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宰相セルブ・マグナス


 セルブ・マグナス。年齢にして六十代、アガレス王とは古き友で二人だけで面を合わせれば何処か気さくに接する仲だ。普段から物腰が低く誠実で、几帳面で生真面目で、モノクルをきちんと直す仕草は話し掛け難さがある。


 何時だって内政書類を手に、ブツブツ独りごちる姿は忙しなくそして充実している。貴族にしてマグナス家を知らぬ者はいようものだろうか。


 王都に半ば住み込むが故に忘れられそうな家族との日々を大切に、今日も今日とて執務に追われている。アガレス王が内政に自信家となれば肩の荷も降りようが、王は謙虚で聡明故に他の文官の意見にも耳を傾け中々決断を下さない。宰相としては王らしく英断を望む、先代ハッシューバップ・カフェンと銀なる剣聖を損失した重責を何故この国のみで肩代わりしなければならぬのかと、猛烈に抗議を重ねて欲しいものだった。が、三国列強は剣聖の抜けた穴をアガレス王国に問うた、全く道理のない話である。


 元来剣聖はどの国も手にはせぬ規格外の、超克四種族(シ・テンス)に並ぶ外法の者達。十三種の神造兵器(シッド)の担い手達を誰として手綱を握ってはいない、が、世間体だ。帝国に与する竜槍ドレイブニル・フォルス鳴剣(ヘセ・シルド)、或いは集国の(グレイドル)火翼(メデート・セスファウ)。法国には逸話の多い異界剣(ヒノマル)異目(ガゥ・マムゥーマ)も存在する。表向きは無所属だが、国に準じているのは明らかだった。


 アガレス王国とて表向きは剣聖を御してはいないが、水銀(アルファノス・テアン)にしろ先代ハッシューバップ・カフェン(黒金鎚)にしろ、王国勢力と述べられよう。なにより剣聖アイリスは各国の剣聖より確実に重要で、無視出来ない存在だ。あまりにも規格外、唯一超克四種族(シ・テンス)から名を覚えられた英雄だ。


 だからこそアガレス王国へ過剰な圧力を掛けているのだ。クルス王太子が討伐遠征に向かったのも、剣聖アイリスの失落による弊害だ。


「私に……何用ですかな?」


 モノクルを指先で押し上げ、セルブ・マグナスは来訪者を見やる。老いているとは思えぬ覇気は、長年内政で培った経験であろう。昼にもならぬ間際、文官の詰める王国の中枢区、最重要である此処は激務に苛まれているべきだった。普段ならば目の下を黒くした文官が顔を突き合わせ、経済の傾きに対する打開策や法案を議論している。王は不在であるのが幸いか、とセルブは目を配る。


 書類を床にばら撒いたのを取り繕う文官を制止し、法や価値の致命的な齟齬から、文官の用いていた机に立つ来訪者に顔を戻す。


「吾に問うか人の子、セルブ、であったか」


 青白い肌、異質な冷気、異常な身体。人の形でありながら、どうやっても人ではない。セルブは冷や汗を隠す、勇者達を呼んだ時とは明らかに緊張感が違った。当然ではある、勇者は少なくとも人の形を保っていた。だが、超克四種族(シ・テンス)は違う。


 腕を八本生やし、ウィッチハットの渦から白銀に輝く目玉は五もある。それぞれが独立して別の雑務を遂行する、腕は人皮の禁書、腕は青い果実、腕は青年をお姫様抱っこしていた。


「む、私も耄碌したか」


 再び確認するが、少女の身姿の黒死人種(レイズダラット)に抱えられるのは、アガレス王国の白き勇者で間違いない。文官達が固まり作業を滞らせるのも無理はない、シ・テアン・レイは二百年はなるだろうか、旧資料塔を根城に他者とも関わらなかった。王国の悪夢を退けた異界の人、故に些事では動きもしない。セルブですら初めて身姿を拝見する。


 資料のままである、ウィッチハットも、薄絹の衣も、シ・テアン・レイの周囲だけ歪み暗やむ言い伝えも、全てに相違ない。肌で感じる、偽物ではあるものか。アガレス王ですら身姿を直接拝謁した事はない筈だが、のだろうが、セルブは数刻前に己の名を呼ばれた事実を訝しむ。


