浜に打ち上げられた海月、或いは夏の道路で干からびるミミズ
損な気分だった、なんだかなぁ、と我ながら思う。押し倒したのなら、ちょっとは触ったりしても故意ではないと言い張れたのではなかろうか。いや、嘘だけれども、全く思ってはないけれど。僕がこうして下らない思考をしているのは理由がある、腰に手を当てたセルフちゃんに絶賛叱られているのだ。
自室に到着し、部屋を見渡してから、まあ、良いかとベッドに寝転がったのが間違いだったのだろうと思う。
荒れ果てた自室、窓辺だった破片や魔石照明だった機器、扉だった木材がある中で優雅に頭に手をやって瞼を下ろしたのは我ながら無関心と言うかなんと言うべきか。
けったいな性格だとは思うけれど直すつもりは朝露もないし、反省や後悔はないのだ。浜に打ち上げられた海月、或いは夏の道路で干からびるミミズの如き気分ではあるけれど、そう言った当たり前に億劫で心底退屈で憂鬱なる気持ちで正座をしている。
「あのですね、勇者様? わたしは敢えて申しませんし、問いません。なにがあったか、なんて言う気はないのでしょう? ええ、存じておりますよ?」
額に手を当てしかめっ面な少女、白金に靡く髪は見事で麦畑を連想させる。或いはススキの波を思い出せた、昔見た光景だ。親友にはない、色合いだった。綺麗な青はクレヴィアさんとも違って、アガレス王とも違って、セルブさんとも違う。本当に綺麗なビー玉だ。困り顔で、しかめっ面で、呆れ果てられる僕は肩を竦める。
「そうだね、僕は優しいから犯人を言わない。なんなら僕にも非はあったし、実害は物損だけだからね」
「勇者様……いくら勇者様でも、賊には無力です。確かに、洗礼服は凄いですけど……霊力を帯びた力には限度もありますから」
「どの位? あ、因みにレイちゃんのハイキックは痛かったな」
悶着があった時、洗礼服は僕を守れなかった。青痣が最近消えたばかりである。セルフちゃんは、黒い修道服を揺らしむうっとした顔を近付けた。びしっと鼻先を指差されれば、黙しもする。黙って聞いてみる。
「勇者様は危機感が足りてませんっ! 御身は一つしかないのですっ!」
「セルフちゃん、僕は死なないよ。死にそうにはなるけれど、約束したからね」
「誰とですか?」
「さあね」
セルフちゃんの、丸くぱっちりした目から目を逃がす。が、セルフちゃんが顔を覗き逃げられない。しまったな、逃げ場はない。
「危機感が、足りてませんっ! 貴方はどうして、こうも無頓着なのですかっ! 普通、そうです! 普通ならこんな部屋には戻ったり寝たりしませんっ!」
綺麗な顔に、怒りの籠もった瞳。でも、悪い気はしない。人なりが温かいからだろう、本心から僕なんかを想えるのだろう。
「んー、でもね、他に良い案はなかったし。僕は気にしないからさ」
「本当にっ! 勇者様って可笑しいんじゃないんですかっ! こう、先代勇者様も相当な曲者だったみたいですけどっ! 勇者様は酷いっ! 常軌を逸してますっ!」
「そこまで言われると確かに。僕だって嫌だなあとか思うけれど、慣れているからさ。これ位なら、まあ良いかなあって流せるんだよね」
外的要因に対する対抗策は内的要因で相殺する、傾向が僕にはある。つまり諦め、心頭滅却すれば火もまた涼しの後ろ向きを実行するのが僕と言う人間だ。魔石照明が眩しくて目を瞑っても嫌に気に掛かっても、操作を知らなかったばかりに背を向け思考の隅っこに追いやる暴挙を肯定した。今では魔石照明の操作を把握したのでどうにかするけれど、例えば操作が不可能になったらまた僕は諦めて流すだろう。
布を被せる訳でもなければ、魔石照明を取り換える訳でもなくば、目を瞑って諦観する。内的要因による解決は一番平和で優しいのだと、僕は盲信していたりするけれど、きっと最善でもなければ誇るべき選択でもないのを自覚はしている。
