レイちゃんに任せまして
僕は、見知らぬ天井を眺めていた。はてさて、記憶にない天井だ。目を回せば、魔石照明のランタンと薬師っぽい影。鼻腔を刺激する臭いは医薬品特有の、普段嗅がない種類の刺激臭。医大生の僕としては多少気持ちが落ち着くものだけれど。
腹部に妙な重み。
目を向ければ光に照らされ虹を架ける白金の髪、看病する者が病人に負担を強いるのはどうかと思うけれど、流石の僕だって空気は読む。頭に手刀を落とすべきでないのは分かるし、そんなに苦でもない。
僕の潰れた顔面を奇跡で修復してくれたのだろうし、恩を仇で返す訳にも行くまい。胃袋と独りぼっち習慣の恨みはあるものの、特筆して小さな寝息を立てる少女に手刀を振り下ろす言い訳にはならない、良い訳がないから目だけを癖で回す。
「ん、背の人よ。覚醒したのだな」
「覚醒はしねえよ、勇者じゃあるまいし……」
寝起き早々に釘を刺す状況が辛い、うぞうぞと今日は八本青白い腕が蠢いている。器用にも本を読みながら紅茶を飲み、紅茶を飲みながら羊皮紙へとなにかを書き留め、書き留めながら得体の知れない果実を剥いている。林檎のような果実を包丁も用いずするする解体していた。一体どうなっているのか分からないが、空中浮遊する様は夢か幻か疑って二度寝したくなる光景だ。
「背の人は、人の子らしいな。睡眠を吾は然程取らぬゆえ、背の君は睡眠をどう捉えている」
「一時的な死」
「左様か」
「それは良いんだけど、なんかさ、ほら、もしかして何日か経ってる?」
「真に背の君は慧眼よな。二日と言った所だ。頭部への損傷が影響したのであろう。人の子は脆弱ゆえ、吾なれば魂魄に直接刺激を与え促せようと愚考したのだが、背の人は……まあ良い」
林檎らしき果実を切り分け、口に放っている。僕への土産でもないらしい、不要な皮は黒い霧に包まれて消えていた。一応顔に触れるが造形は崩れてはいない、セルフちゃんには感謝すべきだろう。怪我の原因がハッシューバップ・カフェンとツェール・マグナスの取っ組み合い、のそのまた余波ではあったけれど、人間って脆いのだ。突風で身体が浮いて剰え壁に叩き付ければ骨折はするものだし、痛みで意識は途絶えるものである。
僕はヘルさんやアイリスさんとは違って普通であるけれど、この世界の常識には慣れるべきかも知れない。まさか余波で吹き飛ぶとは考慮していなかった、解決した付近でひょっこり顔を出すつもりが、顛末も見届けず二日も浪費している。そう言えばツェール・マグナスやハッシューバップ・カフェンもといハバラ・ラバハは何処にいるのだろう。
牢屋かな、僕がいたような。器物破損に傷害、色々な罪状がありそうだし拘束されているに違いない。
「背の君、果物はどうか。サンテ地方からの土産よ、背の人の趣向が分からぬゆえ吾の気に入りを調達したのだ」
「いや、貰うけどさ……」
口元に突き付けられれば否応なく食べるしか選択肢はない訳だけれど、あ、甘い。咀嚼して胃に落として、白いウィッチハットを揺らすレイちゃんを伺う。相も変わらず冷気を吐息として、周りを暗がりにする姿は人には見えない。腕、八本あるし。ただ僕の看病だけではなく、僕への興味からサンテ地方とやらに足を運び名も知らぬ果実を差し出して来た訳だ。
ああ、いや、多分青い林檎だからアガレス王国の名産品だっけ。名前は知らんけど、件の梨と蜜柑の間の子と評したジャム、の原材料だ。地方によって甘さも風味も違うのだろうけれど、僕には違いが分からないから良いのか悪いのか判断出来なかった。それに、サンテ地方って言えば記憶を漁ると浮かんで来た、やはり勉学は偉大だ。筋肉と知識は僕を裏切らない。