「如何にも、私はセルブ・マグナスと申します。シ・テアン・レイ様とお見受けしますが、相違ないか?」


 机に預け、手を組む。シ・テアン・レイは確かに王国の救世主である。守護神であれど、手を組んではいない。全て盟約に誓ったまで、誓いを破る事を彼等は下品とする。高潔で純粋で、我儘なのだ。美的感性だけが彼等との繋がりであったが、抱き抱えられる白き勇者はなにを盟約したのかが気掛かりだ。


「背の君を流転とし、吾たるは僻遠より歩みを疎通させるゆえ。然し、此度、早瀬なる人の子らの時を憂い、趨勢を倦む(いやになる)人の子らを導こう」


「……それはまた、なんとも。アガレス王国を緩解(一時的に良くなる)させて頂けるので? なにゆえ篤志(親切心)が働くのか、些か理解が及びませんね」


 渋く太い声は柔和ではあったが、眼力は剣先の如く鋭い。


「吾が惻隠の情(労しく思う心)を萌す。欺瞞とするか、人の子セルブ」


「いえいえ、私の本音を吐露します。毎朝己を鼓舞しておりますが、歳なのですよ。近頃は杖がなければ禄に歩けもせぬ老体ゆえ、どうか、ご容赦を」


 セルブは言下に答えた。確かに、彼の言葉通り机の横には上質な杖が預けられている。レイの白銀が左右と上下に蠢き、数が縮小した。糸口を探し、文官達を敢えて残し仕事に集中させたものの、文官達は仕事が手に付いていなかった。


夙に(早くから)心根を明かしはせぬ、か。文官としては古拙ではあるが、磊落なる吾ゆえ。して、吾の求むは人の子よ」


「……生贄、でありましょうか?」


 セルブの目はより切れ味を増した、文官達は目を逸らし書類に逃がした。レイの白銀を直視する碧眼は老いてはいても深く濃い。


「ふむ、人の子の時は奪うゆえ、生贄と呼称するのも否ではあるまい」


「ほう、それまた……」


 両者の間に流れる淀んだ空気、一秒経過するのが途方もなく長く険しい。時間にして五秒は睨み合いは続き、白き勇者がなにかを言わんとするシ・テアン・レイの口を塞いだ。


「ちょっと誤解しか招かない言動で、とばっちりを受けたくないんだけれど僕は」


 抱えられた勇者が口を挟む。幾つかある腕が勇者の手を払い、青い果実を揺らす。


「然し、間違いではあるまい」


「嘘を吐いてないとか、似ているから同じとかあるけれど。あのさ、全く違うからね」


「左様か」


「左様だね」


 暫しの無言を一呼吸分置き、勇者は腕から解放され机に立った。並ぶと、少女と青年の身丈は随分差があった。勇者は机から軽く飛び降りて、机に凭れる。


「僕から説明するよ。レイちゃんの悪い癖だね、面倒だから似ていたら良いやってスタンスは控えた方が良いよ。会話の手渡し練度零なの? 引き篭もるからそうなんだよ?」


「ふっはっ! 不敬極まるなっ!」


 何故か黒死人種(レイズダラット)は嬉々を帯びて絡み蠕動する腕を掲げる。その悍ましさに当てられて、数人の文官の嗚咽が室内を満たす。危うく、辛うじて胃に入れた物がなく床は汚れはしなかったが、薄く胃酸の臭いが室内に漂った。眉を寄せるセルブは大仰に咳払いを木霊させ、場を仕切り直す。


「白き勇者殿、貴方は王都の怪事件を追っていたはずでは?」


「ええ、まあ、そうです。件の結末をお伝えするのと、少々困った墓穴を掘りまして」


 苦笑いもなく、愛想笑いもなく、白き勇者の黒いだけの目玉が向いた。文官達は、白き勇者を恐れている。内政書類の整理を一度手伝わせたのだ、その結果は言わずとも知れている。内政を完全に理解し優先順位を決め、整理した。それも一目流し見た程度で、である。口にはしない、なにも言わない、首を突っ込みもしない。特別な力があるとは未だに聞き及ばない。故、セルブは異質、常軌から逸する者と定めていた。


 何故ならば、彼が訪れて一週間程度の出来事だ。聖女の奇跡は文章(・・)には及ばない、だが、セルブの前で淡々と口を開く青年は書類を整理したのだ。誰にも及ばない正確さと速さと深さで、である。書類には王宮言語と呼ばれる、公用語をより複雑にした言語が用いられていた。酷く遠回しの表現や歪曲した意味、馴染んでいなければ理解するよりも読むだけすら一日が潰れようものだ。


