赤き勇者と僕
昼にはなっていない現在、僕を含めた勇者一行は王都を抜け、混雑した巨大な正門を抜け、近場の林の中に足を踏み入れていた。少し問答やいざこざはあったが語る労力は割くまでもなく、問題らしき問題がない展開だった。問題なく、特になんもんなかったので、朝食から二時間は経っただろうかと僕は僕を傍観する。
馬車が行き交う道を外れて早一時間、先頭を歩くヘルさんの灼髪が網膜を刺激する。
苔生した倒木を踏み越え、木漏れ陽の多い林を進んでいた。運動靴にへばり付く腐葉土で数センチは身長が伸びた気もするが、パーカーに手を突っ込む僕は意識が散漫だ。警戒していない、とは言わないが緊張をしてはいなかった。
一番背後ではセルフちゃんの手を取り支えるヴィクトリアンメイドの姿。景色と服装が此処まで合致しないと奇妙にも綺麗だなって思うのだ。モブキャップですっぽり髪を隠したメイド、アイリスさんは本当に視野が広い。最後尾で転倒や転落をしそうな少女がいれば、何かを言うでもなく傍らで控え主を支えている。感謝に対し当然ですとばかりに謙遜した態度だし、気配りも潤滑だ。
最後尾の警戒と全体の俯瞰もしつつ、汗の一つも流さない。無理をしている訳でもなさそうだし、ロングスカートの裾を汚すような事もせずにいる。問題を強いるなら、純白だったセルブが小枝や泥で汚してしまう女の子もいるって位。
いや、なに。林に入って一発目、想像以上に土が柔らかくて見事に転倒したのだ。そりゃもう拍手喝采しそうな程に。顔面から地面にヘッドバンキングしていた、大の字で。セルフちゃんの鼻は未だに赤い、鼻血は止まっていたが。勇者一行は早々に負傷者を出してしまった、幸先の悪い話である。
僕はあんなにも運動音痴でも歩き難い姿でもないから、ちょっとばかり歩行速度が速いヘルさんの後ろに引っ付いていたけれど。木々の隙間を抜ける風は冷たくて、日差しも特筆して強くもなく、薄暗い場所ではあるが視界は悪くはなく。森と述べるには木々の密集がない此処にはそんなには苦労していないのだ、学生として登山部にいた時にはもっと険しい山々を歩いていたし。
慣れたものである。小鳥の囀りに耳を傾けたり、知らない植物を観察したりする余裕はある。無論、真っ赤な髪を靡かせずんずん先陣を切るヘルさんあってのものだけれども。なんたって。
「ん、出て来た」
ヘルさんがぼそっと呟き、身を屈めた。炸裂音。腐葉土が、舞い上がる。途端、胴回りはある木々数本が薙ぎ倒された。強烈な突風に目を細め、空気を爆裂させた赤を探す。其処には、遠く離れた木に片足で踏み留まる女傑。
木と足裏で圧縮される、兎に似た生物。無機質な黒い目に、大きな耳、毛色はやや薄い桃色だ。なんて酷い、とは思わない。暴れてのたうち回る兎に、木の葉が落ちて来る。僕達は、数十メートル先のヘルさんに足早で駆け寄っていた。
兎は、巨大だ。小振りではない。ヘルさんの身丈はあるのだ。それを、首元に足裏をめり込ませ木に縫い止めているだけで。鋭い牙や、爪も、筋肉の躍動も全部無視して暴力で勝っているだけで。
「ぎゃあァあああ!!」
うっわ、キモ。じゃなかった。雄叫びを上げる巨大兎に女傑は嫌がったのか、ぐっと足裏を押し込んだ。巨木が軋み上がってしまう脚力にも驚きだがどうしてそんな状態なのかも分からない。突き立てる爪は衣服すら裂かず、血管の浮き出た四肢は微動もしない。完全に拘束されているのだ、鼓膜の痛みは仕方ないにせよ。
「これが、魔生物ねえ……?」
