ウェンユェとタイヨー
近頃暑くてくたばっておりますゆえ、更新頻度を落とさせて頂くのを改めて謝罪いたしますぅ。
王都の一角にて、翡翠の目を鋭く走らせる女が一人。身体の輪郭が浮き上がるぴっちりした衣服を身に纏い、その大きく開かれたスリットからは陶器のように白い太ももが晒されていた。道行く人々が目を向けよう装いに反し、声を掛け情動を向けんとする輩はいなかった。
それは傍らに無理矢理にではあるが、立たされる柄の悪い青年の所為である。刈り上げられた髪型に、射殺す眼光、見るからに堅気には映らない粗暴な態度。ウェンユェが異国の美姫とするならば、青年、春風太陽は野獣であろう。
根の素直さではウェンユェに軍配を上げられよう筈もないが、見た目の取っ付き易さはウェンユェに傾く。しかし、程度の差とも言えよう。にこやかな糸目と時折妖艶なる微笑みで武装する異国の美姫に、王都暮らしの平民が声を掛けられようものだろうか。
傍らで腕を引かれる護衛は此れ見よがしに帯刀しているのだし、卑しい輩は王城から出てから一度も出会わなかった。無論、ウェンユェが裏道や夜道を避けて春風知らずに気配って操って導いているのも大きい。
王都と言えど治安は様々だ。奴隷制度こそ存在しないが、どんな街でも闇は蔓延る。軽犯罪になるだろう盗みから重罪となろう殺人まで、油断はしてはならないのだ。しかも身形の良い目立つ二人組である。若い男がどれだけ威圧的でも限界はあるし、片方が傾国の美姫となれば欲に眩む者も出よう。
王都は栄えてはいる、栄えてはいるが格差は切り離せてはいない。少し裏道に身を滑らせれば職にありつけなかった人々はちらほら伺えるもので、スラムと呼べよう場所は日本と違ってより目に止まる。春風太陽はそれを知って、日本人であった事を感謝したものだ。故郷に残した妹の行く末を信じ、必ず帰還すると深く決意したものである。
故に、ウェンユェの傍らに立っているのだ。
「うん? どないしたん、難儀やなーって顔やねえ?」
「ぁあん? ま、いろいろあんだよ」
「そか、そりゃ大変やねえ。そや、タイヨーはあての助けになっとるよ」
ぐいっと腕を引かれて、即座に抵抗する。今日は翡翠ではなく鮮やかな紅を差す目尻が痙攣していたが、春風太陽は頑なに抵抗する。抵抗しなければ慎ましくもない胸部に挟まれるからだ、男子たる者ドギマギして流されては漢ではない。妹に侮蔑される兄にはなれないのだ、兄たる者の自負から腕力を振り絞る。見た目と違ってウェンユェの方が強いのは如何なものか、ぎりぎりと衣服を絞る。
「んなこたぁどーでも良いんだよッ、事あるごとに引っ付くなダリい」
ウェンユェは春風太陽からしても美人で近寄り難い空気をしている、人懐っこい顔で傍に寄って来てはいたが、どうにもテレビの向こうにいる人間と言う印象が拭えないでいた。かてて加え目線は若干上にあるし、テレビでも見た事がない顔面だ。黄金比率と言うべきか、中華系風なのだがどうにもアジア圏内で助かる気持ちはない。馴染めない顔面に春風の顔は歪んだ。三日で美人は飽きると述べた先駆者には鉄拳を携えて御参りしたい心境のままに、首を傾け鳴らす。
「ふうん、恥ずかしんぼやねえ」
「ハッ……笑わせんな。つーかてめえ酒場はどうすんだよ? シフト制だっけあれ?」
「うん? あれはもう辞めたよ? 金にならへんもん」
「はあ? じゃあ俺依頼受けた方がいいんじゃねーか? 目標は十万くれーだろ?」