 だと言うのに、文官達の面白半分は常軌を逸する彼により淡々と処理された。だからこそ、彼等は目の下に隈を作らず夕刻には身支度を整える余裕すらある。彼の行いは称賛されるべき行いだ、文官達の詰める室内は汗臭く炭臭いものであったのに、今日は紅茶の残り香が漂って気分が落ち着きすらする。


 全て、白き勇者が分類したが為に能率が上がった。間違いはなかったのだ、であるからセルブは白き勇者を警戒する。黒き勇者の語りには属さぬ蚊帳の外たる住人、由来も由縁も分からぬ青年を。だが、どうにも抜けている人なりを。


「ほう、勇者殿にして珍しい。文官達が申しておりましたよ、書類整理には助けられたと。是非、礼を尽くしたいともね」


「いえいえ、文官見習いって勘違いされたまま手伝っただけですし。特になにもいらないです。ああ、いや、ならちょっとお願いなんですが」


「勇者殿の頼みとあらば、耳を傾けましょうぞ」


「娘さんをください」


「……なんと?」


「禄でもないなっ!」


 シ・テアン・レイの万歳にセルブは反応出来なかった。聞き間違いか、老化によるものか、聞き捨てならない言葉を吐かれた気がしたのだ。組んだ指が解けそうになり、やや固める。


「なんと、仰いましたか」


「セルブさんの娘さん、ツェール・マグナスの数年間を貰いたいんです」


「……勇者殿の仰る意味を、十全に汲み取れぬ老体をお許しください」


 勇者はシ・テアン・レイに目を向けた。彼女はケープを指先で摘みなにやら吟味していたのだが、視線を受けると背にした暗闇に手を伸ばしてなにかを引っ張った。其処には、侍女の服を纏う少女がいた。背丈は然程大差ないのだが、暗闇に沈ませる周囲の所為か今まで気付けなかった。白髪と赤い目をした、少女である。


 これにはセルブも困惑を露わにして、一度手を解き机を指先で叩く。所在なく、机に広げていた書類に触れて横に重ねつつ。


「ツェール、なぜ、目が赤いのだ?」


 一ヶ月は帰宅していないからか、娘の変化には驚いた。顔は忘れはしない、気弱でいて誰に似たのか決断の早い娘である。もじもじとスカートの端を持つ姿は、帰宅してお願いをしようとする幼気な姿と重なった。だが、此処は仕事場であり共にあるのは妻ではなくシ・テアン・レイであった。本来ならば家庭教師と過ごす時間帯であるのに、どう関わったらこうなるのか見当が付かない。


 シ・テアン・レイは尚も背後に手をやり、もう一つの布を掴むと引っ張った。現れたのは赤毛の古来人種(ラルヴァスダラーダ)である。そんな人物の心当たりなぞ、ハッシューバップ・カフェンしか知り得ない。剣聖と黒死人種(レイズダラット)と勇者に愛娘の組み合わせは奇妙で奇天烈だ。


 白髪の割合が勝った髪を撫で付け、なんとか自制する。


「娘さんが件の事件、王都に昏睡事件を巻き起こした犯人です」


「……馬鹿な、そんな」


 勇者の手が続きを止め、ツェール・マグナスを指差した。


「人死にはありませんが、人々の時間を奪ったのも事実。しかし僕は勇者であって、罪や罰を問うたり負わせる責務や義務を持ち合わせてはいません。なので、セルブさんの裁量に任せる話ではありますが。説明だけはしましょう、一つ一つ丁寧に」


「是非もない」


 セルブは漸く眼力を強めると、勇者に意識を集中させた。文官達の怯えが伝わるがそんなものはどうだって良かった。愛娘に関わる話であり、事件の犯人である現実は非常に重かった。喉の渇きは錯覚か焦燥か。


「事件の成り行きですけど、増え続けていた昏睡事件の被害者は、ハッシューバップ・カフェンことハバラ・ラバハにより阻止されていました」


「ほう? であるならば、各方面からの陳情が相次いでいたのはなにゆえか?」


 勇者は正にそれだ、とばかりに指を立てた。人の印象に淡くような姿でありながら人の意識を集めるのに長けた所作、チグハグな勇者にセルブは先を促す。


「ハバラ・ラバハは何故暴れたのか? それを説明するには共有しなければならない前提があります。ハバラの行いと昏睡事件、二つはどちらも現場が一致する点です。それこそ……昏睡事件の犯人だとも言えよう精度で現場は一致する、しかし民は剣聖への陳情(・・・・・・)しかしていない」


