黒き勇者と僕
黒き勇者の話を子守唄に意識が時折どっかへ羽ばたいたけれど、眠ったり起きたりを繰り返していたら話は終わりらしい所に着地した。要約するに、彼女、ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップは亡国の王であり神に近しい血筋であり、確定してしまった終わりから偶々逃れ生き延びた、と言うものだった。
産まれてから常に未来を視ていた、幼い頃から人々の死期を悟っていた彼女は未来を変えようと努力したらしい。らしい、と言うのは僕は話を鵜呑みに出来ない性格上から発生した言い回しだ。僕は知らない話だからなんとも感想が浮かび難い。もし、仮に産まれた瞬間死を知っていたら僕は今を生きていただろうか。
人々を見れば死期を知る事に問答無用に直結する姫君からすれば、誰であろうと死んだり生きたりが有耶無耶になってしまうものだろうか。確かに、生きとして生きる人間の最期を初めましてから知っていたならば、思い入れたくもなくなるだろう。関心がないのも深入りしようとしないのも、いずれ訪れる不透明な不安ではなく明確に叩き付ける絶望ならば話の本質は違う。
受け入れたり見ないようにして忘れる事は人間的機能の一つだし、それが不完全となるのなら死は身近にあり過ぎる。身近に過ぎて忘れられない、受け入れられないし見えてしまうのだ。そんな姫君曰く、統治していた期間の中どう滅ぶべくして滅ぶ国の安寧を祈れようか、と悩んだそうだ。
素直に打ち明けようとも拒絶されようし、変わらない未来とやらに次第に諦観が勝った。何回も何回も読んだ物語を、分かり切った詩の終わりに対して億劫になってしまうのも頷けるものだ。未来が視える、これは希望なんかじゃない。
絶望だ。人間には扱えない認識で現象で真理なのだ。損な役回りを担った彼女は当初自らの生を恨んだと言う、だが流れる日々に、面倒な毎日に、それすら忘却した。故に、彼女、ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップは関わらない。勇者は死ぬ、王も死ぬ、いずれって不確定が確定した景色を視る淑女になんと声を掛けれようか。
未来は変わらない、と彼女は言った。僕は未来が視えないから分からない。人間ではなくなった英雄ならば、汲める思いも魅せる背中もあるのだろうけれど。僕には未来を認識出来ないし、未来と言う現象を真理として捉えられない。疑い深くて信じ切れなくて頼るべき己すら無下にする僕には、理解しようがない。
彼女の国は滅んだ、黒き波に呑まれたと。それは小さい頃から知っていたし、仲良くしたかった人は皆死ぬと分かっていた。祈るべき神なぞいない、願うべき人なぞいない。英雄も勇者もいない、いたとしても死ぬのが視えていた。だからこそ、どうだって良かった。
心があるから、思い入れる。思い入れたくないのに、周りはそっとしない。蚊帳の外にいたいのに、許されない。なるたけ努力しても、期待しないのに、僅かでも望んで願って祈って求めるものだ。人間は脆いから、独りだと死んでしまうのに。一人を選ぶのは愚かなのに。
口や頭はどうだって良かったのだと納得しても心はそれで引き下がらない。だから苦しむし苛立つし、焦るのだ。未来が視えて良い事はなにもない、全てを知っていて生きて行ける人間はいない。僕は少なくとも今まではそう考えていた。知らない方が良い事は実際にあるし、知った所でどうにもならない事柄ばかりなのだ。未来は知らない方が良いに決まっている、大方捻れて歪んだ向きにあるし。
無論過去だって真っ直ぐで平らな道ではないのだけれど、じゃあ未来を知る事を強制された姫君には、なにを見ていれば良かったのだろうか。視えた未来に抗うのは、孤立無援の足掻きだ。僕への固執は初めて視えない人間に会ったからだろうけれど、とは言ったものの碌でもない結末しか僕は知らないのだけど。
僕は、最低限の防壁を展開していた。当たり前だが、僕の新機構はあらゆる全てを須らく変換する。選択肢を増やしたり、否定したりではなく、台詞自体の内容を書き換えてしまう。いっそ、とは思うけれど。僕は失敗や失格や致命を避ける為に、今回ばかりは素直で理屈に向き合っている。
