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超克四種族


 吹き飛ばされた矮躯が踊る。


 床が浮く。

 壁が崩れる。


 殴られて、吹き飛んで。


 名も知らぬ店の壁を背でぶち抜いて。


 勢い余って隣接した露店を破壊して転がった。


 血は流れない、この身体は石より強い。

 血は流れない、その身体は木より強い。


 巻き込まれた品々が散乱する。果実と、陶器と、棚や壁や照明が視界を埋め尽くす。錐揉み回転する肉体を、片足を床に突き立てる。素足は、石畳を抉る。一本の直線を引き、ハバラ・ラバハは屋外にいた。


 片足立ちで、その民族衣装を太陽に浸すと珠簾の飾りが色とりどりに輝いた。巻き込まれた人々を横目に、名も知らぬ店から這い出る少女を睥睨する。被り物がなくて少し落ち着かないが、赤毛を風に任せて息を絞る。


「ツェールっ! オレが、見えてないのか!? このっ、ホジュンっ! ババっ!」


 ハバラ・ラバハの民族に伝わる言語体系は古く、歴史を遡ると現代の公用言語にも共通点が見付けられる。しかし、それは理解が出来るかと言われれば、マイナーで理解はされない言葉であった。ハバラ・ラバハとツェール・マグナスは知り合いだ。故に、ハバラは手を緩めていた。人間ならばへし折れる力でも古来人種(ラルヴァスダラーダ)には耐え難い苦痛にはならない。強く硬く柔軟で、木より強い、石より強い、鉄より強い。肌は矢を通さない、肌は剣を受け入れない、馬車に当たれば馬車が負けよう、だが。


 それでも尚、頬を撃ち抜かれ口内に血が滲み出していた。怪我をしたのだ、油断はあったし気が逸れてもいた。だが間違いなく人でないなにかが、ツェール・マグナスを突き動かしているのは嫌でも分かる。視界を埋める土煙が晴れて行くのを尻目に、じゃらじゃらと珠簾な飾りを打ち鳴らす。


「いってぇなぁ……あぁ? なんだい、この倦怠感……? 骨みてえなデバフ……ん? 霊力吸われちまったのかあたしは? クソッ! ふざけやがって!」


 倒壊していた家屋を蹴って、爆発した。にょきっと生えた真っ赤な女が、ハバラを睨むと斜め右に目を流す。


「おい、小娘。あの嬢ちゃんはなんだってんだい(・・・・・・・・)?」


「小娘と呼ぶなッ! オレはハバラ・ラバハ! 剣聖だッ!」


「うっさいんだよ、頭いてえから手短に説明しなっ!」


 ハバラは、その気迫に舌打ちする。瓦礫の山を悠々と闊歩して、翻るローブと赤毛が嫌に自己主張を強めた。


「ツェールは、恐らく……終末子人種(トィン・ソ・ガルジゥ)だ」


「なんだいそれ? あれだな、敵だな? 殴って良いんだな?」


「ツェールは違うッ」


「お、おう。そうか。その、なんとやらってのは? あの嬢ちゃんあたしの霊力食らったみたいだよ?」


 ごきりと、首を鳴らした。瓦礫を踏み締め、未だに晴れない視界の中でヘルは寸分違わずツェール・マグナスであろう人物を補足していた。灼に溢れる瞳が射抜くのは、白き勇者達がたむろしていた飲食店である。今ではすっかり片側が崩れ、崩落一歩手前の佇まいである。


終末人種(トィンガルジゥ)超克四種族(シ・テンス)の内の一体……それの、…………だから、敵じゃねえんだ」


「はんっ、算段はあんのかい?」


 その場で屈み、ヘルは入念に身体を解す。腕、肩、足、腰、あらゆる部位を点検し不備はないと再認識する。癖となった請負証を視界の隅で操作を並行させつつ、自らの身体と思考の齟齬を適切に擦り合わせ、毛程の隙間も許さぬ精度に引き上げる。これは請負人であれば行うルーティンであり、如何に集中し物事を解決するかが問われる。生死を賭けた場面であれば尚更必須で、些事たる綻びは死を招くと骨に染みた教訓だ。故、ヘルは怠らない。


