馬鹿な僕と阿呆な僕
やってしまった、と冷静に思えたのは随分経ってからだった。冷たい石畳に転がって、折れたままの右腕の痛みに僕は痩せ我慢をしていた。足首には金属の枷、辿れば壁に繋がっている。狭くて、血の臭いが濃密に残る空間。
「……いたい」
腕が折れているからか、頭が動かない。木と布で処置されてはいる。光の少ない此処は何処だろう。見渡しても、部屋隅に吊るされた油や電気を用いない例のランタンだけ。使用限界が近いのか光量が微妙に足りなくて、部屋の四隅は完全に真っ暗だ。天井も、黒くて細部が分からない。壁を見る限りは石で作られていそうだった。
仰向けになったまま、時間が過ぎて行く。僕なんて知らない世界はそうして変化を続けて、置いてけぼりにする。
「冷た……、なん、気持ち悪……?」
顔に落ちた冷たさに眉が歪む。左手で触れればざらりとした。なにかの液体は、土かなにかが混ざっているようで。指先に付着した液体は薄汚れていたし、鼻先に近付けても臭いこそしないが綺麗ではなさそうだ。
室内の湿気が天井に冷やされて水滴になっているのだろうけれど、滴る音と、ちょっとへこんだ床に小池を作っているだけだった。
なにもない。暗闇と消えそうなランタンと、鎖の重み。本調子ではないけれど、漸く確り意識を保てた。記憶を探れば何度か見た光景だ、無論、此処で熱に魘されていたからだけど。パーカーの袖で頬を伝う水を拭う。ちょっとだけ動いたつもりだが、痛くて手が止まった。
「いてぇ……」
木と布で固定はされてはいるが、治るのはずっと先になりそうだ。暗闇に慣れた筈の目でも空間は黒くてなにもない。視界の隅で、知らない虫が蠢いている。かさかさと走る虫を、壁に空いた隙間から顔を出した鼠っぽい生き物が齧っている。
「いてぇな……」
何回か目は覚めた。数分位で意識が遠退いていたから時間も分からない。月明かりでもあったら良かったけれど、謎な鼠の生態調査しかやる事もない。寝転がっていると腹上を歩き回るし、感覚の鈍い右手の指先を何回か齧られたりもした。右腕の痛みに耐えて追っ払いもしたが、数十分動かないとまた這い寄って集るから困りものだ。
パーカーは、白かったのに。水とかで汚くなっていた。頭が回らない。何度か、声を聞いた気もする。部屋の中には、なにかないか。左手を突き出せば、金属の棒があった。触ると、錆びていて指先が切れた。
「……いたい」
右腕の痛みの方が強くて流せるかなって思ったが、そうはならなかった。暗いし、音も虫か鼠っぽい奴等の生存競争しかない。僕の腹は鳴らないが、なにも食べていないような感覚だけはある。喉は渇いていて、声は枯れていた。
「いたいな……」
折ったのは僕だが、折った僕を許せなかった。考えなしに生きていないとはもう言えそうにない、全く後先を考慮していなかった。痛い。熱があって、視界も鮮明じゃない。気怠いし、疲れた。腹も空いたが動きたくない。
「……嫌われたな」
右腕が治っていないのは、聖女が奇跡を使わなかったのだろう。いや、違うな。そうじゃないな、僕が無意識に展開している変換防壁が奇跡を拒んだんじゃないだろうか。今の設定はどうなってるんだろう。脳裏に浮かぶ数列に意識を集めて確認する。
僕の変化の変換だった、つまり、僕以外の外的要因は変化を僕に与えない状態だった。さくっと切って、思考から外す。右腕が折れているが、指は動くみたいだ。痛い、なんか腫れてるし動かすの止めよう。
「いてぇな……」
奇跡を拒んだのだろうと思うけれど、そうじゃない可能性もある。直視してない訳じゃない、僕は最低だ。突然あんなに当たり散らして、子供みたいでだせえなと思う。セルフちゃんがどう考えていても、善意ってのも好意ってのも嘘じゃなかった筈だ。