他人事じゃない筈だ。きっと、そう思えている。セルフちゃんに当たったのが証拠だ、何処かで冷静な僕が見下ろす様子を嫌って、セルフちゃんを思って本音を言えた。僕はセルフちゃんの成そうとする罪や罰を許容しない、釘を刺すだけでなく止めなければならない。
まあ、先ずは僕がどうやって会うかだけれど。未来を視るユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんは、セルフちゃんに一体なにを吹き込んだのだろう。この国に、異世界に落ち延びた亡国の女帝は一体何時からいたのだろうか。
僕には不思議で堪らない。セルフちゃんから初め感じた違和感と、街と、王達。それは色だ、赤と青で二分されている現状が気に入らない。別に、ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんの差し金ではないのだろうけれど。
「君はさ、王に言ったんだね。未来を」
「……そうね」
勇者が呼ばれるべき未来より先に、召喚した理由だ。勇者がなにもする事もない世界は、平和とは言わないけれどそれなりに健やかな日々ではあるだろう。国を二分する対立さえなければ。
この国は対立している、内戦一歩手前だ。巻き込まれたのは分かるし、僕はこうして拘束されている。セルフちゃんがユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんから聞いた未来に対して、僕は存在していなかったイレギュラーだからだろう。
憶測が、予測が、外れ逸する。本来の機能に欠陥があり導かれる結果が想定された機構から逸脱するように、僕は異世界にいるのだ。セルフちゃんは、今、きっとアイリスさんと共に反乱を目論んでいる。勇者を呼んだのは、王を滅ぼすのは、未来を変えたいからだろう。
臆病で哀れな王が未来でなにか途方もない過ちと間違いを犯してしまうとして、それが行われる前に正そうとするのは罪だろうか。罰であろうか。僕には分からないが、僕はセルフちゃんには言っている。人を殺して於いてのうのうと生きられると思うなよと、釘を刺している。大前提で、真っ先に出鼻は挫いたつもりだった。
僕は本来呼ばれていない、召喚される筈がない勇者に戸惑う全てに、どう向き合って行くかが問題だ。僕は看過すべきだろうか、異世界の問題でこの国の話だからって見過ごして良いのだろうか。予定通り厄介払いされた翡翠と琥珀の勇者は、恐らく王の殺害を認めない人達だった。
赤き勇者は、犠牲を嫌うが分かっている人間だ。王を殺す理由や訳を話して引き入れられてしまうのだろうし、止められる人間はいない。僕か、ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんしかいない。
姫君は興味がないのだろう、僕しか知った事ではないのだろうけれど。本当に碌でもない話だ、未来で過つ王を事前に滅ぼすのが平和に繋がるとして。英断だとして、褒められる行いではない。王だって、きっと知っている。黒き勇者は随分前から召喚されていたのだろうし。
勇者が揃う日に、僕さえいなけりゃ話は拗れなかったのかも知れないけれど。僕に見過ごす理由や訳がない。国王と聖女が対立する、内心でなにを考えているか分かったもんじゃないこんな異世界でも。僕は、美辞麗句で作り上げられた虚飾を許さない。許せないから、僕はセルフちゃんを人殺しになって貰いたくはない。
人の死になんて関わらずに済むなら関わらないようにするべきだ、どうあっても其処は間違いがない。なによりも自ら進んで関わろうとするのは愚かではないだろうか、アイリスさんだってセルフちゃんだって。
癒し枠のアイリスさんも、苦手なセルフちゃんも、太っちょなザルツ・デル・アガレスも、生真面目なイケオジ宰相のセルブも、全員知っているのだろうけれど。知らないのは勇者だけだったのだろうけれど、不穏さはなんとなしに感じるもので。
ウェンユェは賢く悟って関わりを深めない選択をした。王は、どんな気持ちで自らを助ける勇者を見送ったのだろう。自らの命より未来を願って、勇者を見送るのは素晴らしい事だろうか。
「……、どいつもこいつもッ…………!」
血の気のねえ面しやがって。
生き心地はどうなんだ?