「流さないでください……あの、流さないでください?」
腕を引かれた。小さな手だ、僕よりは。でも親友よりは大きい、お嬢ちゃんよりはお嬢さんって感じだ。そんな困り顔と心配そうな、年相応な表情は狡いだろ。流石に効く。
「次からはそうするよ」
「はい、お願いしますね……?」
膝を床に突き、上目に僕を覗く修道女に正直な所なにも言えなくなった。でも、僕はちょっとばかり萌えの耐性があるから、瞬いた後に意識を保つ。親友と研究した甲斐があるものだ、役に立たないと思っていた僕を殴りたい。
「所で、今日はどうしたの?」
「あ、そうでした。勇者様はついにドラゴン退治に赴くのですよね?」
「うん? いいや? 僕とかは行かないね、名ばかり、幽霊部員って奴。体裁とも言えるかな」
「そう、なのですか? てっきり、ウェンユェさんが仰るクランに入っていたので……」
セルブさん経緯で耳にしたのだろうか。まあ、隠してもないし、王も把握している話ではある。赤い勇者、基、ヘルさんはもう海運都市に旅立ってしまった。ドラゴン退治の為に、ウェンユェ、春風君、ヘルさんが旗となり組織的な働き掛けを始めていた。
先ずは海運都市の管理をする領主との腹芸合戦であるけれど、ドラゴンを討滅するのは利ばかりだし実行されるに違いない。他の問題とすればハバラちゃんのクランテリトリーだから一悶着ありそうではある、リーダーがツェールちゃんに構っている現状は良い状況ではないだろう。
クランの方針や経営は支部任せではあるらしく、先代剣聖から付き従うメンバーの中でも古参が仕切っているのでハバラちゃんは放任主義である。色々口出しする必要もないし、昔からの付き合いだから任せているとも述べていた。まさか、カフェンメンバーもリーダーが侍女服を着て働いているとは思ってもいないだろうけれども。
にしても、ドラゴンをあんまり知らないけれど、あの三人なら見事に打ち倒してくれるに違いない。女傑とかいるし、手を叩いただけでガラスが割れそうなあの人がいれば大概はどうにかなるだろう。これは慢心や信用ではなく、確信と信頼だ。似ているが別物であるので注意されたし、である。
無論、様々な原因があるだろうからヘルさんには困った時の手紙を渡している。諸葛孔明みたく、僕が理解し把握した全てを、起こる可能性がある問題を見越して備えたのだ。備えあれば憂いなし、事前に先回りして有耶無耶にするのが僕の流儀で、魔女の一撃になる。
「僕は非力だから、気になるって言えばさ」
「はい? なんでしょう?」
「セルフちゃんって僕が嫌いだったりする?」
「いいえ? なんだか、そう、変わった人だなとは思いますけど……」
小首を傾げた、悪気はないから突き刺さる。
「そっか。そう言えばアイリスさんって何処にいるの?」
「え? 真後ろにいますよ?」
「え、あ、ども」
振り向けば、音もなく散らかったガラスや魔石照明を片付けていた。全く気付かなかった。なんて人だ、気配すら感じられないとは。ヴィクトリア形式の古めかしい侍女服な癖に、衣服の擦れる音すらしなかった。益々謎が増える。
「失礼しました、勇者様」
「ああいえ、こちらこそ。あ、そうだ。アイリスさんって剣術とかやっぱり得意なんですよね? 魔法とかにも精通してたりします?」
「ええ、多少は心得が御座います」
深々とした会釈に、内心拍手大喝采したが、ちょっと咳払い。
「僕って魔法使えそう?」
「……難しい質問ですね。シ・テアン・レイ様はどう仰られましたか?」
「無理って断言されたね。僕、霊力零だから」
鋭く、茶色の目が僕を射抜く。なにかに納得するように小さく頷いた。