 事態の把握は無論、調子は何時も万全ではない。しかし敵は何時も都合を省みないものであった。鞭もなければ、技能球も一つ。万全であるものか、と、ヘルは内心思った。


「で、あの嬢ちゃんどうすんだ?」


「っ……どうにか、止めんだよッ」


「止めるったってよ、どうすんだい? ありゃ、嬢ちゃんの意思じゃねえのか? やっぱ殴るしかねえだろうが、それとも気絶させんのかい?」


 長髪が波打って、周囲の風景を赤に刻む。真っ赤に過ぎる女傑の口端から蒸気が吹く。歯の隙間を抜け、鋭く嘶いた。


「駄目だッ! ツェールに触れるなッ!」


「あん? 触れるなだぁ? あー、あれか、骨みてえに遠距離で仕留めろってか?」


 ぶつぶつと、周囲の住民巻き込んじまうなと愚痴を垂らして、傍らの矮躯を見下ろす。


「で、説明はねえのか?」


「した、だろっ!」


「そうかいそうかい」


 ヘルは乱雑に手を振り理解を示した。要するに行き当たりばったりで算段なぞないと、ならばそれは非常に立ち回りに注意せねばならぬ事を意味する。薄まった土煙と、人々の喧騒が遠ざかっている今。二人の前には酷く痩せた少女の姿がある。長い白髪に、翡翠のドレス。伺える肌色は青白くて、白く美しいよりは不健康で病的な印象ばかり。


 手足の細さも、細くて美しいより、筋肉もなく病的で怖い。全体的に痩せていて、頬もやや窶れているように思えた。ツェール・マグナスと呼ばれる少女は冷たい夜を纏うような、湿度の籠もった居住まいだ。貴族らしい服装も相俟ってとても貧相に映る。生来の少女の姿ではないのだろうと、ヘルは考える。真っ赤な、血に熟れたか様の瞳を向けられて二人はそれぞれに構えを取った。


「さてと……住民の避難は自主に任せるとしてだな……」


 請負証の基本機能にある識別を視界の隅に据え、二人を中心に距離を離す生体反応を目視する。点達は少なくとも半径五十メートルは離れており、同時に魔術の射程圏内であると警告していた。請負証は一応、最低限のカスタム権限が与えられる。本来は手を加えられないのだが、請負官となるとフィジカルは請負人の比ではないのだ。与える損害把握を請負証にて確認出来れば、高度な任務も卒なく解決出来ると言うもの。故に、自らの魔法や魔術の情報を逐一収集し演算させて被害規模データを作る権限が与えられる。


 これは、実の所灼零のヘル自身が三大魔女に提案した機能で、三大魔女の内、ウィータエ・アエテルナエ・ニヴルヘイアと呼ばれる久遠の魔女に訴えた内容だ。請負官の中でもピーキーなフィジカルや特異体質は存在し、ヘルとて火と氷の属性が強制反転する体質に悩まされていた。骨と雑に呼ぶスケルトン系魔生物の討滅ならいざ知らず、民間人を巻き込み兼ねない任務、護衛任務、中威暴閥圏内の情勢捜査任務等を遂行するにはあって損はない。


 なにより意識を対象にだけ絞れれば、請負官の負担も軽減可能だ。ウィータエ・アエテルナエ・ニヴルヘイアは試験的にヘルの請負証にカスタム権限を与え、備わっている演算機構を活用させる事を快諾した。理屈はどうあれ、久遠の魔女を説得した彼女には自らの及ぼす被害規模と眼前で血のような目をしたツェール・マグナスと言う少女が最低限及ぼすだろう被害規模の概算が浮かんでいた。


 その半径一kmだ。とてもじゃないが、大真面目に馬鹿みたいに魔術や魔法をぶっ放して良い規模ではなかった。困ったねえ、と頬を掻き。如何に被害を出さずツェール・マグナスを鎮圧するかを思案する。


 住民の避難が進む中、群集を逆走する点が目に留まる。恐らくは衛兵だが、遠隔で全能度の測定を走らせると簡素な憶測が飛ぶシステムもあり、評価は二であった。現場は評価五、明らかに下回っている。群集の戦力統計を算出するシステムも、ヘルが久遠の魔女に掛け合って導入された物である。ざっくりと把握するには丁度良く、精査には欠けるのだが重宝している。


 ツェール・マグナスの両腕は力なく、紐を垂らすようにぶらぶらしている。ゆらゆらと揺れて、瞬き。ヘルは仰け反った。鼻先、爪が空気を割く。蹴り上げるべきかを考える前に、飛び跳ねた。石畳の道路が弾ける最中、右に左に振られた腕を注視する。請負証の警告が耳を打つ。真横に身体を捻れば、圧縮された余波で露天が引き裂けた。縦に横に亀裂が走ったのだ、腕を振るうだけで、直接触れてすらいないのに。