サンテ地方はアガレス王国の遥か南、地図で言えば隣接する国もない第二の発展都市だ。海運都市だから地方へと比較的に身分が高い領主を配して管理しているものの、生産力や交易力からか自治区紛いの都市でもある。先日、いや、寝ていたからちょっと前にアガレス王とセルブ宰相が頭を抱えていた。どうにか王都の求心力を増したいが、結局遠くにいる王より身近な領主を支持するものだし、別段税を納めていないって感じでもない。
憂いているのは王都より栄えている現状だ、海の交易を行えるので北や西に東に船を出せば外交交易を行える、故にどうしても陸路主体の王都より栄えてしまうのだ。近頃は空路を模索し、気球船に似た乗り物を盛んに開発している。魔石の恩恵は凄いが、肝心の浮遊機関や推進装置に手こずっているようで、海外大学で名誉教授と博士号を渡された、普通なる僕ならば助言も出来そうだけれど。
推進装置なんてぶっちゃけプロペラで良いだろうに、ギア、歯車を独自に開発したこの世界の住人に態々口を出す謂れはない。なにより、戦闘機が飛ばない世界ってもんも乙だろう。未だに二次元的な戦闘思想なのか、と言えば魔術師とかの存在でそうでもないのだけれど。
先代勇者パーティーには空を飛ぶ種族もいたと記されていたし、それにアガレス王国は三国列強からすればド田舎らしいので、噂の帝国や、女神教の総本山たる法国、それに小国の集まりである集国とやらには興味がある。三国列強では戦闘機が飛んでいたり戦車が地を這っているかも知れないけれど、それでも、そんな武力があっても先代勇者は伝説で、英雄なのだろう。
「レイちゃんは空飛べるの?」
「否、空間を折り畳み次元を縦貫し通過するのだ。ああ、否、つまりはだな……空間と言うものから説明しよう」
「いや、いい。理解した。テレポート、その中でも主体な概念だね」
「ほう、転移を知り得たるか背の君は」
果実を小さな口に放り、禁書を読む手を止めた。ウィッチハットを摘み上げて見せる瞳は、今日も今日とて白銀に煌めいていた、物理的に。
「うん、まあ。他にも量子運動ってランダム性があるから、生体情報を目的地に入力して現在地のPEを複写して……、まあ、いいや。他にもターディオンじゃ突破出来ない、質量の呪縛って奴を突き破る方法もある。サブエーテル、まあ、これが虚数場って奴になるんだけどさ。常に光速を超える虚数量子でタキオンってあるんだけど、もし光速による移動によっての、過去に逆行し続ける物質は傍目からはテレポートと大差ないよね」
「ふむふむ、しかし速度に比例し現に存在す物質は重くなろう?」
「そう、だから計算上無限質量のタキオンはこの物質界には存在しないと仮定されている。常に逆行する性質上、三次元、四次元的に認識不可能でもあるけれどね。虚数場を除けば、普通の手段じゃあ触れすら出来ないだろうさ。ってそんな話は横に置こう、そうじゃない、ハバラちゃんやツェールちゃんってどうなったの?」
「吾のアトリエに座しておろうな、アガレスの童が喚いておったが、吾の琴線に触れる事もないゆえに。法なぞ吾は知らぬゆえ、つんとしてやったわ」
何処か誇らしげに、薄い胸元を叩く。
「あー、つまり軟禁……。アガレス王やセルブ宰相の苦笑いが浮かぶけど、まあ、レイちゃん相手になんも言えないよな……そりゃそうか」
レイちゃんは法の下に生きてはいないので、レイちゃんはレイちゃんの意思に従い尊重する。今回の対処は恐らく僕の為であろう、他人を自陣営の、我が城に呼び込む理由なぞ他にないだろう。自己研究や究明にしか興味のない長命種なのだ、不老不滅の完全生命体である。なにを考えているのか、全容を知り得はしないだろう。なんだって僕に関わるのかは知らないし、レイちゃんなりに様々で色々な思考の一つとして目を向けているのだろうけどさ。
「じゃあ……昏睡事件の被害者は?」
「あれは魂魄の疲労よ、致命ではないゆえに、いずれ覚醒しよう」
「……一週間とか?」
「否、早くて一年……遅くとも十年程よ」
「ああ、そう」
時間の感覚が本当に違うのだろう、レイちゃんの声はややご機嫌で明るい。冷気を垂らす吐息を腕で回し、フード付きケープが風もないのに靡く。
