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赤き勇者とメイド


 ヘルは青年と王を前に頭を掻き、身を屈めていた。


 なんとか間に合った、呑気な顔で眠る青年の言葉に強く答えたもののギリギリである。特に王の傷は深く、出血で顔色は悪い。肌の健康さとは無関係な青い顔と浅い呼吸。とっくに限界だが、青年が話し掛けていたから意識を明確にせんと生にしがみ付いていたのだろう。


 水晶の輝きに比例して、出血を抑え肉体の損壊を逆再生かのように修復する。水晶から溢れ地を這う渦巻く霊力は水縹と青藍と瑠璃に色を移らせて。自らの師の痕跡は、極致に至った魔法は、摂理を条理を破り行使される。輝く水晶から止め処なく溢れ、指に絡み、地を満たす。


 霊子の波に浸った青年や王の傷は修復されて行く。自身の霊力ではなく、選別として受け取った水晶は込められた霊力を用い刻まれた魔法を遂行する。理論値で、理想的で、厄介な魔法だ。もしも、彼等が死んでいても(・・・・・・)問題にはならなかったのだろうとヘルは察していた。


 師匠は困った人物で異常な人であった。辺境伯と呼ばれ忌避される彼に教えを請い魔導の真髄を体験したヘルには、世界は変わって見えた。生死は覆らないものであるべきだと、信じていた現実は簡単に崩れ去ったのだ。水晶の中に込められた霊力はヘルが常時展開する熱源感知術式よりも少なく、なのに効果は比類ない。


 懐かしい水の霊力につい、気は緩む。耳を澄ませば怪しい笑いと妙に湿気た声がしそうだった。勘違いばかりされる甘い物が大好きな師を懐かしみ、一息。水晶を起動したので、後は余韻だ。師の霊力の残滓を肌に受けて、気が引き締まった。


 師に顔向け出来る位にはなれただろうか、誇れる人生を歩めただろうか、と。あの人は怪しくてどうしようもなく悪そうで、誰よりも優しくて良い人間だ。あの師の悲しむ顔は不本意であるので、ヘルは気合を入れる。水晶を足元に置き、発動された魔法を背に立ち上がる。


 頬を叩いて、身を滑らせる。城壁の上、いっそう強い夜風が抜ける。後方に引っ張られるローブをそのままに、見張りもいない此処に立つ。


 目を回す。金色の瞳をした少女に、目で二人を預けて。身を盾にするように立ち塞がる。


「はっ……どう言うつもりだい? あたしの前に顔を出すのは、あんたじゃないだろ?」


ヴィクトリアンメイドの深い紺が、夜に浮く。闇夜に、するりと現れた。栗色の瞳の、音すらないメイド。その強さは筆舌に尽くし難いもので、ヘルとて多くは悟れない。霊力のポテンシャルの面では圧倒してはいるが、肉体的な面は未知数だ。少なくとも、六割の速度は見切られている。


 林でも、玉座の間でも。メイドには似合わない鋭い眼光はヘルを完全に捉えていた。本来ならば有り得よう筈はなく、ヘルの姿を目視するとは即ち銃器から放たれる弾丸を余裕を持って観察出来る実力がある、と言う事になるのだ。


 弓や剣や大砲や魔術や魔法が支流の世界で、魔物を駆逐し一途に聖剣を鍛えた人間だ。常軌を逸した修練と鍛錬と狂気。並び立つ存在がなかっただろう世界で、蝸角なる世界で、それでも剣聖は毎日を剣に捧げた。喋る魔物に出会すまでは、直向きに愚直に安直に、馬鹿みたいに阿呆みたいに力を注いだ。人生を賭けた手にあったのは誇りで、矜持で。


 理不尽な絶望に打ち砕かれた。しかし、捨てられなかった愛着が彼女、アイリスに聖剣を携えさせる。スカートをカーテシーの要領で優雅な所作で持ち上げ、白銀の剣を抜き放つ姿にヘルは牙を剥く。


 獰猛な笑みには、不安はない。愛用の武器はなく、奥の手たるスキルボールは使用済み。充填する程に油断も隙もなければ、栗色の瞳に迷いはない。


「私は、間違っております」


「そうだねえ……でも、やるんだろう?」


 聖女に仇なす者、灼零のヘルに過つ者は相対する。白銀に煌めき、手入れされた刃が月光を屈折させる。奇妙な構えと、知らない素材の剣だ。ヘルはジュエルクラスの武装だと判断する、最悪女神とやらの加護もありそうだと上方しつつ。


