市を消し飛ばしたろうよ」
「せやろうね、実際、黒き勇者の予言ではシルトはなくなっとったから」
瓦礫の上を越えて、人々の喧騒の隙を縫うように歩を進める。眼前に広がる風景は悲惨で、凄惨だ。綺麗な石造りの家屋も、屋台も、辛うじて建物として並んでいるだけだ。舗装された道も積み重なった瓦礫で狭く、歩くには適さない。
なによりも、視界の隅には真っ赤な跡がチラつく。臭いだって、街は様変わりした。海が近いから潮混じりではあるものの、鼻の粘膜を突付くのは錆びた金属に似た刺激臭だ。命が流れている、と、身に感じるものだ。
「じゃあ……神なる夜様とて絶対じゃないのかぁ……」
「さてな。あてらだけやのうて、あの阿呆が関係せな変わらんやろけどな」
「阿呆……?」
「ほら、ロスウェルを墜落させた勇者や、あては少なくともこの程度の被害で竜を止められへんよ」
「この程度……ねぇ」
瓦礫から覗く、ボロボロな腕。女性の腕だろうか、道端には有り触れた光景になっている。ヤームはポケットに手を突っ込み、あんまり目を向けずに濁らせた。
「言葉選びが悪いとは思うさかい、気を悪ぅせんでな。でも、ほんにそうやねん」
「……、神なる夜様はなんて?」
「さあなぁ、あてはあんま関わりとうないから知らんしなあ」
「んじゃあ、どうしてロスウェルは……そうだ、やつぁどうして空から落ちんだ?」
瓦礫の側から死者の臭いがする、埃の被った小さな赤い靴が転がっていた。ヤームは、だから晴天を見上げる。海運都市は、海に隣接する為に風が年間を通して強いのだが、そんな吹き抜ける風でもシルトに積もった死を拭い切れずにいる。
はためく若葉の髪をそのままに、潮混じりの風の行方を探す。大きな、霧の池、ロスウェルが墜落し早一時間となろう現時刻。未だにロスウェルは目立った動きを示さず、濃密な霧で覆われたままだ。
不可解、ではある。ヤームの知るロスウェルは、揺るぎなく誇り高き竜種である。古き友、タウタもロスウェルが暴れ狂う理由を明瞭には語れよう筈もなく。かと言って思い当たる節がない訳でもなく、だが決してそれだけだとも確信出来ない。
ロスウェルは言葉を操る、竜種の中でも最古に近しい存在だ。人々が暮らす範囲であれば、唯一無二の神代の竜であろう。故に、不可解なのだ。絶大な腕を持ち、強大な翼を持ち、轟く咆哮を打ち上げるロスウェルは容易く死にはしない。
其処らに存在する二百年、三百年の若い竜とは格が違うのだ。数多の魔法を操り、言語を介し、盟約を尊ぶ。アガレスに於ては良き隣人、隣竜であったろう事は明白だ。シ・テアン・レイの領域である以前に、シルト地方の未開拓地に座すロスウェルを恐れ、若い竜はアガレス王国に近寄りもしない。
知り合いの竜人種曰く、本能的に竜種同士は霊力圧での縄張り争いをしているらしく、アガレスはロスウェルの霊力により薄く霊力圧を帯びているのだそうだ。ヤームは記憶を漁りつつ、となればと鼻を啜る。
「やっぱ、魔の類を禁じられたのがでけぇか……?」
魔封じ、は女神の奇跡にもある。複数人の聖女が祈れば結界のように展開も出来よう。だが、相手はロスウェルだ。魔法を封じられた程度では墜落もしなければ、怪我をし蹲る事なぞ有り得ない。
「……僕らの神がやった、なら回りくどいか……? あの方の気質からして、ロスウェルに手を出すとは思えねえが……」
そう、ヤーム達古来人種の神は、並び立つ神とは道を違えている。そも、アガレス領域にロスウェルが居着くのもシ・ブュセル・ガランシャッタとの盟約からだろう。であれば、かの御仁との取引もなしにロスウェルを葬るなぞ美的感性からして有り得ないのだが。
「うちの勇者が、あんたんとこの神に吹き込んだんやと思うわ」
