黒き勇者と僕
目が覚めたら、視界は奇妙だった。顔面が痛い。左手で触っても血は出てはいなかったし、歯も無事だ。頬が猛烈に痛いのでヒビは入っていそうだが。瞬きする、少しぐわんぐわんとする。
「……、……」
視界が不思議だ、可笑しい。天井を見上げていそうな感覚なのに、天井ではなく細やかなレースと材質の良い布しか見えない。頭も、硬い石畳ではなく柔らかく温かい。奇妙だ。左手を伸ばせば、目の前の布に触れられた。なんだ、これ。指が沈む。
視界の端で白い布っぽいのが流れた。どきっとすると、天井が動いて金色の眼球が現れた。不気味だ、見開かれた瞳の瞳孔が広がって細くなって、僕を見下ろしている。怪異の類だろうか。
「……不敬」
「……、なんて偉そうなんだこいつ」
「……不敬……!」
怪異の目玉が近付いた。暗闇で浮き出る蜂蜜色の輝きに僕は眉を顰めると、怪異に会ったのは初めてだなと呑気に考える。幽霊って居たのかと、感心する。天井の妙な布が邪魔だ、押すが潰れるだけで視界の大半は布で覆われている。左手で悪戦苦闘していたが、金色の眼が鋭くなってから怠そうに緩んだ。妖怪見下ろし、或いは怪異ミオロシマナコと名付けよう。
身卸眼はギョロリとした金色で僕を見下ろしている。布たる天井から覗かせる大きな眼に、さて僕はどうしたら良いものか難儀する。
「……、不敬」
不敬。耳に入る女のような声はセフゥムと僕には聴こえる、意識に刺さる意味は不敬だった。
鳴き声だろうか、否、伝えたいなにかがあるのだろうか。
僕が不敬を働いているらしいが、思い当たるのは王との謁見にて敬意を払わなかった位だ。異世界換算ならば。異世界以外だと神社で偽札を賽銭箱に押し込んで図々しく合掌した記憶もあるけれど、当たるなら罰で怪異ではない筈だ。
もしや、女神様なのだろうか。この世界の。
満月が半月となって、僕を見下ろす様は神々しい。血の気が引いているのか、目眩もする。
やはり女神ではないだろうか。神だとして僕は不敬を働いただろうか、信じてない今までに対する憤りであろうか。それとも無断で世界に入ったバグだからだろうか。
心当たりはある、けれど。
「……わたくし、身は委ねておりません。はなしなさいな」
離せと、ほぅま、とぅーるりゅーつ、あしゅれす、と耳にした。離せ、とは。左手だろうか。分からない。
「っ……、不敬!」
カッと金色が、満月となった。衝撃。後頭部、痛み。
まるで石にぶつかったみたいだった。頭蓋の軋みに左手を当て、ごろごろ。暫く痛みと疑問に葛藤し格闘していれば。脇腹に刺さるような、感覚。
白い陶器の円柱が腹から伸びている。
「……えぇ……なにこれ」
「……、はぁ。視なさいな、わたくしの、憐れな勇者様……」
見ろ。と。
良く観察する。まるで足だ。
ヒラヒラは、スカートだろうか。
漆黒のドレス。奇麗な、美しい、神々しいのは。
漆黒のフリルとレースの奥にある白いふわふわは、なんだかドロワーズみたいな。
あ。
僕はどうやら、勘違いしていた。
盛大に。
滑稽にも。
ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんに、足蹴にされているのではないだろうか。
これは。
高いヒールが脇腹に刺さっているのではないだろうか。
これは。
溜息、長く深く重いものだった。
「わたくしの、……勇者様。ごきげんよう?」
天井の布は、それこそ。
いや、止めよう。
僕は目を回す、鉄格子は数本外れて転がっていて、足首の痛みと共に鎖が半ばで千切れていた。どうやら気絶する前に画策した脳味噌筋肉脱出策は成功したらしい。顔面は痛いし足首も痛いし節々が痛いが、右腕も最早麻痺して分からないけれど、脱出は叶った。
やはり物理エネルギーは偉大だ。
アクシデントはあったが、やっと、目的に向かえる。
寝転がったまま、僕はユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんと視線を交わす、ドロワーズが可愛い。もこもこしている。
「……ごきげんは、いかが?」
「悪くないかな、うん。結構理想に近い」
色々。長耳のぱたぱたを観察しつつ。
「さて、セルフちゃんに会いに行こう。その前にさ、着替えたり浴室に行きたいんだけど」
「そう」
絶対言わない気だ。
折れないって感じだ。
数秒思考する。
「王様っていつ死ぬの?」
「……、今日……?」
うろ覚えって態度だ。猶予が思ったよりなかった。
「早く言ってくれ……それ」
「三日、申しましてよ?」
ああ、僕が気絶していただけね。
普通に僕が悪かった。
普通に三日間通っていたのだろうし、記憶にある声の正体だろう。なんて事だ。満身創痍だが、遣る方ない。僕は、息を絞って捨てた。
人生上手く行かないものだ。まあ、慣れてるさ。何時も損なもんだから。
「ほんっと、僕ってやつは熟……そんなもんだよなぁ」
これは独り言。
大きな独り言ではあったが、ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんはにべたい眼をしているだけだ。
いや、欠伸をしている。通い詰めていたのだろうか、起きるまで。
それは有り難いと言うか、なんと言えば良いのか分からないけれど。服を嗅ぐ。血の臭いだ。殆ど鉄錆の臭いだ。嫌になるが、まあ、仕方がないから諦める。気にしないで行こう。
どうせ姿形なぞどうだって良いし。そう、脳裏で反芻した。