 拳を固める。心拍数を加速させ、師により編まれた魔法を口遊む。


灼に零れろ我が身(デッドライン)……」


 身から零れる氷結が燃える。髪に走る焔が凍える。


 指先から髪先まで纏う霊力が、空間を熱して冷まして歪める。この魔法は、単純だ。原理は接触した全てを熱して凍らせる。凍らせ熱する。矛盾した性質を魔法として現実に描き出し、夜の広さを青と赤に彩った。熱波と寒波を混ぜた手が十メートルは離れたアイリスに定まる。


「良いかい? あたしは、聖女ってガキをしばく」


「叶いません、私がいますので」


 アイリスの片手が白銀の剣を構える。本来握るべき方向とは違い、上を向くべき切っ先は下に向く。反対に握り込む柄のまま、横に構え上体を石畳へと寄せる。


 倒れそうな極端な前傾姿勢。逆手持ちの歪な構えに、栗色の瞳に揺れる猛獣の気配。ヘルの蒸気となった吐息が、強風に運ばれた。刹那、ヘルの喉元に切っ先。


「ッ!?」


 瞬きはしなかった。瞼で拭う真似なぞしなかったのに、喉元に突き刺さりそうな白銀の剣はある。ヘルの身体が傾く、薄皮一枚切り裂いた刃。血が走る刀身と、構わずヘルは一歩前に。右拳で、地を這うような、這い蹲っておどろおどろしく剣を突き立てるアイリスの顔面に。


 空気の炸裂音。音速の壁をぶち抜いた拳は空振る。馬鹿みたいな速さ、視線の読み、極限の反射神経が噛み合わさった回避力。拳が届かない紙一重を見定めて顔面を引きつつ、剣を手繰り空中に舞う。横回転に、目玉を穿とうとする躊躇のなさ。


 ヘルは、髪を僅かに散らす。犬歯の隙間から吹き出す蒸気に、視界が濁る。


 デッドラインは、霊力の放出を行うだけの魔法ではない。本質は活性化した霊力により肉体の全ての能力値を上昇させ続ける代物だ。霊力が尽きない限り与えた分の霊力を、費やした霊力を身体能力の上昇に注ぎ込む魔法である。問題があるとすれば、名の由来通り過度に行使すれば生命が危ぶまれる点だ。


 師はそんな彼女の時限爆弾付き魔法の対策に水晶を与えた。肉体の霊力消費上限キャパシティを解放する魔法は、ヘルの肉体を蝕む。それなのに、速さでは勝れないのが恐ろしくなっていた。


 総合値は如何様なのか。異世界に召喚されてからはうんともすんとも言わない請負証を脳裏で起動する。


 請負証とは三大魔女と呼ばれ畏怖される者達が作り上げた偉大なるシステムである。肉体自体に複雑な複合魔法陣を刻み、所属する人間の不正から生死までも管理管制するものだ。


 人間機能の拡張を行い、請負人は当たり前に扱える超技術の塊である。そんな訳が分からない請負証により、基本機能にある全能度の測定を走らせる。眼前で蒸気を腕で掻き消すメイドに視線を向ける。


「ッ……なん、だいそりゃぁ!」


 化物。アイリスの肉体を正確に精巧に観測し導かれた数値は異常に異常を重ねていた。請負機関の中でも平均から抜きん出たヘルでも狼狽える数値、魔生物より貧弱な魔物とやらが蔓延る程度な平和な世界には存在してはいけない人間だ。


 全能度には七項目がある。上から順に。


 霊的ポテンシャル。

 物理攻能度。

 霊的攻能度。

 物理抗能度。

 霊的抗能度。

 俊敏能度。

 回避能度。


 とあり、その合計値を全能度と呼ぶのだ。請負証が示した、剣聖アイリスの数値は馬鹿げていた。


 霊的ポテンシャル20

 物理攻能度80

 霊的攻能度10

 物理抗能度70

 霊的抗能度20

 俊敏能度150

 回避能度170


 合計値たる全能度は脅威の五百越え。己に肉薄するのも、頷ける。ヘルの灼眼は険しくなった。


 当たり前だ、回避能度が百七十もあればヘルの姿なぞ容易に捉えられる。


 当たり前だ、俊敏能度が百五十もあればヘルに有効打を加えられる。


 肉体の頑強さ、筋肉が生み出すパワーは勝ってはいる。霊力の総量なり、霊的側面も勝ってはいるが。百の限界を超えている。百を超過する、請負官でも指折りの生え抜きしか思い付かない。歴代最高値を叩き出したのは北支部のセブンスであったが、あれは例外中の例外である。