「魂魄への刺激を与えんとすれば、魂魄強度を上回れば滅ぶゆえ吾は手を加えたくないのだが……」
「いや、まって、いい、放置でいいから、うん」
取り敢えず、事件の元凶は捕らえたのだ。誰も死んではいないのだし、敢えて死の光景をチラつかせる必要はないだろう。
「左様か。然しあれよな、終末人種が辺鄙な地にまたもや現れるとは不覚ゆえ。吾とて訝しんでおる」
腕の一本が顎に触れ、首を傾げていた。身を縮めると老婆のようにも映る、童話で語られる魔女に似ていた。
「手引きした奴がいる、かもって話? まあ、あるかも知れないけどね。今はどちらかと言えば事件の落とし所かな」
よっこらせと、僕はセルフちゃんの寝姿を暫く見た後に起こさないように気を付けて身をベッドから抜く。二日動かしていない身体は、他人の身体かのように固くて違和感が抜けなかった。こんなに身長高かったかな、と周囲の物を見比べつつ、傍らに置かれた靴に足を突っ込む。肩や腰を捻ればばぎばきと鳴った。
「ゆうしゃ、さまー……顔、がー……」
声に振り向けばベッドに顔を伏せるセルフちゃん、聖女として振る舞おうとしてなければ幼くて未熟で我儘で、なんでもない毎日にわくわくしたり悲しんだりする年頃なのだけれど。こうして改めて寝顔を確認すれば、本当に未熟だって心に落ちる。狂っていると僕は評したけれど、年頃を考えれば仕方がないのかも知れない。なにかを信じなくちゃやってられない、そんな時は誰にでもある。次第に信じるより疑う方が楽になって、不幸に甘んじて、幸せを妬んで。
そう言った考え方をすれば年相応で、背伸びしなくちゃ駄目な立場にあるセルフちゃんを中々嫌いにはなれそうにない。親友だって、そうだったから。
「背の君は優しいのだな」
「……そうさ、とびっきり甘くて優しくて……そんなんだから、質が悪い」
僕はそう答えた。レイちゃんは最後の果実を噛み砕き胃に下すと、腕を忙しなく動かした。
SAN値チェック、1d100、45、一時的狂気発症、僕は異常を愛し始める、なんてね。
兎も角、差し出された腕に手を向ければ。
這い回る感覚の後、忽然と風景が暗転する。なんの違和感もなくて、気付けば暗い何処かにいた。瞬きを繰り返せば目が慣れたのか、壁や天井が見える。魔石照明のランタンが幾つか壁に掛けられていて、記憶が確かなら旧資料塔に似ていた。
旧資料塔の構造は至って単純だった。螺旋階段と、中央に十字の通路のある階層構造である。
となると、上を仰げば。
遥か上にはやはり、ステンドグラスらしき緑や黄、青の光。どうせ女神とやらを象っているのだろう。正直、アガレス王国の重要な建築物には必ず備わっている、いやこの場合蔓延るとか巣食うと言えるけれど、女神教の威光が強い。そも、古き伝説の担い手たる勇者と女神の関係が深いとも記されていたので当然ではあるのだが、しつこく他人からあーだこーだと口出しされるような気分になる。
ぶっちゃけ、うんざりしている。異世界に憧れなかった僕は、日に非日常を求めなかった僕は、常日頃から煩う僕は、きっと勇者なんかじゃあないのだろう。未知や既知も押し並べて俯瞰する僕じゃあ、どうにも似合わない。聖剣よりナイフが似合うだろう僕だから、ずっと思う。線路に置かれた小石のように、ずっと気に掛かる。
適度に自虐を挟み気怠いままに睥睨してやれば、ウィッチハットの位置を吟味するレイちゃんがいた。辟易する現実から逃避を選ばないままに、心の揺らぎが衰微するように、掌に流れる色だけ克明に見分けられるままに。二進も三進も行かなくなって僕は、今だって此処にいる。
「時に背の人よ、なにが見えようか」
「……んー、そうだな。少女二人が怯えてる姿……?」