僕なんかが外野でほざく道理はなかったし、そんな権利はなかった。つい、本音が出ていた。親友に似ているからだろうか、いや、何処が似てるんだ。あいつは黒髪だし、ワガママだし、もっと小さくて脆いし頭が可笑しいし。僕の言葉を欠片も疑わないし。
似てねえなと、思う。透き通った碧眼が潤む姿だけは、見慣れたくなかった。あいつの泣き顔に重なって感情が殺せなかった。理性で殺し切れずに、あんなだせえ事をした。アイリスさんを助けたつもりでいたからムカついた、昔の僕みたいでムカついた。只それだけ。
「そんだけだろ……ばかだな」
本当に馬鹿野郎だ。僕はやっぱり他人事になんて器用な真似は出来ない、やれたら苦労しない。にしても、僕はどうしたのだろう。足枷は外せそうにないし、部屋を歩き回る気力もないし、やる事もない。
目と手が届く範囲を調べても進展はないし、ランタンの消えそうな灯をぼんやり目玉に焼き付けているだけだし、やる事はない。
身体を巡る血液と、心拍に合わせ主張する鈍痛だけ。蝕まれて、嫌になる。右腕が痛い。思い出せそうな経緯も尽きた、しりとりはする気がないし。
「……、黒き獣か」
三年前に現れた喋る魔物。予言に、王は悩んだのだろう。だから、平和な世界なのに勇者を呼び出した。でも、勇者が来ても状況は好転しない。勇者が世界の危機に呼ばれ導かれただけなんだから、そりゃ変わる話でもない。早いか遅いか、だけだ。
僕は勇者ではないから、それが露呈して拘束でもされたのだろうか。魔物の仲間と思われていたらどうしう、弁明も弁護も確証がないから有耶無耶になるだろう。どうやって無実を証明したものか、もし女神がいるならば僕が導かれた人間じゃないと分かるし。
「これ、もしかして詰んでる……?」
処刑台までの障害がない、セルフちゃんには嫌われただろうし。逃げ出そうにも身体に力は入らないし、意識も時折霞む。頭を回していると睡魔が押し寄せて仕方がない。
なんとか抗って痛みに集中してはいるが、瞼が重い。
「……大いなる災い、か」
黒き獣がそうだとすれば、僕はどうしたものか。勇者ではないし、導かれてもいないし、この世界の誰にも思い入れたくないのが本心だ。助けてとか、願われたくない。求められたら、叶えなくちゃいけないのが癪に障る。
僕は最低だから細かい所を全部指摘する、面白い芸人だろうが持ち時間を過ぎて漫才をすれば不快になるし、誰もいないからって赤信号を渡る奴が嫌いだし、言った本人がやらかすのは他よりも腹が立つし、だから僕は期待を持たれないように生きていた。
そうやって流されて碌でもない話が増えていた。今回も失敗した、僕は学ばない奴だ。心底、思う。
敵が目の前、居ても立ってもいられず、勇気を振り絞ったのは僕だったろう。本気になれば全部『敵』って奴は一瞬で殺せてしまうし、五つだろうが千だろうが切れ飛んだ友達だって元通りになってしまうんだろうさ。嘘みたいに今日は明日に続くって顔してるんだろって、昔の僕へ皮肉を向ける。
心底に気色悪いよ、お前。
思い出したくもない昔を思い出すまでに、僕は陰鬱で後ろ向きだ。人生の内七割以上は後ろ向きで進んでいるし、後から悔いてる。繰り返す焦燥に身が焦げて行く、息の一つで思考が転がる。
皆々同じだよって、そんな訳があって堪るか。僕は僕だろうに、所詮人は他人だ。明日を見てれば良かったのか、今や、昔ばっかり見ているからこうなってしまったのか。世迷い言だろうそれこそ。
「……?」
光だ。黒い光。眩しくて、眩む。眼窩に襲うような光に、左手で遮って。鉄格子、赤錆だらけ。するりと、鉄製の扉を抜ける姿。白い長髪に、金色。暗闇に浮く漆黒の装い。