 ヘルは背を伝う汗に、笑窪を深め誤魔化す。怯えはある、殺される可能性がこうも如実にあると馬鹿馬鹿しくも笑えて来るものだ。


 百とは、人間の限界だ。単なる努力や才能では踏み出せない。ヘルの中で直ぐに思い付く各種のいずれかが百を超過した人物は一人、レク坊と呼んでいた請負人だ。肉体の硬さや力はヘルを大きく上回る存在に、ロビーで初めて会ってからたった四年で至った。


 毎日の激務、大怪我、それでも血反吐を撒きながらも進んだ青年は見事に限界を破り捨てた。年月でもない、才能でもない、努力で壁を突き破った若人だ。包帯でぐるぐる巻きでも任務に赴き、毒で腕を腐らせながらも任務に向かい、飯を腹に詰めては吐くのに任務を行い、終には魔生物を鉄拳で粉砕するようになっていた。


 憧れを胸に辿った道は険しいものだ、楽な道であるものか。何度も止め、諌めたものだ。アイリスだってそうなのだろう、出来れば後腐れがない出会いをしたかったものだ。ヘルは、鉄拳を構え直す。


 最早、人とは思うまい。


 五百とは、人の身には過ぎたものだ。人の形をした兵器に、慈悲も躊躇いも必要はない。重スラムで人を喰った日から、ヘルは宿した。


 自らを戒める。請負官としての矜持。


「上等だァあああッッ! あたしは、逃げねえぇ!」


 逃げない、抗う、死ぬまで叫ぶ。首だけになっても喰らい付く。アイリスの銀色の剣が虚空を回り、またもや奇妙な前傾姿勢に移行する。


 片手を床に、剣を背に、顔だけ前に。獣より低く、努めて深く。想像絶する速度。銀の閃光。経験は、含蓄は、ヘルを裏切らない。見切れない、速くて捉えられない。


「ハッ! こいやぁああああァァあッッ!」


 己を奮い立たせる。霊力を巡らせる。血液が沸騰する、血走る。剣は受けたら傷を貰うだろう、目ではもう追えない。頼りは熱感知術式。


 前。


 拳。剣の横腹を殴れた。勿論、本気で。剣は高く響き鳴り、火花が散った。砕けはしない、やはりジュエルクラス相当の大業物。


「なんて、速度だいあんたッッ!」


 剣の横っ腹を殴った勢いで、身を捻り蹴りを放ったのだが。巨木を刈り取る足刀による薙ぎは空気をへし折り猛烈な熱波と寒波を攪拌するだけ。即座、上げた足の軌道を変化させる。踵落とし。受け止められるのなら受け止めろとばかりに、城壁に繰り出した。


 踵が床に這うメイドを捉える間際。銀の剣がずいっと迫り上がる。刺し貫くような、槍のような、刺突。胸に向かって。慌てて、魔法の制御を行う。寒波と熱波が混ざる。


「くぅぅたぁあばぁりぃなあああぁァァァッッッ!」


 足から噴射した爆炎。業火。夜が昼間になったかの如く。城壁を忽ちの内に半壊させ、瓦礫。震撼。飛来する石畳が溶解する、赤熱する。どろりと溶ける。爆風によって宙に浮くヘルの身体。


 目玉を動かす。口から水蒸気を乱雑に吐き捨てる。口の端からは血。肉体に掛かる負荷が表に出て来ていた、のなら救いようはあるが。


 事実は、真理は。


 短い攻防の中で何時の間にか打撃を食らっている。


 蹴りか、拳か。どちらにせよ爆風の中で顔面に喰らわせ颯爽とメイドは姿を眩ましている。赤熱した石がガラス状になるまでには時間が必要だが、半壊した城壁に着地したヘルは肉体の熱気を冷気で循環させる。