 ヘルは眉を潜めた、訝しんだ、速度に比例して圧縮された空気が周囲へ損害を撒き散らすにしても、指向性の高さが腑に落ちないのだ。目を細め、腕の軌跡を辿る。頭を引っ込めれば真上をなにかが通過して、背後の商品棚が弾け千切れた。


「チッ! なにか飛ばしてんだろッ!」


 長大な灼髪が渦を巻き、身を捻らせて跳躍する。すかさず飛び掛かる少女の肩に足裏を当て、軽く押し飛ばせば更に上に身体は浮いた。踵落としなりなんなりをすべきか一瞬悩んだが、一応経緯的に助けたつもりでいたので躊躇いがあった。解き放った自覚もあるにはあったが、未だに保護したいと言う善意は欠けてはいないのだ。


 が、足首を掴まれた。腕力は、骨を軋ませる。


「がっ! ぐぅあっ?!」


 痛みより、身体の奥底で停留する霊力の流れに意識が引っ張られる。素手で触れられた箇所から、内に秘める霊力が爆縮するかのように強引に引き抜かれた。否、引摺り出されている。原理は不明だが、ヘルは霊力量の減少に気付いてはいた。触れずに立ち回るつもりでいたが、どうにも身体能力を見縊っていた。慢心よりは、油断よりは、躊躇いがそうさせる。敵でも味方でもない少女を相手にするのは予想より数段重く肩に伸し掛かっていた。


 咄嗟に、身を捩る。足を引っ張り上げて。平手で、利き手ではない方で、顔面、頬を叩く。凄まじい轟音と、露店を数軒巻き込み吹き飛んだ。大砲を撃ち込んだような衝撃と王都を震わす地震。爆心地の如く、晴天を縦貫する土煙。吹き上がる瓦礫に、品々に、木々に。


「ぐぅ、くっそがぁッ!」


 対面の露店に背中から突っ込み、訳の分からない果実を片手にヘルは起き上がる。苛立ちを、手にある果実に向けて。潰れた果実の汁で乱雑に豪快に喉を潤したか。ぶんと凪いだ手が、周囲の土煙を晴らす。そんな折り、露店の屋根に着地する矮躯が一つ。じゃらじゃら珠簾を鳴らし、美しい角を光らせる剣聖だ。


「どうなってやがる!? 霊力吸収ってもんじゃねえ! なんか、こう、魂っつーのかッ!? 根こそぎやられんぞあれッッ!」


「だから言っただろホジュンババッっ! 触んなッ! オレがなんとかするから引っ込んでろ人間ッっ!」


「冗談抜かすな小娘ッ! ありゃあ()じゃねえってんだいっ! どう落とし前つけんだこの阿呆っ!」


「だからっ! オレの話を聞けホジュンババッ! 終末子人種(トィン・ソ・ガルジゥ)だっつってんだろホジュンババっ!」


「あー!? 二回も馬鹿っつったなこの小娘ェ! そんなもん知るかッ! どうする!? 殴って良いか全力で!」


「だからっ! ツェールに手を出すなッホジュンババっ!」


 言い合っていると、コツリと硬質な音がした。二人の間にするりと滑り出でたのは、クラシカルなメイド服を靡かせる淑女であった。場違いに瀟洒たる身振りで、屋根を走って来ただろうアイリスが到着していた。恐らくは聖女と勇者を抱え、王城にでも運搬した帰りであろう。顔を合わせる文化の異なる三人の絵面は、誠に奇っ怪であった。


「して、状況はどうなっておりますか?」


「さいっあくっだ! ツェールってのが、なんだっけ! おい小娘ェ!」


 屋根のハバラ・ラバハに怒鳴り付ける。


「一々叫ぶなホジュンババっ! ツェールは終末子人種(トィン・ソ・ガルジゥ)だ! でも! だから! なりそこなってんだ!」


「頭から真っ二つにすれば宜しいのでしょう?」


「つまりドタマ殴れば良いよな!?」


「ああ! このホジュンババっ! てめえらそこを動くなッ!」


 二人に怒りを降り掛けて矮躯は俊敏に踊る。土煙を突き破る赤い閃光にし神造兵器(シッド)を振れば、昼間であるのに眩く。金切り声を上げる金属が、真っ赤ななにかを空に打ち上げた。土煙を割った一撃を凌いだ矮躯が、弓から放たれた矢の如く鋭角に駆ける。二歩目で、少女、ツェール・マグナスの目前。肉薄、切り返し、素足と石畳の摩擦熱で景色が歪む。