長い耳がぱたぱたして。大きな胸が、鉄格子に押し付けられた。長くて整った爪が、僕の顔に近付いて。触れる前に止まった。鉄格子の向こうから伸ばす手は、一頻り彷徨ってから引っ込む。僕は、暗鬱で寂寞な心を棚に押し込み霞む目玉に喝を入れる。
嘘みたいに、馬鹿みたいに、綺麗な顔だ。
「わたくしの……勇者様、ご機嫌よう」
「……考えらんないや」
耳心地の良い声に、息を捨てる。見下げる彼女、ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップは詠うように其処にいた。消え掛けたランタンで照らされた顔も、ぎゅむっと押し付けられた胸も、記憶には新しい。
「わたくし、私室におりましたのに」
「そうかい……」
どう会えと言うのだ。僕はついさっき意識がまともに起動したのだ。気絶と覚醒のループを抜け出せたのに、酷ではあるまいか。温情はないのだろうか、この姫君に。
「ええ。ええ。そう……、三日は手持ち無沙汰なの」
三日。三日も経っていたのか。そりゃ僕が可笑しくなるのも頷ける。喉が渇いたりするのも、空腹は感じないが。多分逆に慣れただけだろう。時間感覚が定まらないのも納得出来た、いや、するとして。ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんの億劫そうで無関心そうで面倒だなって空気に負けず僕も起き上がったりしないのだけど。
彼女は勇者と決め付け、やや垂れた耳をぱたぱた動かしている。興が乗る語りを待つ子供のようだ、まるで。トランペット少年の眼差しみたく、僕を見下ろしている。優雅で豪奢で漆黒で、暗がりを拒絶する黒さで。
「わたくしの、勇者様。是非……戯れてくださいな」
「……まじか。あ、そうだ。名前なんだけどさ……」
「……そう。二度はない、と……」
言っただろう、って目で見られた。忘れた訳ではないのだけど。怒らせるつもりはないが、即座に返答したり訂正する余力はなかった。
「呼び方だ、フルネーム呼び……しんどい」
普通に余裕がないから、喋り方も雑になる。そも、この姫君に気を配ったりしていない。この姫君は僕に似ている、立ち回りも立場も違うけれど。他の勇者とは纏う空気からして異質だった、初見から現在に至るまで姫君は僕しか見ていないし興味がない。
どんな思考回路をしてんだろうか、僕を狙い撃ちにされる謂れは、あるにはあるか。あるが、嫌味を込めた意趣返しが原因だろうが。どうにも根に持つタイプなのかも知れない、忘れた頃合いで背中に包丁を突き立てる系の空気が漂っている。
地雷系とか闇系とか病み系とかヤンデレ系と言うのだろう、この姫君は。親友のような地雷原の気配に、僕は警戒している。正直、未だにジョーカーだ。
「そう……」
え、それだけ。いや、頷かれても困る。呼び方の提案も僕任せなのか。頭が回らないのに。
「じゃあ、ドロップちゃん。僕の世界だと飴とか雫って意味だね、可愛くて良いよね」
「家名はおよしなさい」
どれだよ、家名。待てや、これ家名なのか。
ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップだぞ、何処だよ。
分かんねえよ。長えんだよ。
パブロディエーゴホセーフランシスコ・デ・パウラホワン・ネポムセーノマリーア・デ・ロス・レメディオスクリスピアーノデ・ラ・サンティシマ・トリニダードルイス・ピカソかお前は。
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチですら長えのに。洗礼名なのかも知れないが、姫君の家名が分からない。
「じゃあ、洗礼名っぽいユーフェちゃんで。エウフェミアっぽさあるし、聖人かなにかなの?」
「宜し……くないわ。わたくし、使徒ではありませんの」