つまんねえだろ、生きるのはそんなものじゃねえよ。
ほんとに生きるつもりがあんのか。
楽しいのかよ、死に切れないだろうが。
甘ったるい救いじゃ、物足りない。
人生を全部引っくり返す程に。
あいつみたく劇薬を、呑む。
僕は、してこなかった。
僕は、やらなかった。
用量用法なぞ捨て去ってしまえ。
変わらない日々。
ただ繰り返す毎日。
魔法みたいな気分に、血が巡る。
「……気が変わった、やってやるよ」
僕は、黒き勇者にそう言った。頬の手を払い、すっと立ち上がった。気が変わった。やらなかった人間だから、やって来なかった人間だから、間違えたり誤ったりばかりの僕だけれど。
良いよ、今回だけ本気でぶつかってやる。
歩き出して、鉄格子から離れて。
「がっ!?」
そして、足枷の限界に引っ張られる形で転倒した。
右腕が腹の下敷きになって、嫌な音がした。
二三分悶絶していた、見るに忍びない、直視するには気の毒で酷い姿の僕から目を離さないユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんは流石だった。
少し、目は細めてはいるが誤差だろう。
「わたくしの、勇者様……。なにをなさるの?」
「ごめん、ちょっと待って。僕は僕を見つめ直してるん痛くて仕方がない」
喋りながら食い気味で本音が出た。額に脂汗も浮いて来た。頭の中に痛いを連呼したくなる、が、なんとか流して。右腕の痛みが現実を帯びて襲っていた、が、なんとか呑み込んで。あ、駄目かも。痛い、痛い、目茶苦茶痛い。冷や汗止まらない。頭もなんだか膨らむような痛みがある、痛い、めっちゃ痛い。
痛い、痛くて笑える。痛い、僕はなんでこう忘れるのだろう。空の向こうにいる神に問いたい、お前の筋書きなら許さない。
「勇者様は殺さない?」
「……、間違ってるよそれは。本末転倒だろ? 痛い、痛いし、めっちゃ痛い。……本末転倒だからさ、僕は言ったんだ。アイリスさんにそうはならないって、セルフちゃんには許さないし認めないって。人殺しは正当化する理由なんざない、理屈や論理じゃないんだよもう」
我ながら早口だった。慎重に腹部の下敷きにかった右腕を引っこ抜いて、暗い中ランタンに近寄って状態を確認する。肌色が良く分からない、紫な気もするし赤い気もする。ランタンの光量が足りない。痛い。やばい。
「それとも、君は死ぬべき人間っていると思う? 僕はいるとは思うよ、人殺しとか。生きてて欲しくないから、僕は全開の正論で殴りつける。この場合、僕だって正しくはないけれど、正論は強いから振り回すのは簡単だよね。正論なんだから」
「そう」
右腕の布や木がやや緩んでいる。痛い。指先が震えている。骨折したりすると、一回綺麗に折った方が治りが良くなるし楽だからってもう一度骨折させる場合があるけれど。僕は昔それで薮医者に折られたが、即座に上段回し蹴りを見舞う程度には切れた試しがある。痛いのは嫌だ、好きじゃない。
病院に行ってまたもや薮医者に折られた暁には僕が人殺しとなりそうだし、そんな節操のないたらればともしもって可能性は皮肉にも僕を落ち着かせる。腹は立つが信頼し信用した医者に折られるよりは幾分かマシだ。
「そうさ、そうそう。人間には二種類いるらしいぜ、馬鹿と阿保さ。正しいってのは思い込みだし、無知から生まれたものだろ。絶対って概念が気持ち悪いみたいに、否定するより肯定する方が楽だろう? なんだって、否定するのは大変だ。無知ってさ、罪なんだろ? 否定するのがなんで難しいって、そりゃ証明に難儀するんだよ。ごめんね早口で」
「宜しくてよ」
耳はパタパタしている。触ってみたいな。今度言ってみようかな。
「例えば宇宙人っていると思う?」
「ウチュー・ジン? 誰かしら」
「……、よし。じゃあ、えっと、喋る魔物っていると思う?」
「……いたわ」
「うん、そうだったね。ちょっと例え話浮かばなくなるな……えっとね、神様はいると思う?」
「わたくしは、いないと思うわ」
「どうやって証明する? 神の実在に付いて」
「わたくしは、救われてないもの」