物価の問題は知らないが、ウェンユェの説明でなんとなく理解はした。商いを生業にしているのもあってつつがなく事は進み片付いている。クラン、ギルドへの入会も彼女が掴んだ人脈が齎した結果だ。所属してからの採取や討伐依頼は春風の功績ではあったが、基盤を作ったのは糸目の彼女で間違いない。ギルドの依頼は危険で保険もない、自己責任の極みみたいなブラック体制だ。国家事業の癖に死亡した場合の補償は存在しない、誰でも魔石取引を行えないような制度はあるらしいのだが。
春風は仲介者、魔石取引認定書を保持する組織に狩った魔物の魔石を売り付け、天引きされ銀貨や銅貨を貰っている。彼女の示した目標金額を貯めるには下手な労働より現実的だ。幸い、二日前に高らかに宣言された二人の勇者と同じく勇者である春風太陽は無視出来ないアドバンテージがある。近場の魔物は脅威にはならないし、前世界ではそれなりに有名なレコードホルダーだ。不名誉な記録ではあるが、故にこの世界でも通用する。
「せや、ほならタイヨーならどう金を生み出すん?」
「え、働いたりとか? 魔石集めはありだよな?」
「はあ……せやからタイヨーは貧乏性なんやろなあ……魔石はありやけど」
「ああ?」
王都の街並みを歩く中、煽られて怒気を晒す。彼女は悪戯っぽい笑顔で鼻を鳴らす始末。昼下がりの街中は賑わっていて、商店には目を引く物が並んでいた。それらを流し見た糸目が、すっと開かれて青年を刺す。
「あんな、その考えは間違いとはちゃうけど、敢えて間違っとるって言うたるわ」
「なんで? 働かざるもの食うべからずだぜ?」
「働かんで食う飯もうまいもんやさかい、これも結果の話や。あてらが災厄を退ける謂れはあらへんのや」
「あー、じゃあ具体的には?」
「あてが居酒屋におったのはなんでやろか、あんさんは考えとるん?」
「金だろ」
「……ほんに、かわええやっちゃな」
流石に皮肉だと気付いたが、他に浮かばないので肩を竦め甘んじる。
「せやからな、あては金の増やし方を教えたるわ。元手はあるし……おもろい話も聞いたさかい」
「……で? なにすんの?」
「あてはさ、人っちゅうもんが好きや。でも同時に下等やとも思う。あては竜で、おどれら人の価値観とちゃう世界におるんよ」
「……ああ? 俺は相手が女の形でも殴れるぜ、舐めんなよ」
「はいはい、せやねすごいすごい。やからな? 言うとくで。あてはドブにもすんどるエンリェルなぞ踏みつぶす、分かるかこの意味」
ぞくりとする翡翠に、体は強張った。が、虚勢で解く。腐っても舐められるのは癪に障るのだ。子供扱いを止めないのもあって反骨精神は絶好調だ。
「でも勘違いせんでな? あては人は殺さん主義やねん」
「人ねえ……? よくいうぜ、てめえの目は……とっくに人殺しの目だろうによ」
ウェンユェは答えない、瞼で目玉を覆って歩を進める。分かっているとばかりな態度に春風太陽は問い詰めない。好きでやっている馬鹿はいないと信じているから、信じたいから、共にいる。己がそうであったように。
「まあ、あてに考えがある。北に重く東に軽くってもんやな?」
「んだそれ、翻訳できてねー言葉喋んな。意味わからん」
「任せえ言うとるんよ、分かれや文脈で。ケッタイなやっちゃなあ」
「うっせえ、俺はまともに学業してねえんだよ。大船に乗ったつもりでって奴だろ? ちけえのは」
「大船……うん、それに近いやろな。あてに乗ったら堕ちへんし? なんせあては竜やし?」
胸を張られると目の逃げ場を失うので正直止めて欲しいが、後頭部を撫でてふと反芻。
「竜っぽい事してねえなほんと、口を開けば金しか言わねえじゃん」