なかったかー。駄目か。だとすると、どうしたものか。シュテル、ミーファ、シュフ、あるにはあるが頷いてくれるのだろうか。ならばいっそ名付けてしまう方が楽ではないだろうか。
「分かった、じゃあ……」
鉄格子に食い込む胸部が目に止まる。いや、ない。ないな。ないない。僕にだって常識がある。
「何処をみているの、わたくしの、勇者様」
鉄格子が圧力で折れそうだなとか思っていた。危うく変な名前が浮かんだが小学生みたいなセンスだったので言えなかった、流石に無理だった。
「ハオンで、手を打って頂けません……? 僕が、わをん。で、君がハオンちゃんでさ」
安直だったが。
「宜しく、…………、……ない」
惜しかった。非常に長く溜めたが駄目だった。
「……あそう……」
もう良いや、呼ぶ時はフルネームで呼ぼう。不可能だ。矜持のある人だった、そう言えばそうだ。だから僕に胸を触らせる暴挙に出た人だった、忘れていた。身体の節々が痛いので、転がる。水溜りに入ったが最早どうでも良かった。
親友には悪いが、もうパーカーは捨てるしかないだろうし。
「どうして会いに来たの?」
「理由がいるのかしら」
「いいや……そうは言ってない」
「なら、宜しくてよ」
宜しくないが、まあ良いさ。若干慣れたし、慣れている。
滴る汚水を袖で拭って、僕はやっとこさ身体を起こした。心臓が脈打つ度に右腕に響いているけれど、鉄格子に引っ付く姫君の前だから呻きを殺す。なるべく平静な顔で、向き直った。折角会いに来たのだし、僕を見ているし、凄く疲れているし、正直面倒だ。ぶっちゃけ横になりたい、寸前まで上がった弱音を呑む。
鉄格子から伸びるその青白い両手が、僕の顔に触れた。
「勇者様は、殺したの?」
「……、知らないな」
誰をだ。主語が足りないし、唐突に過ぎる。意表を突かれて脳味噌の数式が解ける、人殺しを疑われた経験はそこそこあるのだが。僕は面白い事に誰も殺しちゃいない、勝手に死んだだけなら沢山あるけれど。僕が悪い事は朝露もないし、僕だから悪いって話でもない。
死んだようになった奴はいたし、生きてるって言えない奴も思い当たる。覚えはあるが、僕が殺した奴はいない筈だ。死んだだけの奴を無理強いし膨張し解釈して殺したのだと徹底し追及するのは、とどの詰まり言い掛かりも甚だしい。自己の責任を他人に転嫁するなと思う、ほとほと呆れるものだけれど。
僕は目眩く日々の中、食堂で一味を塗して啜るのが好きな単なる大学生だ。周りに頭が可笑しい奴とかはいたけれど、僕は真面目で目立たない人間だ。遅れた講義に途中参加しても咎められないし、最初から居たのに出席してないと思われる二進も三進も行かない人間だ。
損な僕に、誇れる事は少ないけれど。あんまりないけれど、人の生き死に異常な頻度で遭うけれど。僕が誤ってしまっても、一線を踏み越えた事はない。死線の間際まで歩を進めても、もう一歩はない。
心当たりはあるが覚えはない感じだ。じわじわと思考が回転を始めているのを自覚する。
「そう……」
僕の頬をむにむに弄ってそう言った。眠そうに半開きにされた金眼は、照らされた蜂蜜のようで。仄かなランタンの光だけでこうも輝くのは、僕がその瞳に吸い込まれそうになっているからだろう。色素のない白髪が、漆黒に染まったドレスに何故か馴染んでいるのも印象深い。
ドレスの種類は、確か。と、記憶を漁るが分からない。明るい所で会った時に覚えようとしていなかったし、目立つ位置にはいなかった。常に僕の視界の外で佇んでいたし、昨日の夜はどうだったかな。いや三日経っているんだっけ。駄目だな全く思い出せない。全身真っ黒な記憶しかない。
「誰が死んだ?」
「……ザルツ・デル・アガレス王」
「……、ふうん」