「おい小娘ッ!」


 しかし、ハバラ・ラバハは殴打しなかった。なんなら神造兵器(シッド)を投げ捨てて、暴れる少女に抱き着いていた。言葉にし難き膂力が激突し、石畳に亀裂が広がる。付近の家屋が傾いて、ごりごりと大地が絶叫する。


「ツェールッッッ! オレが! いるから! 守るからッ! あんなのに、従うなあぁああッッ!」


「はなぁああせええぇえッッ」


 人の声には到底、思えない咆哮であった。じりじりと、矮躯が床に沈む。力が負けているのだ、触れ合う肌から形容不可能な邪気が雪崩込み魂が泡立っているのである。原理は分からない、そう言うものだからと納得する他ない。超克四種族(シ・テンス)の息が掛かったなにかは、人理を外れ白濁の枠外に漂流する。ぐらぐらとする視界と、ごりごりとした大地と、咽び泣くような声だけが木霊する。


 それを、鋭く睨むのは武器を手にしてもいないクラシカルなメイド。手を前に添え、酷くつまらなそうな顔で二人を傍観しているのだ。真横で、熱と零度が混沌と滲んだ。身を沈め、正に踏み込む刹那。


 アイリスはヘルに言う。


「無駄ですよ、貴女では」


「ぁあ?! あたしの事に首を突っ込むなッ! あたしを決め付けるなッ! あたしに押し付けんなッ!」


 肌を痺れさせる霊力の密度に、それでも尚アイリスは睥睨する。茶の瞳に気圧される意思はなく、数秒の意思の交差を経て。


「……なにを、待ってんだ?」


「その観察力……ヘル様の美徳ですね」


「嫌味か?」


「いえ、素直な賛辞ですよ。勇者様とはみな、そうなのでしょうか?」


 小首を傾げるアイリスにヘルも首を傾げた。それより、と。轟音にヘルは目を走らせる。ツェール・マグナスを抑えていたハバラ・ラバハが露店をひっくり返していたのだ。人智を逸脱した取っ組み合いの最中に飛び込めるのは、他でもないアイリスやヘルだけである。二人は動かない、否、ヘルは動くべきか様子を伺うべきか判断中であるようで。


「なんで動かねぇんだ。このまま暴れれば被害は広がっちまうよ」


「何処から説明しましょうか?」


 殴られたハバラの血飛沫に眉一つ動かさずに、唇に人差し指を当てた。ヘルは長年の経験則で事態の理解を優先する、解決すべき問題は目と鼻の先にはあるが、解決策がない。現にヘルを押し留めたハバラすら事態の遅延しか行えておらず、何時均衡が崩れ去っても不思議ではない。幾ら古来人種(ラルヴァスダラーダ)が丈夫でも、無抵抗に殴打されれば限界はある、加えあの細身から繰り出された一撃はヘルの要塞装甲を貫通し得る代物だ。