「実在は否定出来ないだろう? 神の実在を否定は出来ちゃいない。いいや、正確には君からして都合が良い神はいないんだろうけれど、君にとって都合が悪い神はいないとは断言出来ちゃあいない。肯定するのは簡単だ、知らなければ良いだけだからね。君が未来を知らなければ良かったんだと思うけれど、それは望んで得たものじゃないだろうし」
「……不敬」
むうっとした顔だ。鉄格子が胸部の圧力で軋み上げている。
「肯定するってのは簡単だ、妥協と保留と看過って人間の三種の神器だろう? 一つ一つ分かるまで考えていたら死んじゃうしね、普通に。分かれ道で立ち往生するのが悪いとは言わないし、なんで人間は生きてるの? みたいな思春期って大事だよね。意味や価値ってあるのかって質問にはねえよって答える僕だけどさ」
「そう」
「意味や価値はないさ、形は形だし。仏教ってのが僕の国にはあったけど、虚無主義って奴なんだよね。意味や価値はないけど、その上でどう生きるのかって説法さ。十字架とか掲げるような一神教とかじゃ言わないような教えだと思うよ、今度なにか話そうか。で、だからって見出された意味や価値って馬鹿にするもんじゃないだろって話。こんなものばかり考えてたら時間は過ぎるし、人間は余裕がないから妥協と看過と保留って手段を持ってるんだ」
「……わたくしの人生が、空っぽと?」
「いいやそうは言わないさ……君がそう思ってるんじゃないのそれ。人間って余裕がないだろ、立ち止まるには後ろから追われてるからね。妥協と保留と看過って言う程悪くないだろうし、僕はそう考えてる」
「……そう」
金の瞳がランタンの光を反射している。右腕が痛い。ゆっくり身体を鉄格子に戻しつつ。
「生きて行くってのは、そんなもんさ。後悔するのは仕方がないにしろ、妥協してさ受け入れてさ、保留して受け流してさ、看過して受け止めるもんさ。大なり小なり思い当たるだろ? それだけだよ、まじで、間違いじゃない」
「正しくもないわ」
「そうかな、考えるってのは生きるのとは方向性が真逆だ。そもそも、人間って考えるだけじゃなんも出来ないよ。感情を捨てたら元も子もないだろ? 理性は大事さ、大切だけど感情だって同じように大事で大切だ。僕は他人の気持ちを欠片も分からないけれど、なに考えてんのか気持ち悪くて仕方ないけど、妥協するし保留するし看過してる。じゃないと、しんどい」
後痛い。右腕の痛みに口が回る。
「勇者様は、殺さない」
「そうだね。殺させない。可笑しいだろ、最初から。終わってるだろ、そんなんじゃ。僕にはちっとも分からない、未来の為に死ぬとか無理だ。あまつさえ、殺されるのは御免被るよ。人殺しは人殺しだ、どんなに言葉を並べても。戦争がそうあるように、僕は綺麗事で片付けたくはないんだ。まるで、受け入れているように見えてしまうのが嫌なんだ」
「そう、人の死は綺麗なものではないわ」
姫君の声は平坦だ。
「そうだよ、綺麗なものじゃない。どんな形でも美化されるのは好かないし許せないんだ。僕はだから、此処にいる。他でもない僕だから、この世界にいるんだろうね。僕は実利の為に小数を捨てるのが許せない、訳じゃない。理解はするけど、まるで美しいかのようにほざくのが許容出来ないんだ。だってそうだろ、美しい訳あるかって思わないかな」
「死は、死よ」
「そうだよ。犠牲を尊ぶくせに、尊ぶくせに犠牲を必要とするのも分からない。世界で最も下らない、碌でもない話だと思わないか? 人間を、行動を、美化するのは甘えだろ。気持ちが悪いだろ、美しいとは思わない、思えない。僕にはどうしても英雄も勇者も、救えないし助けられない。そりゃあ、凄い奴さ。僕には真似が出来ないから、僕には無理だから」
勇者や英雄は、死んでしまった。酷い話もあるもんだ。
「でも、凄い奴だからって人殺しは人殺しだ。其処は変わらないし変えちゃあいけないんだ。勇者が魔王を殺し平和が訪れても、僕は平和と殺害行為を天秤には乗っけない。優れていて、勇気があって、誰かを救い助けたって思わない。救えない、助けられはしない、勝手に思うだけさ。勇者はほんとに碌でもないだろ? 押し付けられるんだ、善も悪も綯い交ぜにしてさ」
「そうね、勇者だからと、皆が望んだからと正当ではないわ」