「金はええで? 暴力より知的やろ?」
「ああ? 守銭奴め」
「金は重いで、ほんに重いもんや。せやから金稼がんとな!」
「……ウェンってまじでそれしか言わねえな」
腰の剣に片手を預けそう言った。言ったものの、ウェンユェのにこやかな糸目は揺らがない。金の為に生きているようにすら思うが、事実は多少違うのを春風太陽はこの数日で理解していた。確かに金は大事なのだろうが、酒場で接客して客の理不尽にそれなりに譲歩していたりするのは目標があるからだ。元手として十万前後を求める真意は察しようがなかったが、ウェンユェが馬鹿ではないのは痛い程に分かっている。
衣食住をそつなく整え毎日を謳歌する余裕もある、露店で買い食いする程度も可能だ。それら全てがウェンユェのお陰と過言はしないが、右も左も分からない世界で迷いなく行動する姿には本心では助かっていた。目標や目的があっても経路が思い付かない己には頭が上がらないのである、春風太陽のそんな姿にウェンユェはくすくすと笑い声を転がした。
「金ってもんの増やし方は二つある、貰うんか、集めるかや。あては断然、集めたいから努力すんねん」
「んー……でもよ、なにを売るんだ?」
「情報って言いたいんやけど、そうはいかんのよなぁ」
露店の雑多に糸目を向け、その切っ先に似た顔を困らせる。風に乗った肉の焼ける匂いに少し気を逸らされつつ、春風は続きを促した。
「情報ってのはあてやタイヨーの知識も含むんや。でも、そうはいかん。何故や?」
「知られたくないとか?」
「惜しいな、正解は相場価格を知らんからやね。恐らくやけど、あてやタイヨーの故郷よりこん世界は古いやろ? 言葉を選ばんなら文明が低いっちゅー話」
「まあ、そうだな?」
「でも、不便がないやろ? あてが驚いたんはな……ほれ、見てみい」
指差された方向は露店街。多様な職種の人々が闊歩する賑わった道路だ。見ていても日本より優れた物は見当たらない、ランタンは綺麗ではあるが。
「気付かんか? 気付かんかぁ……」
「なんだよ……わるかったな」
「いやええわ。しゃあない……道路はなんや?」
「石だな」
「お、せや流石タイヨー分かっとる。つまり、整備されとる。しかも綺麗やろ」
「……あー確かにな」
日本育ちの春風は気にもしていなかったが、道は綺麗だ。塵が散乱したり、馬に近い扱いを受ける動物が闊歩するにしては異臭も少ない。靴裏にへばり付くなんて体験もなかったし清潔であるのが伺える。
「都市設計も中々に確りしとるし、なにより水やな。水路も綺麗やし、一番安い宿にも真水くらいはあるんやから」
「凄いのか……?」
「分かっとらんなぁ。タイヨーは随分ええ暮らしやったんやな?」
「え、なに。知らん」
「あんな、水ってもんは管理が大変やろ? 飲水と水路に流れとる水は違うものやって気付いてへんやろ?」
「まじで? じゃあ、なんだ? 地下に水道走ってんのか?」
「お、鋭さが引き立っとるやん。当たりや。しかもながれとる水は沸騰殺菌せんでも飲めるしな?」
「確かに、言われてみればすげえな。でも、電化製品ねえけど」
「あー、せやねえ。そこで、魔石が絡んできとるんよっ」
ウェンユェが肩を叩いて、そう言った。
「魔石っちゅーもんはほんに凄い、専用技士もおるし文明の中核や。魔石がなけりゃ発展なぞ遅れとるやろな」
「……でも、王都って出来てから随分経ってんだろ? 水道があるって事は建てる時には作ったって事だし」
「そうなるなあ。この国の識字率もかなりえぐいで、ほれみい、子供が絵本こうとる」