 後方、半壊部分から免れた熱源を三つ感じながら。口の中に溜まった血を赤熱した石に吹き捨てる。じゅわっと蒸気と化すのを横目に、辺りを伺う。気配が、ない。


「……、強いねえ……強いけどねえ……。アキューよりはおせぇなッ」


 ハッハッ。と快活に不敵に笑う。不適切な顔だとは理解する、自覚はする。退屈だった、退屈になった、異世界に来てから本気を出せていなかった。抗っていなかった、本気で死に物狂いで生きてはいなかった。


 そうだ、やはり、こうだ。


 闘争はこうあるべきだ。


 死に物狂いでぶっ殺し合う、じゃなきゃ生き残れはしない。ヘルは脳裏で浮かべ、ぎりぎりと歯を剥き笑うのだ。


「こいよぉっ、あたしを殺すにはたんねええんだよぉおおッッ!」


 温い、甘い、遅い。アキューならば初手でサイコロだ。八大のスルトルが相手ならば灰燼になったのは己だ。師匠ならば何回かは殺せてはいそうだが、数回殺した所で死ぬなら苦労はしない。


 なんだ、なんら変わりなし。


 異世界、結構。


 あたしはあたしだ、と。


 ヘルは拳を固める。ぶち殴る。ぶん殴る。澄ましたドタマかち割ってやる、と息巻く。


 重機のような唸りはヘルの呼吸。巨大な機械か如き吠えはヘルの霊力。灼髪が蠢いて煌々と夜を塗り潰す。悍ましい熱と冷が混濁される。


 竜界から舞い降りた人間兵器、有り触れた請負官より少しは強いと宣う彼女は両手を広げる。爆風と蒸気と土煙で見通せない周囲なぞ些事たるもので、異世界だと甘えていた己に忸怩たる思いがあってもそれすら火種にする。


「あたしは此処だッ! こいやぁッ、めいどぅぉおおオオぉおおオオオオオオッッッッ!」


 空気が震える。異次元の肺活量が大気を圧迫する。衝撃にすらなる咆哮。竜にすら姿を重ねられよう爆撃が夜空に打ち上がる。終わりを導く一撃の為に、メイドの澄ました顔に鉄拳を御見舞するつもりで。


 小細工は通じない。ならば策は巡らせない。無駄だ、諦める。対等な人間に小細工は無用だ。武器もない、なら肉体言語しか持ち合わせもなし。


 ヘルは曾ての世界でも稀な二属性持ち、しかも属性特性が反転したイレギュラー。肉体は百の数値を超えなかったものの、満遍なく水準が高い。前の世界では器用貧乏と謗られ笑われる事もあっただろう、請負機関の本部には傑物ばかりだ。


 近しい同僚に、生真面目なルシウスと言う女がいる。彼女だって器用貧乏だが、新しく設立されるカヴン制度に胸を躍らせていた。器用貧乏でも、構わない。魔法使いとしては半端者である自覚があるのだ、一種類の魔法しか結果扱えない。


 師は諦めを知らない男であった。ヘルに授けた水は燃える(・・・・・)魔法の変形種、独自魔法火は凍り、氷は燃える(・・・・・・・・・・)魔法は一種のみしかない。


 肉体の種族限界を突破させる片道切符。相変わらず肉体の価値を軽視する大馬鹿者魔法だと、ヘルは思っていた。だが百の上限を貫いて上昇するからこそ、器用貧乏だからこそ、全体のステータスは鬼気迫るものだ。


 一種しか魔法を扱えないのに魔導士だと、師は褒めた。器用貧乏を突き詰めれば隙がないと言う事だと、師は持ち上げた。ならば、期待には応えるべきで報いるべきだ。


 激闘の余波で、城は次第に慌ただしくなっている。名も知れぬ兵士を巻き込むのを是とはしない。


 故に、ヘルは顔に飛来した銀を歯で受け止める。刃を、噛み、食み、受け止めた。頭を引き寄せるように衝撃を逃がす、決して外さぬように万力を締める。


「無茶苦茶なッ!」


 気配も音もなく、茹だった蒸気から紛れた白銀の剣。それを阻止し、指先をアイリスに向ける。狼狽する淑女に、火炎の球体が飛来する。炎弾(イグニスバレット)とも呼ばれる魔術の一つである。