王が死んだ。この三日で僕の知らない間になにかが狂っている、ようだった。僕は知る由もない話だし、知ったこっちゃない他人事だ。だが、もしそれが関係するなら対策をしなければならない。
謂れのない容疑ってものに許容出来る程、僕は愚鈍で魯鈍ではない。愚劣極まる理路と論理には拳を是とするのを躊躇わないし、詰られて喜んだりする趣味もない。不便を強いられるのは耐え難いし、便利を捨てるまで原始人ではない。
それで思い出した。服を左手で漁る、なかった。スマートフォンでもあれば日付や時間を確認出来そうだったのに、ないのなら仕方がない。頬をむにむにする姫君に抵抗せず今後に思考を転身する。頭に血が巡って来たのか正しく機能している。現に同時進行で入手した情報を統合しているし、別の思考も幾つか走らせている。
脳の忙しない点滅の甲斐あって、痛覚も無視して空腹も一旦横に置けている。
「……勇者様、身を濯いでは如何?」
「……、あのさ、逆に問うのもどうかと思ったけれど。もういいや、どうやってこんな有り様なのに、やれって?」
足枷を顎でしゃくる、足を見てみろと訴えた。壁に繋がれている現状、自由はない。壁と鎖の繋目はボルトやナットも見えないし、錆びていても外すには途方もない力が不可欠だ。僕は非力なので無理だし、姫君が道具の一つでも持ち込めば脱出も望めよう。
脱出した所で僕に居場所はないだろうし、容疑者らしく大人しくするのが僕のやれる限界だ。
「出来ないのかしら……」
「…………、……」
そんな目で見るなと言いそうになったが、堪えた。僕は肩を竦める、御手上げだと。
「そう……におう、わ」
「だろうね、干乾びた血が混ざってるみたいだし。ほら、パーカーが黒ずんでるだろ? これ土じゃないみたいだ、ちょっと気色悪いけどさ」
腐臭ではなく、鉄錆の臭いだ。鼻腔を刺して肺を重くする臭いと、鼠っぽいなにかの排泄物の臭いも混じっていて不快だ。だが、どうにも鼻が利かないから良く分からんのが本音。僕からすれば特筆する事もないのだが、姫君の萎れた耳を勘案するなら酷いのだろう。
「……はぁ。宜しくて……、よ」
宜しくなさそうじゃあないか。我慢強いと言うか、腐っても勇者と呼ぶ相手がこんな有り様だと苦言の一つでもあるだろうに。矜持と教養と妥協と看過が綯い交ぜになった面持ちで、長い睫毛が暗いのに矢鱈にはっきりと目に留まる。金の瞳の奥にある心を見透かそうとすれば、怖気が走って目を逃がした。
深い金に落ち着かなくなるから、逃げたのだ。僕は臆病で猜疑的な人間だ。理屈で矮小でもあるので物事に対する身体の向きって奴は直じゃない、一歩退いて斜めにぶつかる。何時だってそうして来たし今後もそうする、指折り数えられない位に続けて忘れちまうのだ。
多くて記憶から抜け落ちるまで、器を満たす。
「わたくしの……勇者様」
頬を撫でる手は冷たい。爪の硬質さも感じる。今にでも寝そうな半眼、僕だけを捉えた宝石みたいな濁りのない瞳。
「わたくしに……願い祈り、想い叶えたいものはなくて?」
「……ないな。あ、いいや、ある。僕は捕まってるのか? 罪状なんだって? 改心しろとかって言われんのかな? 日本人だから無宗教とは言わねえけれど、雑な信仰でも良いかな?」
「さあ、存じ上げなくてよ」
ばっさり袈裟懸けに両断された。そうか。知らないのか、いや、知る気がないのだろうな。この子、ちょっと可笑しい気がする。耳のぱたぱたを横目に。
「思い出せる範囲で良いんだけど、王様はどう死んだの?」
「……死は訪れてはいないわ」
「ん?」
ちょっとなに言ってるか分かんない。