指差す方向には露店に出された鮮やかな書物を手にする小さな子供達の姿。
「学び舎ってもんに通わせられるんは貴族だけやと思っとったさかい、あてはびっくりしたんよ」
「貴族と平民ねえ……」
「そや、平民は教会の開いとる方に。貴族は雇って屋敷におる、凄ないか? 教会が分け隔てなく教えとるんは宗教上の理由や信者集めもあるんやろうけどな?」
「あ、それなら聞いた。なんか聖女ちゃんが王様に取り付けたんだっけ?」
「せや、あの聖女ちゃんは見た目からは想像出来へんけど政治に首を突っ込めて意見を通しとる。そりゃ、簡単な計算、読み書き位やけどな」
「まあ、因数分解とか方程式は知らなそうだよなぁ」
「おん? タイヨーは勉学してへん言うとらんかったかいな?」
「それなりに赤点は回避してるからなあ……それなりってやつ?」
「ほーん。まあせやからな、あてらの持つ知識ってそないに価値がないかも知れんさかい。代用エネルギーがあって、その上に成り立つ世界やしな」
「……ウェンは爆弾って知ってんの?」
「分かるで、あての世界にもあるさかい。ほな逆に聞くけど、あてらの持つ知識はこの世界で実現出来るもんかいな? 知っとる? 前おった世界で使ってた、便利な道具の作り方っちゅーもんを」
「さあな、知らねーよ。テレビとかスマホとかどーなってんだろな? 火薬すら良くわかんねーし。……病気になったらやべーな」
「そやなぁ、教会で受けられる奇跡も御布施ありきの商売やし。教会って無償でやりそうやけど、こん世界の聖女ってのは職業らしいで?」
「まじかよ」
下らない話を遣り取りしながら二人は裏道へと身を入れる。途端に表通りにはなかった暗がりと湿気が肌を撫でて、不躾な視線も物陰からは感じられた。裏の道にちょっと入れば治安は悪くなる、衛兵とて無限に存在しないし敢えて放置しているのも闇がのさばる原因だ。
「あ、でも聖女ちゃんはちゃうな? 教会に属しとるけど公爵やからな」
「すげえの?」
「めっちゃ偉いであの聖女ちゃん。大結界の維持って責務を負っとるから給金も出とるし、王都の平和を担うから聖女なんよ」
「セルフ……なんとかちゃん以外にも聖女っていんのか? その口振りならいるんだろうけどな」
「セルフルクル・メルクマルクロストや、相手は公爵やから公的な場で呼ぶ時は確りせえよ。あては嫌やわ、あんさんと独房とか。襲われそうやん? あて、美人やもん」
頬に手を添え、大仰に嘆息。毎度ながら絵になる人だが、春風は鼻を鳴らして野良犬風に対抗する。
「襲わねーわ、あいつみたいに胸触ろうとかしねーし」
「興味ないって言うんやねえ? くふふ。まあええわ、許したるさかい。ええか? セルフちゃんは聖女様やし公爵の当主様やし、どえらい人や。普通はそうやないらしいで?」
「おい……ウェン……」
春風太陽の緩んでいた表情が強張った。腰の剣に手を伸ばすでもなく、半歩足を引き腕を垂らす。
「セルフちゃん以外にも聖女はおるし、あの娘が抜きん出て優秀やってだけでな? あの娘の噂ってすごいもんやで?」
春風の茶色の目玉は、狭い路地を塞ぐように現れたローブの者達に定まった。囲まれそうだから手を引こうとしたのだが当人は素知らぬ顔で雑談を主にしていて、目線を必死に向けても無下にされた。どんな思考をしているのかは分からないが、不穏な気配に春風太陽の勘は危険信号を告げ続ける。
「いやいや聖女より、前と後ろだろ……」
「……んあ? ほんに……しゃあないなぁ。時期としてはわるぅないか……?」