侍女の服を着せられて、二人で手を重ね部屋の隅にいる。レイちゃんを見る目は怯えだけではない様子ではあるけれど、この二日でなにがあったのだろう。ハッシューバップ・カフェンでもあるハバラちゃんも、どうしてか侍女の服を纏っているではないか。犯罪的だ、背徳的な気配がする。
「心外ゆえ、吾たるは僻目を正すとする。一に、吾とて外法には準ずる。二に、吾とて強制はせぬ。三に、此度の件を有耶無耶にするに吾の弟子にせねばならんかったのだ。ゆえ、吾に非はない」
むんすっと、鼻を鳴らし胸を叩いた。いや、どうやっても拒否権なさそうだけど。ハバラちゃんの綺麗な角はくすんで見えるし、ツェールちゃんって気弱そうだったのに更に萎縮して、あれじゃまるでミジンコだ。健気に紅茶の用意をするとか、言い渡された掃除もなく、存在するなら良しと言った風情である。せめて手暇を慰める仕事は割り振るべきだ、問うまで指示をしないは怠慢だ。責任ある立場で一番のやらかしだ。
「弟子なら、ちゃんと面倒はみてくれるんだろ? 一応聞くけどずっと軟禁しないよね? 分かる? 相手は生き物だよ?」
「失敬な。吾とて、理解する。人の子は脆く儚いもの、明証もあるゆえ、朗笑を称えていよう」
腕の一本が二人を示す、どうにも錆び付いたロボットだ。裾を握って震えてすらいる。
「苦笑いって言うんだよ、体裁とも言うけどさ」
「左様か……然し、金銭も払っておるぞ。弟子でもあるが、侍女としても見込んでおるゆえ」
「でも、ハバラちゃんってクランの頭じゃないの? ツェールちゃんとか、マグナス家の令嬢じゃない?」
「人の価値観なぞ吾は知らぬゆえ、マグナスとやらは新しき華族か」
ツェールちゃんは、びくりとした。気の毒なので僕は首を振るう。王家の記録ではマグナス家は三百年前から貴族だったし、なにより宰相セルブこそがマグナス家の当主なのだ。ぶっちゃけ、ツェール・マグナスちゃんとセルブさんの家名が同じで引いた。知った時は家名の被りとかあるんだ程度だったけれど、そんなもんはなかった。調べれば調べる程に関係が強固になり、ちょっと放棄したくなった。
「宰相の娘さんだよ、末の、だけど」
「左様か、ふむ、跋渉し裁定の水準を見直すべきやも知れぬが。彷徨すにも不熟たる人の子らを香具師と揶揄されては敵わんからな。暫し面倒をみるも、師の務めゆえ」
なんだかやれやれみたいな雰囲気だけど、軟禁は勘弁して欲しい。とばっちりが来る。誘拐させたのは、そりゃあ、赤き勇者を口先と手八丁で騙し謀り乗せて転がした黒幕な、どうやっても僕が原因だけどさ。要因はハバラちゃんだし、最悪の未来を見据えての慈善と事前の仕込みである、僕は悪くない。筈だ。きっと。不安だけれど。
「家に返して欲しいんだよね、二人は。なんなら僕が弟子になるよ、魔法興味あるし。貴重そうな資料読みたいし」
「左様か、然し背の君は……魔法を使えぬゆえ。否、何故生きておる、であると正そう」
ウィッチハットから僅かに覗く白銀に、少し気分が呑まれた。肌に伝う冷気に産毛が波打ったのが分かる。顔には出さず、ゆっくり口を開く。
「魔法使いたかったんだけれど」
「不可能だ、背の君に霊力はない」
「え、少ないとかじゃなくて?」
「左様、零だ。この世界に限らず、大抵の者は霊力を保持する……のだがな。竜の子、あの勇ましい人の子も例外ではないゆえ。背の君は、生き物であるのか?」
「心外だな、多分きっと、それは産まれた世界が原因さ。僕の世界に、超能力者も、魔法使いも、神や仏、そんなものはいなかったから」
みたいな奴は一杯いたけれど、どれも、偽物だ。偽物が本物に劣る道理はなかったし、苦労しかしなかったけれども。本物は少なくとも、知る限りは存在しなかった。本物っぽい奴、偽物だけど本物に勝りそうな奴、はいた。氏族の連中とも、誰とも関わりがない話だし、終わった話だけど。