拘束する当人は懐疑的だ。いや十二分に怪物なのだが、どうにも気が緩む。腕を組み片足で抑える女傑にしてみれば些末な事柄なのだろうけれど、僕やセルフちゃんだけだったら逃げ出している。逃げ切れるかは別にしても、立ち向かいはしない。
青褪めたセルフちゃんを見て、僕は思う。
「ふうん、にしてもこれで生き物じゃないんだろう?」
「そ、そうですね。魔物は魔力しか食べないんで、ひっ!」
ひは余計だ。身丈を超過した殺意の高い兎に怯むのは分かるが。叫び声すら殺され掛けている兎は、本当に運がない。勇者一行には心強い味方、人型兵器たるヘルさんがいるのだから。
「みたい、だねえ。やっこさん、食えんのかい?」
何でもかんでも口にしようとするのは幼児で卒業しただろうに、ヘルさんは気になるようだ。
「いえ、魔物には核があり破壊されれば肉体は霧散します」
アイリスさんがふらつくセルフちゃんを支えてそう言った。
「核は、純度の高い魔力が物質化したものらしいのですが」
「ですが、ってのはなんだい。魔力の物質化ってのもピンとこないね」
「私達に魔力の物質化、結晶化を行える技術がないのです」
「ふうむ、それが収入元になりそうだねえ」
「ええ、魔物を倒すのを生業にした人達もおります。集まった彼等の元締めはギルド……或いはクランと、呼ばれておりますね」
定番だが、魔物から出る結晶、所謂魔石とやらで成り立つ職業組合だろう。それなりに規模は大きそうだが。
「まあ、霊力貯蔵する石って感じなら……色々活用できるって寸法かな」
「そうです、勇者様。街の明かり、魔術の転用、様々な分野で欠かせないので国から認められたすっごい仕事なんですっ」
むん、とセルフちゃん。まあ、そうだろうけれど。予想通りではある。
「あーね、ランタンとかね」
苦労させやがってくれたランタンの動力が謎だったが、魔力は加味してはいなかった。なんで光ってんだろ、油でも電気でもねえなとは考えていたのだけど。僕の世界よりエネルギーが多いから、近世っぽいのに発展していたのだろう。スチームパンクって訳でもないし、そりゃ消去法で魔力しかないか。
魔力ってなんだよって思うけど、世界固有のエネルギーってものには毎度困る。理解しようにも未知であるし、理解しても固有だから融通が効かない。その点、物理エネルギーは偉大だ。
眼前の兎が苦しむ姿に何度か頷き、僕は細かな部分を観察する。
「生き物ではない、のに牙はあるし爪もある。目もあり鼻もある。呼吸は、してるのかな?」
「……さぁ? どうでしょう?」
「ああそう……」
セルフちゃんは頼れない、目配せする。アイリスさんと重なった。
「……そうですね、王宮の魔導士達の言では魔力の摂取の為だと」
「ああ、呼吸とか食事とか?」
「人間にも魔力はありますし、野生動物よりは良い栄養源なのでしょうね。実際、魔物同士の共食いは報告されますから」
「なる……ほど」
魔物の造形には理解出来た、生殖機能はないが排泄機能はあって人を襲い食べる。魔力を源に活動するから魔力に惹かれて彷徨う訳か、ん、となるとセルフちゃんは良い餌なのではないか。僕が勘繰った時、女傑の灼眼が周囲を撫でる。
「ん、なんか集まってないかい? アペスみたいな習性があるわけじゃあないだろうし……あたしたちが美味そうだからかねえ……?」
「まあ……公道から外れておりますし」
「……あたしが霊力あるからなぁ、それの所為か……お嬢ちゃんかもしんないねえ」
セルフちゃんを見透かして、ぐっと力んだ。背骨が砕け絶命する魔物と折れる木。倒壊する木の起こす縦揺れの後に、女傑は勢い良くローブを翻した。身を屈め、片手を地面に触れて。