 勇者の言葉を借りるならば。セルブはまたもや言下に声を張る。


「ほう、であるとすれば剣聖が此度の犯人ではないのかね?」


 態とらしく勇者の推測を折れば、勇者は軽く頷いて。


「確かに、その可能性は高い。僕だって現場を直視していないし、状況証拠から推測しているに過ぎませんからね。勿論、僕は言質を取りましたけど」


 少しだけ顎を上げ、見下すような見透かすような、とても冷えた目で勇者は言う。セルブに威圧している風でもなければ、遮られたからと拗ねた訳でもない。事の成り行きに不満があるが口を噤むようにもセルブには感じられた、喋るのが嫌で仕方なさそうに。


「証拠の前に、何故、民は剣聖を昏睡事件と合わせて喚かなかったか、ですが。これはセルブさんも知っている通り、剣聖の横暴に苦言を呈するのと昏睡事件の犯人と断ずるではリスクが違うからです。相手は剣聖です、確実でなければ民は心根を縛ります」


「でありますな、私も昏睡事件と剣聖の二件は別として見ておりました。同時に関与してもいるとも、私は考えておりましたがね」


「でしょうね、でも、犯人はハバラ・ラバハじゃあない。民は誰も犯人を見てはおらず、現場にはハバラ・ラバハの物品やらしき目撃情報。これだけで、アガレス王国勢力の剣聖を審問にかける訳にはいかない」


 ハバラ・ラバハの不安そうな夕日の瞳は、縮こまるツェールを見据えていた。そして、セルブは気付いた、気付いてしまった。その事実は、背に忍び寄る死のようで、不透明で漠然とした不安だ。分からない事は怖い、と勇者ならば述べるのだろう。


「ふむ、勇者殿は聡明であられる……時に、恐ろしくもある。私達の世界に来て、早二十七日、当然のように公用語(・・・)を話すとは……」


 勇者は、初めから。


 いや一体何時から。


 どの節目で、どの砌を経て公用語に切り替えたのか、全く分からない。


 あまりに自然体で、あんまりにも溶け込んで違和感を覚えてすらいなかった。


 勇者は、初めてセルブを直視した。


 黒い髪、黒い瞳、女人の格好をしても線が細くて見分けられないだろう人。アガレス王国では珍しい顔ではあるものの、不細工でも美形とも取れぬ半端な人相。


 列挙するには乏しい特徴で、立ち振舞だけが目に焼き付く。人の姿をしたなにか、分からないなにかだ。でも、憎めない不器用な悪戯好きなようにもセルブには思えた。


「ああ、そうですね? ちゃっかり練習したんですよね、具体的には『僕が動く時は二進も三進も行かなくなってから』辺りから。ね、ハバラちゃん?」


「……な、は? ……オレは……いや、うん?」


 角を掴み頭を抱えた少女、唸る姿を横目に勇者は言語を切り替える。聖女の奇跡がなければ聞き取れぬ言語にだ。


「あー、えー、こほん。とまあ、理由はないんだけどね」


「背の人はヒノマルのサトウに似た言語を使うのだなっ! ははーん、となれば寝起きゆえ聞き取れぬと考えておったあれも、もしやヒノマル言葉かっ!」


 歓喜喝采。一人で数多の拍手を繰り出すのに、文官が狼狽えた。勇者と言えばヒノマルと反芻し、疑問を呑み込んでいるようだった。


「ちょっと気になるけど、レイちゃんステイ。よしよし、で。セルブさん、僕はハバラちゃんを擁護する。何故ならば、犯人はツェール・マグナス……だけれど、ちょっとややこしくて……なんだっけレイちゃん」


 振り向く姿は、陽光を受け純白の洗礼服を纏う好青年だった。


「魂が終末人種(トィンガルジゥ)により傾向(性質が傾く)無為(なにもせずふらふら)とあらば闊達(おおらか)に観てやらねばと愚考しておったが、背の君の頼みとならば減退(萎える)す気も団団(丸く)なるゆえ、終末人種(トィンガルジゥ)めに違背(背く事)すも叶わぬ人の子に手をくれてやったのだ」