親友、略してしーちゃんとかも本物っぽい偽物だ。特定の分野なら突き抜けた天才、十代にして都心のビルを丸ごと根城にする天才で頭が可笑しいあいつ。今頃風呂にも入らずぐーたらと気儘に生きてたり死にそうになっているのだろうし、毎秒で僕のアパートが潰れる札束を動かしているに違いない。
他にも、極まった偽物は魔法みたいな事を平気でする。どうやったら天井歩けるんだよ、手品師過ぎるだろ。ああ、いや、ムカついている場合じゃないな、思考が曲がるのを無理に止める。
「それに、背の君は魔法が必要ではないゆえ」
「それはどう言う根拠なのか疑問なんだけど、僕だって純粋な興味くらいあるよ」
「左様か、吾の思うに背の人は力を切望する人なりではあるまい。過ぎたるは及ばざるゆえ」
本音で言えば、そうかも知れない。僕が魔法を扱いたい、とかない。傍目から見るだけで良い、そう、なんだろう、不純物が身体に入るみたいな気持ち悪さがある。創作物の主人公に憧れなかった、異常を望まなかった、そんな力を欲しなかった。
「それにしても背の人は、妙な怪我をするものだな。顔面に迫れば、顔を背けようものだが」
僕は近場の椅子に腰掛けた。
「ん、ああ、僕さ反射神経ないんだよね。なんて言うか、教授がなんか言ってたよ。人間って大部分の動作が大脳皮質って奴の働きで自動化されてるんだけど、僕にはそれがないらしくてさ」
説明しつつ、羊皮紙と羽根ペンを操る。寸分違わず、身体を動かして炭を垂らす。
「ふむ、興味深いな」
「痛覚や寒さに熱さ、全部正常だけど脊髄反射って奴は僕にはないんだ。大脳皮質の機能ってのは多岐に渡るんだけど、元来備わるべき機能がないからさ。腕を上げるって動作にも思考を重ねて実行しなくちゃいけない」
絵を描いて行く、そこには簡素ながら怯えた二人の姿。さらさらと描いて、レイちゃんに一枚目を渡す。不思議そうだったが、僕は二枚目に着手する。
「呼吸だって、心臓だって、大脳皮質が日常動作を自動化したお陰で人間って生き物は頭が一杯一杯にならなくて済んでる。僕には、それがない。だからさ、ちょっとした特技にもなるんだ」
二枚目も同じ、怯えた二人の姿。羊皮紙をレイちゃんに手渡すと二つを流し見た白銀が強まった。
「……人とは、こうも正確無比に全く同じ動作を行えるものではないゆえ、普通とは呼べぬな」
全く同じ動作と力と時間で描いたのだ、一ミリの誤差もない。あるとすれば羊皮紙の状態、炭の出方の些細な変化だけだ。僕のこの特技は親友には一発芸と呼ばれ、時には悲しい病気とも指差されたものだけれど。もう、大学生になるまで付き合って来た身体だ、随分扱いには心得がある。
「つまる所、背の君は……危ういな」
指が、目の前にあった。普通なら瞼を閉じる局面でも、僕には反射がないから見開いたままに指を観察していた。
「意思によるよ、僕がどうするかだし。僕がどうにかしないと、どうにもならないとも言えるかな」
「辛くはないのか? 吾とて肉体の自動化はあるゆえ、冥宵人種ならば精通しているやも知れぬな。吾の道は魂魄ゆえに門外漢だ」
「病と、君は思うのかな」
「難儀よな、才とも呼べぬ」
「確かに、その通りだ」
僕は気楽に口にして、筆を置く。椅子に腰掛け直し、壁に背を当て抱き着く二人を見やる。大人しいものだ、特にハバラちゃん。ちょっと文句や不満がありそうな目をしているけれども。
「ハバラちゃん、今回の間違いを幾つか指摘するよ」
「……ちゃんって呼ぶな」
僕は弱々しくも折れてない声を聞き流して。
「一つ目に、君はツェールを救う為に周りを巻き込んだ。いいよね、本当に無責任で。僕はその間違いに一々口を出すし、今後も根に持つ。君のやった事は事実の隠匿だ。どんなに大切でも、今時、世界と君を天秤に乗せるのは流行らない。もっと貪欲に二つとも手にすべきだ」
「ふざ、けるな……オレにどうしろってんだ。綺麗な話で、オレに喚くなッ」
声は抑えていた。蒼を基調とした角、その捻れを観察して。