「だろう? なにかに意味や価値を見出すって事なんだけど、美化して飾り立てるのはどうかと思うんだ。美談じゃない、筈だ。自慢話じゃあないんだ、恥じて声を殺す物語なんだよ。本来はそうあるべきだろ? 悪逆非道の魔王でも、相手が死んだ方がいい奴でも、論点が違うだろう?」
「そう」
ゆったりと、姫君は口にした。全部を耳にして、内で解釈して、続けなさいなと目は語る。
「皆履き違えてるんだよ、そんなに簡単に終わらせないで欲しいんだ。僕には分からない、心底分からないんだ。人が死ぬより、人を殺すより、笑い話みたく受け入れるのが分からない。分からないだろ? それとも分かる感じかな。なら教えて欲しいんだ、どんな面すれば良いんだろうって。僕は未だ此処にいる、皆のように進めない。何時も手遅れになってる、けれど今日は手遅れじゃないんだ」
「……そう」
「だからね、僕はセルフちゃんに会いに行く。間に合うなら、手遅れじゃないなら、……」
流石に喋るのが疲れた。僕は、瞬きを挟む。
「浴室ってどこにあるかな?」
「それより枷ではなくて?」
「いや、これは良いんだよ。針金とか持って、はないだろう? あるなら枷や鉄格子だって外すけど、ないなら別の方法を考えるし」
「……そう」
「まあ、それなりにさ。やれば出来る人間なんだよ、僕は」
やらないだけで。セルフちゃんに会うにしろ、こんな姿じゃあ格好が悪いものだ。身嗜みは社会常識だと親友が言っていたし、どの口がとは思ったが正論ではあるので従ったものだ。
他人事ではないし、実感する。実感したから、他人事にはならない。無視するのも、関心を向けないのも、手遅れじゃないなら。失敗する前なら。僕でもなにかがどうにか出来るんじゃないかと思う。
「じゃあ、行こうか。時間も惜しいしさ」
「……?」
不思議そうな顔をするユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんを鉄格子越しに伺った。
「魔法でも使うのかしら……?」
「……、はは。僕は魔法遣いだからね」
嘘だけど。僕は決め顔でそう言った。
さて、鉄格子は錆びている。足枷だって実は錆びている。僕の疲れ切った肉体でどうにか出来るのかが問題だ。此処で僕は物理エネルギーに着目する、この場合必要なものは速度と質量であり僕は目で見て触って大方の演算を終えていた。
「無理をすれば……」
鎖は引き千切れないが、壁との接合部は最早辛うじて繋がっている風である。セルフちゃんの企てか、王のもしもって奴なのかは知らないが。勇者を繋ぎ止めるには不可解な拘束だ。空を飛び竜を穿つとされる勇者の扱いにしてはぞんざいだ。
だが、僕には効果的である。痛い思いをするならば脱出可能だが、痛い思いはしたくない僕にはメタを張れている。しかし、普段の僕ならばだ。
何時もはしなかっただろうけれど、今日はやる気がある。歯を強く噛み合わせ、深呼吸。痛いだろう、ちょっと痛くて切れそうになるだろうが、仕方がない。
「よし、よーし……」
僕は鎖を引き摺り接合部へと背を合わせる。距離、良し。運動靴の足裏を壁に当て、身を屈める。質量、速度、つまりはパワーである。物理エネルギーはどの世界にも通用するので偉大なのだ。
身長百七十以上、体重七十前後、百メートル八秒の非公式タイムを保有する僕ならば可能性はある。身体は丈夫な方だろうけれど、一般人にしてはって前提だ。恵まれた肉体を持て余すばかりだけれど、今日初めて感謝する。
壁から、鉄格子にはぎりぎりだ。腐った鉄格子に体当たりする要領で駆ければ目論見通り万事収まる。僕が躊躇わなければ、問題はない。それなら問題ない。僕に人間的反射は適用されない、躊躇しない、竦まない、勇気ではない。
欠陥だ。
「其処から離れてね」
「宜しくてよ」
だから、姫君の退避を境にクラウチングスタートを切れる。足に力を込めて、一秒経たずして眼前。肉薄。鼻先、鉄格子。防御、なし。顔面、鉄格子。痛み。痛覚。視界、回転。全力で、全速で、顔面から、鉄製の檻に。激突。視界に火花。衝撃。脳、揺れる。
暗転。驚く顔。閉じない瞼。脊髄反射に抗って、顔から、全開の。
こ、れ、は、やば、い。かも。