「なんて? もう一回言ってよユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター……けは……はぁ、ふう。……ミーファ・クロイツェフ……、アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップ……ちゃん」
喉が痛い、尻すぼみに下がった声量を捻りに捻ったが。君呼びにしよう、ふざけていると喉が潰れる。
「はぁ……、宜しくてよ……」
其処、溜息を伸ばさないでくれ。僕が寝起きだからか、絶対違う。違う絶対に。
「死は訪れてはいない、と」
二度は言わぬとばかりの眼光だ。僕が悪いのか、大抵悪いのは僕だったが。しかし、話が噛み合わない。
「死んでないの?」
「死すものよ」
「いや、今だよ。現在、この悠久な宇宙の下に瞬きほどに栄華を咲かせる人類、なう、ここ、の話だろ? そりゃあ死ぬけどさ、いつかは。僕だってそうだし。それともあれか? こう、生きてれば死ぬんだしお前はもう死んでいるって感じ? いやぁ、……どうあれ生きてるんなら死んでるって指差すのはどうかと思う」
喉が痛いが我慢ならなかった。
「そうね」
「……、納得するんだ」
なんだこいつ。僕の頬を撫でるより説明して欲しい。僕この姫君苦手なのかも、いやそうじゃないのかな。違うかも、うん。駄目だ、分からない。
「わたくしの勇者様」
「あ、うん。なに?」
暴走する思考の土手っ腹を蹴る。
「あなたは、殺せる?」
「……、……えぇ……不意打ち過ぎない?」
なにかは知らないが、そうなったなら確実に。言い訳のしようがないレベルの殺意で、勢い余ってとかないし、ものの弾みでとかもなく、僕は人を殺せるだろう。けれど。
「もし、そうね……」
ぐにぐにするな。誰か解説してくれないだろうか。人生最大の謎にしばかれてるんだけど。助けて欲しい、烏滸がましいのは知っているし理解しているが救って欲しい。この口からは死んでもほざけないけれど、思うだけなら自由だろう。
「勇者、死すものよ」
「……見解の相違だな。僕は英雄ならそうあるべきだと思うよ」
「そうかしら」
「そうだね。英雄ってなんだと思う? どう定義する?」
「……はあ」
「……聞いてる?」
「ええ……続けなさいな」
ゆっくりした台詞に拍子が外れる。左手で頬を掻こうとしたら先客たる姫君の手があって、渋々断念する。
「英雄って、勝ち続けられないんだ。酷く滑稽な話、死んでから祀り上げられる奴なんだよ。祀り上げられて華々しい死まで一直線とも言えるかな」
「…………、そう」
「そう。英雄ってさ、偉業を打ち立てて死ぬものだ。歴史を振り返ってみて欲しいけれど、どっかで失敗するんだよね。致命傷になる失敗ってやつ。それが英雄なんだよ」
「そうかしら……?」
「詩になるのはそんなもんだよ。英雄は凄いさ、凄くて醜くて不自由で。僕が知る英雄は……、全員そうだった。色々な事柄に勝って、一番大事な所で躓いて死ぬ。勝ち負けで言うなら、最後に負けちゃうんだよ。それの善し悪しは知らんけど」
「勇者様は、英雄ではないの」
「……、勇者でもないよ僕は。英雄って奴はさ、周りが決める事だろう? 押し付けて、名誉と汚名と栄華と理想を人間の形に押し固めて、それを英雄って呼ぶんだ」
「ならば、わたくしの勇者様」
「なに? 勇者様じゃないけれど、君が言うならそうなんだろうなって諦めるけどさ。僕は、華々しい最後で飾られたりしないし死ぬつもりはない。誰かの為に立ち上がりたくなかったし、君にだって思い入れたくないよ」
僕の心は繊細なのだ。
「勇者様は、殺す事が悪いと思うかしら?」
「……、いやだから、まあいいや……。悪のお話しですか、うーん」
僕は悩む振りをする。頬を爪先で突っ突かれて、実はほんのり照れているけれど。異性の象徴が、鉄格子からみっちりはみ出ていたり顔が近かったりするとドギマギする。直に慣れると高を括ったのが間違いだった、知り合いは皆小さくて鼻で笑えたのだけれど。例えば僕に氷菓を集る幼女とか、僕になんでも押し付ける親友とか。