「捻れてんじゃねえよ、理屈だろ。君と世界を天秤に乗せて、君の為ならって世界を捨てるなんざ恥を知れ。それこそが綺麗事だろうさ。ハバラちゃんこそ、不幸に怠けてるじゃないか」
「ハバラはっ……私のっ」
ツェール・マグナス、セルブ宰相の娘。面識はなかったけれど、初めてが誘拐であるのはなんとも奇妙な巡り合わせだ。
「ああいいよ、別に話さなくても。君だって、他人の人生を奪ったんだ。時間を奪うってのは、それがどんな理由でも取り返しがつかないものだろう?」
ツェール・マグナスは俯いた、僕はこの二人を好かない。好かないけれど、嫌ってもいなかった。でも時折思い出しそうだから、親友に会った日のような気持ちで口を開くのだ。
「早くて一年、長くて十年。死んだのと、なにが違うんだ? 君の犯した罪は到底拭えないし、払えない。目を覚まさない大切な人だって、目を覚まさない人を待つ大切な人だって、いるんだよ」
二人は遂に押し黙った、実感が二日と言う時間で追い付いていたのだろう。
「背の君、二人を無闇に怯えさせるでない」
意外な角度から援護射撃があった。僕は首を傾ける。
「一応、意味はあるんだけどね。この二人は未来ある若者だよ、二度と間違えないようにお兄さんから忠告してるだけさ。優しいからね。それと僕は二人になんにもしない、罪を問わないし罰も与えない。僕に責任はないし、なんの義務もないからどうだって良いんだよね」
「碌でもないなっ!」
なんでか万歳して喜ぶレイちゃんに引きつつ。
「二人はさ、誰かに頼る努力をするべきだ。ツェールちゃんは被害者でもあるけれど、だからって許されるとは僕は思わない。今回は、レイちゃんがいたから丸く収まるけどね。たらればやもしもって奴は嫌いだけれど、二人はもっと頼れば良かったのさ」
「うむ、弟子であるからな。外法に倣えたるは術師の性よ。然し、背の君」
「うん?」
「終末人種の因子に付いてだが、ツェールを吾から離す訳にはゆかぬぞ」
「まじで言ってる?」
「なんぞ? なんと申した背の君」
僕はちょっと驚いた、ので首筋を撫でる。よし、冷静。
「いや、まじなのかなって」
「まじ、とは知らぬが。吾から離れれば侵食中の因子を抑え滅せぬゆえ、ツェールは離せぬ」
「……まじかよ、え、どうしよう。セルブさんにどう言ったら良いんだ……?」
やばいな。やばいぞ。考えていなかった、既に誘拐中で軟禁中だぞ。セルブさんに殺されるやも、全く緊張していなかったのに事態は悪化している。さてどうしたものか。いや、未来の僕に任せよう。
「それはそれとして、ハバラちゃんがどうして勇者に関わったか、なんだけど。あれって別にツェールちゃん絡みの足掻きじゃないよね?」
「ぁ、ああ。オレは聞いたんだ、白い勇者ならツェールが救えるって……だからあの日、会いに……」
ちょっと待て、新情報ではなかろうか。
「……誰から聞いたの?」
「……誰って、言われても」
ハバラちゃんは角に指を引っ掛けて小首を傾げた、くすんだ赤毛を指に巻き付けてから顔を上げた。
「わからない……」
言葉が濁る。目はうろちょろとして、必死に記憶の戸棚を撒き散らしているかのようだった。
「知らないんだ、オレは確かに……見た、のに……」
思い出せないならば仕方がないだろうと、僕は流す。しかない。気になろうがなんだろうが詰んだ話を掘り返す必要もない。
「ふうん……まあ、良いけど。取り敢えずさ、君とツェールちゃんの関係ってなに?」
「お、オレのクランに働きにきてんだ……」
「そっか。え、あ、そう。じゃあ面識はあるのかな……ならさ、ちょっとセルブさんへの釈明会いかない? 僕だけだと怪しまれるし」
ツェール・マグナスちゃんって思ったより即決する性格なのだろうか。ハバラちゃんの困った顔からすれば、ツェールちゃんはクランに入り浸る程度には通っていたに違いない。クランの生業は基本魔物討伐による魔石収集だ。そんな血生臭い会社に入り浸る令嬢なぞ、災いしかないけれども。令嬢の中でも宰相の娘であるから、困りものだ。