「……あれ(・・)はなんだってんだい?」


「ヘル様は超克四種族(シ・テンス)を存じておられますか?」


「いいや、知らないね」


「彼等四種族は生死を手中に収めた、神代の血族です」


「神……ねえ?」


 実感の湧かない概念に、ヘルは億劫に返事をした。


冥宵人種(ブュセルツッツィー)黒死人種(レイズダラット)星遊人種(ホロヌウテル)、そして……終末人種(トィンガルジゥ)です」


「そうだ、それ、その最後のやつッ! そいつはなんだってんだい?! スケルトンじゃあるまいし、勘弁してくれよ! 触られてゾワゾワしたぞッ!?」


 アイリスは瞬きする。僅かに唇が弧を描いた。二人の、否、一方的に攻撃される姿を見もせずヘルに顔を向けた。


「全てを喰らう者ですよ、その種子のなりそこないが……あの少女なのでしょうね」


 くつくつと、微笑んで。


「笑い事じゃねえよ……全てを喰らう……つまり、触れたら駄目ってのは……」


 深く思考に沈むヘルに、アイリスは肩を竦めた。モブキャップが二人の起こす衝撃波でゆらゆら揺れる。


「ともあれ、勇者様方はとても聡明です。まさか……彼女を盤上に組み込むなんて……一体、あの勇者様にはなにが見えているのでしょうね?」


「あぁ? あぁ、あの少年か? 顔面潰れてたけど、大丈夫そうかい?」


「力はないのに、どこか、なぜか、全部巻き込む……不思議なお方」


 頬に手を添え、心底愉快そうに身をくねらせた。ヘルは一歩踏み込み、咳払い。


「んだからっ、容態はッ!?」


「大丈夫です、メルクマルクロスト様が直々に奇跡を祈っておられますから」


 蕩けた、恍惚な顔から一転。底冷えする真顔で切り捨てるように口にした。


「そう、かい。こっちもウェンユェって子がひそかに少年を連れて行っちまったよ。面倒やから任せるわとか抜かしてな」


「で、しょうね。彼が予測していた展開です」


「予測ね、なら、これの落とし所は?」


 アイリスが答えない。


 不思議な静寂が、水を打った静けさが空間を染めていた。


 そよ風に、意識が向く。


 途端、背中を巨大な舌で舐め上げられる錯覚。


 あんまりにも、あんまりな、本能と脳髄と肉体の怯えが襲った。


 寒気どころではない、実感するまでもない、自らが巨大な生き物に舐られる幻想が瞬きをしても、瞼の裏にこびり付く。


 自然に指先が震える。


 ガタガタと、歯が鳴る。


 気分が塞ぐ、深海に沈められたように身体に鉛が蔓延る。


 渦巻く黒に、嗚咽が上がる。


 酩酊するように、片膝が崩れて石畳に手を。


 頭が痛くなる、でもない。


 喉に上がる熱をなんとか胃に下せど、鼻を突くすえた臭いに目が覚める。


「あ、が、なん、だ。これはッ」


 味わった事がない、味わった事がない感覚。


 錯覚、限界。


 幻覚。


 嗚咽。


 苛立ち、否、恐怖、拒絶、気持ちが悪い。


 なんでもない、なんにでもない、唯、尚、正に、気持ちが悪い(・・・・・・)


「おぶ、がは……ッ、ふざけ……うぐが」


 三大魔女の霊力圧とも違う。


 スケルトンアークの悪意でもない。


 そんなものお話にならない。


 あんなもの比べるべきじゃない。


 人ではないのは分かる。


 優しさもなく。


 三大魔女のような、温もりはない。


 化け物(・・・)


 化け物だ(・・・・)


 得体の知れない化け物だ。


 倫理観が違う(・・・・・・)


 視座が違う(・・・・・)


 立ち位置が違う(・・・・・・・)


 これは、分からない、だ。


 分からないから、怖い。


 怖くて怖くて怖くて怖くて。


 怖くて怖くて怖くて(・・・・・・・・・)


 怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて。


 膝が笑う(・・・・)


 動悸が、早鐘を打つ(・・・・・・・・)


 師匠に似ている(・・・・・・・)


 ヘルは薄ら笑いの師匠を反芻した。


 辛うじて、思い出せた。


「がはッ、か、ひゅー、ハッー! ハッー!?」


 息を、忘れていた。


 呼吸を忘れていたのだ。


 胸を締め付けられて。苦しい。胸を鷲掴み、汗をぼたぼた。石畳の色を濃くして行く。


「おや、ヘル様は実に聡明(・・)ですね?」


「!?」


 声に出ない。アイリスのくすくすした、鈴を転がす微笑が場に溶けて行く。


 一体、白き勇者はなにを盤上に並べた(・・・・・・・・・)のだろうか。ヘルが蹲りたくなる衝動に抗って、食いしばった。歯の軋みに比例して、足に力が宿る。難を歩み、踏み締めて、背筋をどうにか正す。


 それは、ゆったりと現れた。


 瓦礫が散乱する道中を、革靴で踏み込んで。歩く速度は緩慢で、花を愛でる淑女のようだ。青白くさえある肌が、透ける程薄い衣を風に任せて歩みを進めている。


 目深に被った大きなウィッチハットの白さに目を奪われた。ヘルの記憶を弄る雰囲気を濃密に纏って、強い死を煙に、昼間を黒く遊泳させる。晴天の空を隠して霞ませるような、深く深い黒が這いずった。足音は、しなかった。瓦礫の上でも、割れた魔石照明を踏んでも。


 それ(・・)の周りだけ随分薄暗く感じられる。闇、夜が散歩するように。


 歩みに合わせて上下するフード付きのケープに、ウィッチハット。豪華とは呼べぬ。寧ろ装飾と呼べる装飾が極力排斥された衣であった。白いだけ、真っ白なだけ。見た目は白いのに、何処までも黒い。