顎に指を添え、その糸目が開かれた。薄く晒された翡翠の鈍い光は、暗がりの路地に妙な空気を積もらせる。明らかに怪しい風体の者達を前に怯える素振りなぞなく、にまにまと唇を弧にする様は実にウェンユェらしかった。春風の緊張と反比例した相棒は輪を縮める輩を睨み付けている。
「ウェン、どうする……?」
小声だったが、路地裏では嫌に反響した。黒いローブに身を沈める輩は三人。前に二人、後ろからも一人。取り囲まれ、じりじりと距離が縮んでいる。
「どうするもなにも……あては非力な商人の娘やさかい。話し合いをせにゃならんやろし、なぁ? あんさんらは赤か青どちらさんやろか」
答えは当然ない。ウェンユェの呆れと春風の纏う空気が喧嘩して剣呑に研ぎ澄まされて行く。刈り上げられたアシンメトリーの頭を掻き上げ、目玉には殺意を宿す。荒む瞳に対し、ウェンユェの指先が頬を突く。
「そないな顔せんとき、暴力はあかんよ。原始的な対話方法やし、せやから人は阿呆や言われとる。どこの世界も変わらへんな人っちゅーもんは、って言われたくはないやろ」
「……じゃあ、どうすんだよ。ほら、あいつ刃物持ってるし」
眼前の二人の手には突き刺す事に特化した刃物がギラついていて、どうにも話し合いをする姿には思えない。後方に意識を傾ければそちらも同様に小さな杖を手に構えを取っている。
「あてを拐っても利用価値は……あるわな。あて美人やし」
困るわぁ、なんぞぼやきを一つ。
「そもそも勇者だもんな……つーかやばくねーか? 俺はそこそこだぜ? 手加減苦手だし」
「うーん、なら逃げるしかあらへんなあ」
どうやって、と言う前に。首に枝垂れ掛かる白い腕に硬直した。ウェンユェが背後から抱き着いたのだ、こんな状況と場面で身動きを阻止する理由はない筈だ。春風は即座に振り解こうとしたのだが、耳元で甘ったるく囁かれると頭が茹だるもので。
女性耐性が低いのだ、春風太陽は。
「嬉しいくせに、いけずやわぁ」
ぞわぞわした、と春風。不意に身が浮く。ウェンユェの温もりと柔らかさに包まれたままに、目測三メートルは浮かび上がったか。駆け足で、慌てて見上げる人間を見下ろして。
「おどれらに言うとくけどなーーあてを追えば皮を剥ぐ、春風に絡めばおどれらの脊髄を引っこ抜くさかい……堪忍してな?」
とても良い笑顔なんだろうなと、春風は見えないウェンユェの表情を脳裏に過ぎらせた。ぷらぷらした足元に不安はあるが、竜たる彼女は幾つか嘘を吐く。平然と当たり前に偽って真実を濁す、約束は絶対に違えない彼女ではあるが。春風太陽はこの十日以上共に生きて痛感した、この女は冗談らしく口にする程に嘘を垂れ流さない。
誰かの不幸が好きではなく、自分の道理と主義により滅ぶ全てが蜜の味なのだろう。強かで姑息で、同時に憧れすら抱ける。誠実な嘘吐きだと春風は思う。
「ほな、ついでやし王都一周してみん?」
「降ろせ。めっちゃ高いこわい」
わっはっはっ。凄い愉快そうな大笑いである。背に翼を生やし空を飛ぶウェンユェにしてはご機嫌な部類だろう、居酒屋で尻に触れた男はテーブルに頭から突き刺さっていたし。容赦する場面ではないと思うが、最終決定権は雇い主のウェンユェにあるので春風太陽は輩への処置には口を挟まない。
絶賛宙吊りの現状には口出しするが、それはそれとして地面がどんどん離れる事態には納得はしている。ウェンユェの考えでは非暴力が尊ばれていたりするのだろう、春風は手加減が不可能であるので敢えて見逃す可能性だってある。