 アイリスは剣の腹をスカートが捲れるのも無視して蹴り上げる。苛烈な蹴りで剣が歯から逃れた、が、イグニスバレットが頭に。直撃は避けた。髪を纏めていたモブキャップが須臾もなく塵となって、長い髪が月光を受ける。


 初めての動揺。死に物狂いの違い、生きる事の過酷さを知るヘルとの差。それは覚悟、決意、本能だ。


 頭の中をぶっ殺すで埋め尽くせば、迷いなぞない。


 輝く銀色の剣を左手で捕まえて、掌が裂ける。のも、放置して、構わず関わらず、拘らず。ヘルの頭蓋がアイリスの顔面に直撃した。


「ふぅきぃとべぇええエえええエえエッッッッ!」


 吹き上がる鼻血。


 空気の膨張。


 身体が面白い位に吹き飛んで、城壁の上を跳ね跳んで行く。何回も跳ねては、転がる。百はあるだろう距離を無様に転げ、最後は見張台となる少し高めの城壁を崩壊させた。


 彼方の土煙を見据えつつ、ヘルは取り上げた剣を足元に転がす。血の滴りすら掌に握り込み、鉄拳を形成して。


「ハッハッー! いっちょ上がりッてえかぁッ!? まだ、終わらねえぇよなぁああ?! 相対してくんだよなぁあッッ!? あたしはピンピンしてっぞめぇいどぉおおッッ!」


 雄叫びを上げる、身を引き締める。肉体を最適化する、生存本能を焚き付ける。頭をぶっ殺すで染めて、イカれた眼で敵を探す。戦闘狂ではない、生存狂なのだ。ヘルは死に物狂いで生きようとしているだけで、敵に精一杯の抵抗をしているだけで、戦うのは好きではない。


 強い者が弱い者を淘汰する世界で、弱者だから強者を滅ぼさんとするだけで。


 戦闘が好きな訳では全くない、戦闘は嫌いだ。怪我も嫌だし殺されるかも知れないのは不安なのだ。だが、見ているだけで事態は好転なぞせぬ。


 ヘルは十全に知っている。重スラムで、散々見た景色だ。蛆の塊には、なりたくない。怖いから、抗う。嫌だから、立ち向かう。


 土煙の中から、メイドが揺らめいた。顔から鼻血を流すままに。鋭く研ぎ澄まされた瞳で、灼零に燃え凍る怪物を見定めていた。荒い呼吸、肩の揺れ、歯を食い縛る。


 袖で顔を拭う。この百近い距離があっても、耳が良いから互いに分かる。


「私が誤っていても……救われたのです。聖女様が、もし間違えたとしても私は信じるのです」


「ァあ?! 知るかぁっ! ぶん殴るぞゴラァッっ!」


「ふっ……脳味噌まで筋肉とは」


 アイリスの顔は、赤染めに蠱惑な嘲笑で飾られる。頭の可笑しい女同士、鉄拳が構えられる。乱れた息を整えて。


「馬鹿にしてんなくそめぇいどぅあおおオおぁぁッッッ!」


「くそは貴女ですッッ!」


「ごバァっ!」


「ぐぎゃッ!」


 互いの踏み込みが音を飛び越えて、互いの鉄拳が交差する。互いの頬に食い込む拳。口から吹き出す鮮血。回避、なぞない。万感の憤怒を拳に宿し、頬を打ち抜く。右拳同士の同時着弾。


「レクの坊主にゃあんたはかてねぇさッッ! あたしに下されんだからよぉおッッ!」


「舐めるな原始人がぁッッ! 私が、私こそ剣聖だッッ!」


 血。顔面の赤。血潮。人類史上最も愚かな肉体言語(コミュニケーション)は壮絶を極める。蹴りが脇腹に入れば拳が頬に返され、頬を砕く拳には鳩尾へ沈む拳が衝突する。熱と冷の混沌たる化物に、剣を失った剣聖は一歩も引かない。


 女が集まれば姦しいと言うが、女の戦いは酷いと言うが、熾烈な一撃は大気を縦貫し城壁を揺らす。二メートルに迫る巨躯から繰り出される暴力は、それでいて繊細だ。メイドの繰り出す激情の方が荒々しく刺々しい。