「うん、相変わらずやばい位に古い言語だね。正直やばいけど、まあ、セルブさん、そんな訳です」


 セルブは、わなわなと震え、杖なぞ手にせず椅子を跳ね除けた。


 駆ける足腰は老いを振り切って、縮こまる愛娘を抱き止めた。


 そして、真っ赤に染まった瞳に、唇が震えるだけだった。


 セルブは理解したのだ、終末人種(トィンガルジゥ)により因子を植え付けられたのだから、嘗ての王妃の惨劇が脳髄を爛れさせる。湯立つのは怒りか悲しみか、憂いか嘆きか。


 愛娘の細く痩せた両肩を掴み、崩れるように前に存在する一人の父。震える指先の温もりは偽りではなかった、父として当然の反応だ。


 二人は言葉を交わせない、理解して、どうにもならなくて、人にはどうやってもどうするもなにも、ないのだから。


 自明であった、唇を噛むツェールに、力が入った皺のある手がなんとか宥めようとする。白き勇者は空気は読まない、空下手なので二人、特にセルブに向け淡々と説明を開始した。


「つまり、レイちゃんはツェールの中に潜む因子って奴を滅却する、らしいから。あんまり離れられないし、レイちゃん自身が面倒だからって弟子にする、とかもあって此処にいます」


「……誠、なのですか?」


 愛娘の現状は明るいものではなかった、暗礁に乗り上げた船は然るに底を貫かれ沈む、沈む船を見限るには人の心は遥かなる壁となるものだ。こんなにも、痩せていた。こんなにも、脆かった。酷く冷たい肌にも、擦り傷も、父には耐えられないものだ。


 家族を失っていた、シ・テアン・レイがいなければ。


 肩に乗る鉛は後悔であろうか、気付けないでいた己が父であるのを誇れないからだろうか。否である、愛娘の僅かな温もりだけは否定出来よう筈もなく。


「是なり。吾はハバラ、ツェールを弟子とす。ツェールの荊棘(困難が多い)たる因子滅尽は請け負うゆえ、酸鼻(目を覆い)たる未来は訪れまい。吾が固守するゆえ、産土に戻りし齢は明に口述出来ぬが……ゆえ、生贄と言える」


「生贄……だからさぁ! 違うつってんだろロリババアッ!」


 それは白き勇者なりの気遣いだったのだろう、と。


「ぶっ!?」


 すぱん、と。非常に耳心地の良い、関西人特有の突っ込みが炸裂した。ウィッチハットが衝撃で大きく傾き、腕がヤマタノオロチのようにうねる。


「なんたるッ! 不敬っ! 極まれりやッ!」


 歓喜はするようで、ウィッチハットをがっと掴んで持ち上げた。実に良い表情をしていたが、文官達や、否、白き勇者だけが平然としていた。セルブですら、現実に理解が及ばない。超克四種族(シ・テンス)が一人、黒死人種(レイズダラット)たるシ・テアン・レイの頭部を打ったのだ。剰え、容赦のない罵詈雑言である。


 国の滅亡なぞ些細で些事たるもの、指先で海を割り空を割く、吐息で星を墜す逸脱者に対しての振る舞いではない。なにより救ってくれると豪語し、誓うのだからそれを貶し汚物を擦り付けるかの如き暴虐は有り得ないものだ。


 セルフがもしいれば失神していたか、アイリスならば思わず失笑しただろう。頭を撫でる見た目は幼いシ・テアン・レイを白き勇者は睨み付けて、鼻先を指で押し潰した。


「あのさ! だからさ! 僕はレイちゃんのそのてきとーな! 相槌みたいな! さすがぁ、知らなかったぁ、すごーい、説得力あるー、そうなんですかぁ、みたいな! そう! さしすせそ! みたいなのをするなっつったろうがよォ!」


 凄い剣幕だった、珍しく怒気を孕んだ声色だ。レイちゃんがびくっとする程に。白き勇者は未だ言い足りないか、潰れた真ん丸な鼻をぐりぐりして。


「それに! ついでだから言うけどその、なんつーの、エンパイア方式のワンピースってサイズ合ってねえよ! 胸元ゆっるゆるじゃねえか! 屈むと見える? じゃねえよ! 僕でかいから、目線向けると見えんだよどうにかしろっ!」