春風は強い、故に加減が出来ない。遠退く地面を見据えていれば、輩の一人が手を掲げているではないか。杖を空に向け、赤い靄が身体から滲み上がっている。
「おい、ウェン。魔法じゃねーかあれ、やばくない?」
「ほんまやねえ」
呑気な台詞を垂れ流したか、杖の先端から勢い良く吹き出したのは朱色の炎だった。薄暗い裏路地を煌々と染め上げて、距離のある二人の皮膚をぴりぴり焼く熱量が膨らんでいる。逃げ場を空中にしたものの、裏路地であるから左右や前後にゆとりはない。回避しようにも身を逃がす隙間がないし、杖先で踊る火球の熱量は触らずともその威力を連想させる。
ばたばたと春風が暴れる、訳もなく。
「このままだと俺に直撃なんだけど、なあ、ウェン、やばくない? やべえって」
頭より一回りは巨大だろうか、渦となりとぐろを巻く炎は裏路地に散らばっていた羊皮紙に引火しつつある。湿気た空気がからからと乾いて、猛る炎は定まっている。
「しゃあないなぁ、あんまみせとうないんやけど……」
鼻先ににゅっと、白く細い腕。妙な話である、胴体を抱える両腕の感触はあるのに新たな腕が二本生えたのだ。少し理解が出来ずに春風は胸元付近で握ったり閉じたりする腕を凝視する、なんなら触って見た。びくりとした腕と、耳元にねっとりした甘い声。
「えっちぃ」
「あ、これウェンの手か。手? おかしくねえか? 四本あるくね?」
「あて、竜やと八本あんねん。翼と前腕二つ、後腕一つやね」
「……竜なのかそれ? なんか虫みたいだな」
「あー! 失礼なやっちゃなぁ!」
掌に拳を当て、手は憤慨を露わにしている。細い手と、綺麗な爪先。どう見ても非力だ。
「エンリェルみたいとか阿呆抜かすなや! しばき回すぞおどれ! あー! もーこっから落としたろかなー?!」
「いやいやいや! まてまて! 死ぬから! 三階建てくらいあるって! 死ぬって!」
器用に手だけが、恐らくウェンユェの世界のハンドサインだろう動きを俊敏に行っていた。腕力の成せる技か風斬りの音と風圧が肌や鼓膜を叩くが、それより目下迫る火球である。此方に向け放たれた業火に対して春風は防御も回避も出来ないので、心底焦ったのだが。自由な白い腕が迫る火球を寸前の所で叩き潰した。合掌である。
「……はぁ?」
手を合わせ火球を粉砕したのである。残留する熱波を後に、杖を持つ男と目が合った。心底分からない顔をしている、春風だって分からない。分かるのはころころ笑って高度を上げる彼女だけだ。
「思ったよりあつぅないな」
「えぇ……ヘルさんもそうだけどなんでこう、攻撃を身体で受け止めんの?」
「あてかてもっとええようにしたろうと思うけどなぁ、はやいやん?」
「いや、ほら、あの人固まってんじゃん」
「盾みたいん出す必要もなさそうやったし? そもあては竜やからな、硬いねん」
だからと素手で消火すべきだろうか。否であろう。遠退く眼下を見据え、それはそれとして質問する。今後の方針だ。
「で、どうすんの?」
「あてらの目的は変わらへん、金や。せやけど先ずは落とし前やな」
「じゃあ倒すのか?」
「いーや、あれは無視や。降りるん怠いし」
「じゃあ、どーすんだ? 首謀者わかんなくね」
「それがそうでもないんよ、ただ……」
「ただ……?」
「ちと……話し合いせなならんかなぁ」
春風は分からない、だからこそウェンユェの真意は分からない。本意は分からないが、暴力は控えるのだろうと僅かな不安を拭う。遥か下で慌て呆ける三人の輩をもう一度観察して、ゆっくりと肩に入っていた力を抜いた。