 腕を蹴り上げ、頭に膝蹴り。膝蹴りには頭突きで相打ち、肘が鼻先にめり込む。


「チィぃッ! しぶといねえぇっ! あんたは魔生物みてえだよッッ!」


「あんなものと一緒にするな蛮族ッッ!」


「げぶぉっ?!」


「かふぅあッ!?」


 蹴りがこめかみを薙ぎ払う。空中で二人は回転する。並外れた脚力がそうさせたか、玩具の猿のように愉快に騒がしく錐揉み回転していた。風切。


 疾風。怒濤の前蹴りと、拳。アイリスには鉄拳が、ヘルには足裏が、突き刺さる。


 二三回のバウンド。壁上で仰向けになった両者は、歯を食い縛って跳ね起きる。灼眼、栗目。灼髪、栗髪。


 あらあらかしこなる淑女に、乱暴狼藉なる女傑。


 裂けたメイド服なぞ知らぬと、スリットから出でるは白き生脚。細き足からは画した出力。女傑のローブが風にはためき、バングルを通した腕が顔を出す。


「意地になってんなぁッ!? あたしも意地があんだよぉっ! だからぁぁあ!」


「礼のない者にッ! 聖女様には触れさせないッ! だからぁあ!」


「くたばりやぁぁぁがぅあれぇェェェえぇえッッッ!」


「もう、直ぐに! しねえぇええッッッ!」


 ごぱ。ごぎゃり。と。


 互いの鉄拳が頬に埋まる。ふらりと、昏倒するはメイド。足腰の笑いが収まらず、立てなくなって。


 女傑は、ガハーと蒸気を捨てる。練り上げた霊力を鎮火させる。茹でる手足を広げ、牙を剥く。


 肉体の限界突破を鎮めて、荒ぶる魔法を宥める。なんとか、間に合った。時限爆弾みたいな身体だと、熟痛感する。もう立ち上がれないのに、瞳に殺意を宿し睨み上げるメイドを見下ろした。


 指が石畳を引っ掻いて、唸っている。まるで獣だ。肉体の頑強さ、筋力の出力が勝っていて尚且つ直球の殴り合いならばこうもなろう。


「かハッ! ハッハァー! あたしはぁ、負けねえッ! 請負官をなめんな小娘ぇえェッッ!」


「ぐぅ、愚かものぐぁあッ……!」


 上と下。女傑は宣言する、己の勝利を確信する。踏み鳴らした靴が、振るわれた両腕が、表す。


「あんたぁ、よくやったよッ! 驚いたさぁ……驚くもんさぁっ! ハッ……! あたしにステゴロ挑むバカはレク坊いらいだからよぉッ!」


「だまぁあ、れぇえッッ」


 諦めなぞない。こんな女が、喋る魔物に負けたと言う。恐ろしくて立ち向かえないと宣う。ヘルの脳裏にあるは、喋る魔物との次。相対し勝利する姿が、今一掴めない。


 余韻。一つ。猛る髪が床に触れ、ヘルは冷却されつつある身体に喝を入れる。


 残りは聖女。餓鬼の説教がある。それが本題、それが命題。


 青年から請け負った任務に、請負官は律儀に遂行する。任務による繋がりを最上とする彼等請負人には、譲れない道理があるのだ。


 血の繋がりで結ばれた暴閥でもなくば、力の繋がりで結ばれたギャングでもなくば、契約で繋がり結ばれた請負機関の人間は一歩を踏み出せる。


「どうだい!? 請負官ってぇなぁ、スゲェだろうがッッ!」


 未来の不安? あるさ、普通にやべえ。


 と。


 人類が滅びそうな脅威? 今更だぜ、日常だよ。


 と。


 請負機関にゃあ、覚悟が決まった馬鹿と阿保しかいねえさ。


 と。


 ヘルはぼやく。


 メイドの意識が落ちるまで、請負官はアイリスを見定めた。


 勇者とか柄ではないが、請け負った約束は果たさねばならない。


 それが矜持、それが誇り、それが己の人生だと胸を張る。


 恥じるべき事なぞ、一つもなかった。


「さぁて、いくかねぇ……? いつつ……やっべえな、くっそいてえ……」


 頭を掻き、頬を労って。ヘルは身を翻す。

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