「な、なにを言うかぁっホジュンババァっ! 吾の衣は霊力の物資化ゆえ自在なり。然し、瑕疵(欠点)なぞなし!」


「霊力で出来てる? つまりそりゃ! 全裸じゃねえかてめえ! 畜生っ!」


「な、なんたる! ホジュンババっ! 取り消すが背の君たる英断なりっ!」


「ふざけるなよ全裸少女! 歩く羞恥陳列幼女ッ! 一人でも知ってる僕が憎いッ! 今直ぐどうにかしろッ! 常識ってやつがないのか二百年の元祖引き篭もりッ!」


「吾は究明を尊ぶッ! 断じてッ! 引き篭もりではないわホジュンババっ!」


 あーだこーだと、白き勇者がシ・テアン・レイの薄絹を引っ張れば細やかに抵抗し、頬を抓ったりと書類を次第にばら撒いた。数分後、二人は肩を激しく上下させ、汗を拭う。


 白き勇者は乱れた髪をそのままに、セルブに向き合った。


「すみませんセルブさん、取り乱しました。まあ、うん、こいつがなんとかするんで気にしないでくださ、ぐはッ!? 脇腹にハイキックを繰り出すなッ! てめえ下着も履いてねえじゃねえかよォッ! 丸みえなんだよッ! 赤裸々幼女がッ!」


「はっ! 吾の美貌は揺るがぬわホジュンババッ!」


「綺麗だからって晒したら、法律は要らねえんだよッ! 因みにぃ! アガレス王国の品位公正法! 第二条! 公共の場での装い規則! 第七章! 一節目にあんだよぉ! ブァーカッ!」


 揉みくちゃだった。


「吾は人の法なぞ知らぬわッ! 外法ゆえになッ! はっはー!」


「人の形して! 人と関わんなら節度を守れっつってんだよッ! 何様だてめえっ! 他人様か!? ぁあ?!」


 壮絶に、拙く、醜い。童である、これでは。


「吾は神! そう! 是なり! 背の人が人ならば吾は神よッ!」


「なら僕はメタだぼけぇ! やんのかぁコラあッ! 表出ろやッ! ワカラセだこの赤裸々幼女ッ! どいつもこいつもほざいてんなよ!」


「やってみるが良いッ! 吾は揺らがぬ! 吾は組み伏せられようと変えん! この身は! 誓いを経て今にある! この身の本来の主に代わって吾は叫び続けようぞっ!」


 胸を強かに打ち、反り返った。誇りこそ、彼等は尊ぶ。尊厳であるのだ、意思は強く勇者に激突した。激怒ではない、矜持である。


「あー、……うん? なにそれ。君の身体だろ?」


 首を捻る姿に他意はなく、冷気を纏ったシ・テアン・レイ、幼き少女は手をぶんぶん振って誇示する。


「本体はっ! 吾の黒き血よ! 魂を入れたる器に過ぎぬ! 契約に則り、吾は必ずや恋し愛し結ばれるっ! ゆえ! この身、この姿は変えぬ! 契約に反するは美徳にはならん!」


 青年と少女が馬鹿みたいに阿呆みたいに、机の上で取っ組み合いの言い合いをしていたのだ。が、青年は完全に失速した。顎に手を当て心底不思議そうな面である。


「それは、僕が……悪いな……」


 言い争っていた者とは思えぬ冷静さで己を分析し、そして何回か頷いた。


「ごめんね、レイちゃん。僕が間違ってたよ、うん」


「否、言わんとする事は分かるゆえ……な」


 友好の握手を交わし、緩んだ空気のままに白き勇者はセルブにまた振り向いた。


「さて、続きを話しましょうか」


 いや無理だろ、とセルブは言わないが。唸り、固まる文官達や縮こまる侍女服の二人を流し見て決意する。誰が申せようか、己しかおらぬと口の中に宿した。


「……勇者殿も、シ・テアン・レイ様もお疲れのご様子。時間も昼となりましたので、食事でも如何でしょうか」


 セルブの言葉はつまり、要するに、お前らが騒いで白けたし仕切り直すべきだからとっとと飯を食って改めて話そうぜ、である。白き勇者は流石に空気は読まないが、空気を読めない人間ではない。言葉にはしないものの、言葉は不要であった。眼力こそ穏やかではあるのだが、穏やかだからこそ如実に伝わる。


 言外に釘を刺された以上、白き勇者は頷くしかなかった。それは、シ・テアン・レイとて同様だ。童か如き醜態を晒したのは初めてではないが、何百年振りか、威厳なぞとうに潰えた。此処で駄々を捏ねるのはどうやっても、恥を重ねる勇気、蛮勇は存在し得なかった。


 日々、業務に追われる文官はこの日の出来事を、他の部署の同僚にやや誇らしく語ったと言う。白き勇者とシ・テアン・レイの珍しく拙い争いは記憶に強く刻まれたのだ、笑いと怖さと、珍しさで彩られた和めはしない一幕であったと。


「ホジュンババ」=「大馬鹿野郎」


 シ・テアン・レイやハバラが用いる公用語外の古き言葉。

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