「確かに、勇者様には霊力が御座いませんね……不思議な人です」
「そうみたいだね、でもいない訳じゃないんでしょ?」
「ええ、先代勇者様も霊力を持たない人であったようですから」
「そうなの? へえ、知らなかったな」
それは本当。資料は基本、勇者の直筆ではない。傍目からの印象ばかりだ。実際の先代勇者、偉大なる先駆者、災厄を退けし勇者がどんな人物だったかは定かではない。銅像も、黒き大地に埋もれているようだし。姿も分からないのは如何なものか。黒髪で黒目だったらしいけれども。
「そっか、魔法使えないのかぁ……」
「残念ですか?」
「いや、気になる事件があったんだよ。室内なのに焼死するんだよね、怪奇事件の類いだ。霊力の残留もなくて、魔法の可能性は消えてはいるらしいんだけどさ」
「それは、例の……」
「うん、一週間前だよ。だから、えっと……ツェールちゃんの後かな。厳密には、ずっと前からっぽいんだけどな……」
魔法だとは思うが、分野が違うし界隈が違う。僕に解決可能な類なのかは疑わしい、その事件は衛兵が匙を投げてしまった。問題は単純に分からないから、である。
「独りでに発火し死ぬ。で、現場には焼け焦げたメッセージ付きだ。この焼死事件ってのは王国の資料からすると、百年は続いてるんだよね」
散らばった室内を歩み、机に広げていた資料を手に取る。なんでもない、当日の記事だ。羊皮紙や紙が混ざる資料が、未だに朽ちないのは魔法によるものらしい。アガレス王国では資料をとにかく大切に保管する習慣、風習がある。それはレイちゃんの権威から成せるものらしい、知をなにより尊ぶレイちゃんの働きでアガレス王国はある時期を境にあらゆる全ての文献を収集、保管している。
禁書、封書、店が作った広告、教会の出す有り難い言葉すら集めて保管している。旧資料塔だけでは収まらなかったが故に、新しく更に巨大な塔を作ったりしているのだ。王が住まう城より高いのだから、力の入れ方は尋常じゃない。ので、あるが。
「この事件、分類的に未解決ってとこにあったんだよね。百年前くらいから独りを狙い撃ちだ。なにか知らないかな、女神教会的に」
「百年も前となると……特には……悲劇の再建で手一杯だったかなと?」
「まあ、だろうね。女王様の暴走で国民の過半数が死んだんだっけ、ああいや食べられただね。エグいよね。だから、今も王都の人口がちょっと少ないんだろうし……金髪と碧眼ばっかりな理由でもあるか」
酷い話だが、アガレス王国に当時生きていた人種は古き悲劇で残酷に分別された。滅んでいないのが奇跡とすら言える人口淘汰を経て、残された子孫の血筋は偏りが生まれた。当時のアガレス王国では赤毛の人間が多く、貴族の七割が赤毛であったらしい。これはレイちゃんの経験則だから確かでもある、呆けていなければ、と補足すべきかは置いとくとして。
金髪碧眼の子孫ばかりに偏ったのは当時の人種総数の偏りと、不運と、偶然が生んだ奇特なる産物だ。
「となると、勇者様はまた事件を探るのですか?」
「うん、だからセルフちゃんが必要だ」
「わたしが、ですか?」
指差したら、不思議そうにしていた。
「ほら、例の事件現場って封鎖してるだろ。教会関係者で権利者なセルフちゃんなら口利きしてくれるかなって」
「それは……構いませんが、その、とても酷いものですよ?」
僕の手を取る少女は心配そうだった。
「調べなきゃ始まらないよ、まあ、死体はもう空に旅立ったって聞いたから、現場だけだけどね。アイリスさんも来ます?」
「私は聖女様と共に参ります」
「そっか、じゃあ早速行動だね」
手を僕は叩いた。朝食を食べる機会をそうして自然に失ったのを、十分後に気付いたが、まあいっかと流す。