「……あの方に謁見を許されているのか? ああ違うか、いや、となりゃ……シ・テアン・レイ様が落としたのか……? 態々……?」
眉が寄る、訝しむのは当然だ。神なる銀黒本人の意思ならば直接魔法を撃ち込めば良い、遥か彼方からシルトまでに隔てる山は少ないし、塔から指先一つで話は終わる。が、ロスウェルは魔法を受けた訳でもない。
「そりゃ有り得んのか……? あの方は契約を尊ぶ、無礼な真似なぞしねぇが?」
「せやから、うちの勇者がええ感じにしたんやろ。例えば……このアガレスを覆う見えない天幕に、なら、契約に反しはせんやろし」
指差した天空に釣られ見上げたが、雲すらない真っ青な空だ。太陽の眩しさに目を細め、ヤームは尚更首を傾げる。
「そんな都合が良いもんかぁ……? 僕ぁ、魔を封じるぅたってロスウェルを落せんだろうって思うが。ほら、鳥はとんでんだからよぉ」
指差した方向には、半分程に崩れた建物。森の奥から追い遣られたのだろう、普段シルトでは見掛けない小鳥が羽を休め寄り添っている。
「単純に、飛ぶやつを、じゃあねえだろうしなぁ……」
魔法を封じられた程度では、ロスウェルは墜落しない。剰え、蹲りもしない。巨大なシルトの街を覆い尽くせる巨体を操る竜が、あの程度で怪我をしたのも納得が出来ない。
「……なんにせよ、僕にゃあ分からんか。ロスウェルが落ちた、怪我もした、まだ動かねえ……」
道端には、救い出されて布を渡される人がいた。カフェンのメンバーが助力し瓦礫を尋常ではない膂力で跳ね除ける作業を仰ぎ、ウェンユェを見やる。彼女は決して、目を背けなかった。
今も、どんな姿でも。
「少しでも人らを救って……船に乗っけて……。あん? てめえなんで連れがいねえ?」
不意に思い出した。
「あぁ、三人かいな? 領主のとこに一応、向かわせたんよ」
「ダウナーなら死んでっぞ、諸共な」
「あら、ほんまに?」
「おう、ほらあそこだ」
シルトの中央には領主が住まう館がある。否、館があったと言うべきか。今ではすっかり、巨大な、そう鐘と岩石が垂直に突き刺さっていた。嘸かし風情のある館ではあったのだろう、王城に倣って青い屋根をしていたが、見るも無惨な有様だ。
玄関口辺りから中心に向かって大きく陥没した館の骸に、数人の古来人種の影が群れていた。探せば三人の姿も見付けられそうだが、ウェンユェは頬に手を当て思案を巡らせていた。
「あらまあ……けったいな」
「シルトの門が吹き飛んで……立地的になぁ、直撃だなぁありゃあ……」
「助かっとらんの? ほんに誰もおらんのかいな」
「……娘っこくらい生きてりゃ、とは思ったが……な。若い衆が探してるが、期待はできねえな」
ヤームはそうして肩で風を切る、唯一、シルトで無事なのは教会だけだ。王都に建つ女神教会と遜色のない、見上げなければならない正門は開かれていた。群れる人波と、外に広げた簡易テントが視界を埋め尽くしていた。シスターが足早に湯煎を手に前を過ぎて行く。
人々は、縋る。人々は、乞う。救いを願い、求め、祈るのだ。シルトに存在する聖女達は、王都より当たり前だが少ない。薬師達や心得のある人も駆り出され、忙しなく眼前を横断している。
「タウタは、あー、奥か……?」
足早に集まった人々の看病を行うシスター達には到底声を掛けれよう筈もなく、ヤームは耳をくいっと動かした。モルは見慣れない数に目が回ったのか、耳をぺたんとしていた。
蒼い瞳をヤームは見透かして、嘆息。なんにせよ、辺り一面が戦争だ。奇跡に限りはない、だが、人手は不足している。こうして正門の前で呆けていても運び込まれる患者の邪魔になるだけで、ヤームは人波を避けつつ女神像のある教会内に歩を繰り出した。