「……レイ……貴女の心を、彼はどう触れたのでしょうね?」


 ぼそりと呟いた、アイリス。時間が引き延ばされて、急ぐでもなく、暴れ続けていただろう二人に近付いて行く。二人は、取っ組み合いのまま固まっていた。それ(・・)の接近に、怯えていた。


 目深に被ったウィッチハットが揺れ動き、小さな吐息が世界を回る。


 二人の不格好な生き物の前で、それ(・・)はゆったりと、悠揚に、葉から滴下するような、寸描を息の緒で延べて延べて行くように。


終末人種(トィンガルジゥ)、か。()とも長き因縁あるゆえ、滅すのも吝かではない。然して、徒爾(無意味、無価値)に終わるとも知れぬ。吾とて、珍奇(へんてこ)とあり空疎(すっからかん)なる星は砕けぬゆえ、許せ……背の人よ」


 小さな身丈、いや、ヘルと比較すれば。平均的な身長のそれ(・・)は何処か老獪な声を出す。一言一言が兎に角急がない、一人だけ置いてけぼりにされたような速度を全く欠片も変えずにいる。しかも、その上に、かてて加え目の前の二人に語り掛けた様子でもなく。


終末人種(トィンガルジゥ)の子らとなる、か。吾には知り得ようなき事、汝が解を吾に求むは、即ち愚となろうに。汝の言を吾に据えよう、然しなれど、斯様な辺境にて相まみえようとは、偶感(偶然の思い付き)と生きる終末人種(トィンガルジゥ)らしくもある、か……」


 ウィッチハットの鍔を摘み、押し上げて。おどろおどろしいそれ(・・)韜晦(本心や行方を隠す)するまでもなく、現実に存在する証明を脱漏(抜け落ちる)させているのだ。満艦飾と対極に座するそれ(・・)は散逸するなにかに触れるように、指が空を撫でる。面差しをウィッチハットに埋め、指先からじんわりと死を滲ませる。臨終を操るかの如く、暗鬱なる霧が尾を引く。


「人の子よ、汝が吾に求むるは手近の安寧か。毫末(極めて少ない)なる時の遅滞なぞ、停滞に過ぎぬゆえ。吾たるは慫慂(した方が良いと)はせぬが、具に(小さな事も見過ごさず)事のなりを指弾はせぬゆえにな」


 誰も口を開けない。否。アイリスに視線が向いた気もする。


「寸時とは言え、吾と並ぶ者にしては趨勢を探るのみ……変改すべきであるな、アイリス」


 アイリスは、優雅に頭を垂れて。メイドらしく裾を摘み膝を折る。


「私は最早、英雄にあらず。人とは、時間が必要なのです。僅かばかりの時間を、どうか人の子らにくださいませ。貴女様ならば、シ・テアン・レイ女史ならば知っておられるでしょう、人とは」


「ふむ、左様か。療治とて啼泣するのみとあらば、(はかりごと)もままならぬゆえ許せ。人の子に喰らい憑く終末人種(トィンガルジゥ)の因子は、吾が滅失せん。払底したる頃には、齢は婚姻の季節とあろうな」


 ガタガタ震える二人に降り掛かる真っ黒な濃霧に、アイリスは嘆息する。


「……数年……長きものですね」


「左様か、時には拘泥するばかりで、あったな。人の子は……まあ、良い」


 指を、回して。黒い霧が晴れた。ツェール・マグナスの怯え切った眼は、血の色を薄めていた。


「しかし、貴女様は……何故……こちらへ?」


 アイリスは、遂に問う。


「ふむ……頓着する背の人に、兆しを与えんと愚行したまで。吾たるは幽棲(俗世に関わらず暮らす)こそ人の子らに根差した心地としたが、暫し、策定たる向きは一存に過ぎぬゆえ。背の人たる卓見に感応しておる」


「つまりは……それは……」


 ウィッチハットの渦下に、にんまりとした弧を描く唇が、昼間の明かりに浮き上がる。


「あぁ、左様っ!」


 がばっと、両手を広げて。フード付きケープの前側が大きく開かれた。貧相な胸板と、青白い肌、周囲を暗がりに落とすそれ(・・)は大層ご機嫌に宣言する。


「吾は、恋をしたっ!」


 劇的で喜劇的で刺激的な恋の追突であったと、それ(・・)は言う。

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