「無理だッ、親にはヒミツなんだ」
「いやいや、僕を貶めたいのか? 身に覚えしかねえけれど、君とツェールちゃんは必須だ。どうするもなにも、言い繕うにも当事者がいないと始まらないだろう?」
「でもっ……ツェールがやった事は……」
「隠匿すより赤裸々に明かすべきと吾は愚考する、吾の弟子一号よ」
「そうさ、そうあるべきだ。幸い人死にはないしね、王と聖女は僕に任せてくれれば良い。後、年上お姉さんたるアイリスさんは僕の言いなりだぜ!」
親指を立てた。
「碌でもないなっ!」
僕は悪くない。二人で万歳して、手を打ち合わす。レイちゃんの蠢く十二本の腕、ちゃっかり増えている。おや、ハバラちゃんとツェールちゃんはアイデアチェックに失敗したようだ。青白い顔でおろおろしている、気持ちはそんなには分からない、理解はするけれども。僕もダイスを振るべきだろうか。
「なんとなくさ、ウェンユェの件ってどうなってるか理解したんだけど」
「オレのクランに不義理はいねえ」
こればかりは譲れないのか、若干の怒気を帯びていた。赤毛も重なって凛々しくも未だに幼い。捻じれた角の鋭角さを確認し、手を叩く。
「恐らく、ウェンユェ達は君達のとばっちりで襲われてる。いや、怪しいからねあの二人」
襲われた被害者、そのクランは裏路地を見張ると述べていた。ウェンユェ達が巻き込まれたのはそれだろう。勿論、二人が事態をややこしくしたのは間違いがないしウェンユェ達に非はない。なんなら被害に遭ったクランの人達だって悪気なんざないのだから、二進も三進も行かなくなるとは正にこれだ。
「二人は、多分もう王都にはいないだろうな……。ま、良いさ。所でなんでメイド服なの?」
「吾の趣向ではない、背の人の好みではないか?」
「心外だな、いや、ほんと。アイリスさんみたいな年上のお姉さんならいざ知らず、年端も行かぬ少女に僕は靡かない。僕は告白されても断れるし、可愛くても綺麗でも正論を叩き付けられる人間的な強度があるんだ。なにせ僕は某国の姫君すら素気なく振った男だぜ、誇りですらあるね」
肩を大袈裟に竦める。
「碌でもないなっ!」
「……、そうかも」
こればかりは傷付いた気がする、言われたらまあ心底碌でもない話だ。話の方向性に得心が行かないので道理を考え理屈を捏ねる。終末人種は何故ツェール・マグナスを見初めたのだろう、なによりレイちゃんだって弟子にしようとしている。
「ねえ、今思ったんだけど。なんでツェールちゃんだったんだろ?」
「む、竜人種の血を引いておるゆえ」
「……なにそれ、初耳だな」
尻尾、翼、角もない。白髪に、赤い目だ。翡翠のドレスではなくメイド服になっているだけ。裾を掴み縮こまっている。
「古き血よ、ゆえに物珍しいのだろう。帝国にも存在していようが……アガレスでは希少ゆえ」
「古来人種よりも?」
「左様。そも古来人種は種としては人種より優れておるからな、種の総数だけはどうにもならぬが」
「ふうん……」
僕はそうして、二人の侍女見習い兼弟子を観察する。寝起きから振り回されてばかりだが、今日はセルブさんとの戦いが待っている。酷く、憂鬱だ。もう一度考える、駄目だ、陰鬱になる。考えるのは止めよう。
年上のお姉さん成分の枯渇だ、早くアイリスさんを探したいけれどセルフちゃんの周りにはいなかった。となるとあの部屋は王城の何処かにあるのだろうし、レイちゃんを信頼し信用しているのだろう。あの人も謎ばかりだ、剣聖ではないが剣聖で、メイドではあるがメイドでもないようだし。
「時に、背の人。嘘を吐いてはおるまいな」
「いいや、全然」
なんとなく、そう応えた。少なからず僕は気遣いの出来る大人ではあったから、色々抱えて背負って黙っていられたのだ。本当に。
「禄でもないなっ!」
歓喜、喝采。