「悪ってさ、生きていたら切り離せないものじゃないかな。無意識で無関係で無責任に悪くなるし、宗教とかじゃあ都合の良い部分を集めたら神様になって、残ったその他を悪魔って呼ぶじゃん」
「ええ」
「それと同じじゃないかな。それにあれだな、誰にだって言える話だから。人を殺す事は悪いんじゃない? そりゃ思い込みと決め付けがあるからどうとも言えないけれど、生きたいって気持ちや本能を善とするならば真逆の性質を持つ死って奴は悪いんじゃないか?」
シンプルに投げ遣りに。
「だってそうだろ? 昨日会った隣人に理由なく殺される世界ってさ、辛いだろ。痛いのは嫌だし、死ぬのは怖いし、じゃあ皆でルールを守って生きましょう、になるだろ?」
「そう……?」
「意味や価値ってもんがなくたって形から見出すものだし、生きてりゃ善ってのも気に食わない話だけどね。核抑止論ってのがあってさ、あれって簡単な話死ぬから止めようねってルールの共通認識なんだよ」
「……カク」
「そうそう。お互いに相手を殺せる武器があっても、互いに殺せるんだから使った瞬間に死ぬかも知れない。だから使えないし使わない、相互の共通認識による抑止、そんな話だよ。平たく言えば生きようとする中で生きたいんだから死ぬような事は皆止めようぜ、それは悪い事だからって言うじゃん」
「そうね」
「だから、人を殺すのは悪い事だ。まあこれに多数派と少数派を混ぜたりすると阿呆さが加速するけど、単純に死にたくないって気持ちがあるから悪ってものがあるんだろ? じゃあやっぱり、人は殺しちゃ駄目だよ」
「そう」
随分素っ気ないが目は僕に向いている。
「そうだよ。人殺しする奴は死んだ方が良いし……ってなんでこんな話をするんだ僕は。それよりさ、優先順位とかあるじゃないか。ね、あるよねきっと」
「……、ないわ」
「……あるよ、あるんだよ。いま、なう、こんな世界に生きる僕達に降り掛かる運命の悪戯、ここの話だ。結局、僕になにをして欲しいって?」
「対価がなければ、結果は伴わない……?」
なんだとこの野郎。じゃなかった、いやなにも求めていないのだからなにも要らないし。がっ、と左手が捕まった。抵抗する間もなく、胸に。何度目だろうこの、どうにもならなくなる感じ。
「止めろ! はしたないぞ!」
引っ張るが、姫君も抵抗する。僕が弱っているのか抜けない。ぐにぐに、と。押したり引いたりを繰り返す。
「なんなんだよ、もぉ……あー、もうしんどい。なんだって? なんの話だ?」
「わたくしの勇者様、宜しくてよ」
「宜しくねえよ! 嫌そうな顔じゃないか! 僕になにをする! 矜持とか合理で甘んじるなよ! けほっがはっ!」
喉が痛い。声帯が痛む。頭も痛い。止めて欲しい。まじでしんどい。
「宜しくてよ」
眉を寄せ、目を細め、顎をちょっと上げてそう言った。
「ッ……、……宜しくねえ面じゃねえですか……。なに? なにかをさせたいのは分かったよ、で、なんなの? 結論から言え」
「……殺せる?」
「……、ふぅ」
落ち着け、ステイ。ステンバーイ、ステンバーイ。違う、ステイ。待て、良し、冷静だ。血は頭を満たしていない。心拍は左手の感触で早いが許容範囲だろう、そうに決まっている。
「僕が悪かった、経緯を、言え」
「わたくしが物心付いた頃……」
「……、そこからか……いや、良いや。暇だし。続けてよ」
僕は、諦めて瞼を下ろす。どうにも、ゆったりとした声と焦りと縁のない歌うような語り口は睡魔を誘う。子守唄のように鼓膜を揺らす声に、僕はそうして僅かな反骨心を捨てて意識を鎮めた。沈む思慮に、眠気を添えて。