「よーし、んじゃまぁ、伊達に請負官してないってとこ見せなきゃなんないねえッ! ちょいと熱く凍るから離れとけッ!」
言うが速いか。赤毛が舞い上がり、ローブがはためく。剥き出した歯の隙間から白い蒸気が噴出し、煮え立つマグマの如く足元の草木に引火する。肌を叩く熱波に思わず距離を取って、目を見開く余裕もなく常軌を逸した熱を生産していた。
身体から滲む凍え盛る熱量がピークに達したのか。
「うおらぁああぁッッ! くぅたァばりなぁあああッッ!」
遠くで、土煙。木が非現実にも空を飛んでいた。何本も。
目視不可能な速度で忽然と姿を眩まして。
赤い線が木々の向こうを走って。
右、左、背後、前方で爆風が発生していた。
流石の僕もやたらめったらに押し寄せる余波に転けそうになって、木に手を着いた。ほぼ同時に爆発する音と、女傑の雄叫び。僕の前に走って来た大型の兎に身構えたが、横合いから煌めいた赤が。
前蹴りが兎を粉微塵にした。肉片すら残らない、文字通りの粉微塵だ。木や葉に飛び散る鮮血と、爆心地。女傑は肩を回し、ガハーっと水蒸気を逃がしていた。
「……うわ、引くわ」
本当に。ちょっとパーカーに血が付いた。クリーニングに出さないと。枝から滴る肉と血、内蔵の断片。えぐい、えぐいにも限度がある。普通蹴っただけで生き物はこんな、こんなにも酷い死に方をするものだろうか。桁違いの膂力により筋肉や骨、脂肪や皮、あらゆる部位が木っ端微塵に弾けたのだろうが。
真っ赤な一箇所から堪らず目を背けた。セルフちゃんは泣いてはいないだろうか。ちょっと生き物ではないと言ってはいたが、生き物じゃないからってこんな末路、こんなにも後味が悪い末路はあんまりにもあんまりだ。これは情操に悪い。酷く夢見が悪くなる。夢に出そうだ、魘されそうになる。
記憶からなんとか消せないかなんぞ遣り繰りしていれば、四苦八苦していれば変化は訪れた。さらっと、飛び散った肉が解れたのである。
砂のように空中に霧散しているではないか、パーカーを見ると血痕が消えていた。事前に知ってはいたものの改めて直視するのとでは湧き上がる感想は違って来るもので。僕は現実味と現実離れの境を行き来する気持ちを味わっていた。枝に引っ掛かる筋肉の筋が、油に滑る腸が、血の滴る耳が、黒い靄になって砂になる。今までいた事実を許さないように、世界から消えて行く。雪解けのように、積もった血肉が溶けて曖昧になって。
透明な空に流されて。風に運ばれて。
魔物で良かったと思う反面、あの蹴りは喰らいたくないなと冷静に分析もする。
僕が喰らえば末路はアレだ。絶対に嫌だ。尊厳があるのだ、こんな僕にでも。最低限、形は残したいのだ。血肉はその場に残留するだろうけれども。
「おっし、終わりだ。いやー、脆いなほんと。アペスみてえな群個体でもないし、魔法使うまでもなかったかぁ?」
頭を粗雑に掻き、ヘルさんはぼやいた。
「ヘル様は、ものすごく……強いのですね……」
セルフちゃんもやっと復旧したらしい。身が竦んで逃げ腰だ。気持ちは分かる、とても甚く分かるけれども。
「いんや、あたしは弱い方だよ。技量や速さでアキューに勝てないだろうさ……頑丈さと力はあるにはあるけど、請負官になるとそんなの当たり前になっちまうからなぁ」
「弱い、んですか……?」
「そこそこ、かねえ? 三大魔女様にゃあかないっこないね。師匠も殺せる気がせん、十回はやれんだろうが……」
顎に手を添え真剣に考え込み出した。唸りが響き、ヘルさんは困り顔だ。
「弱くはないさ、ネームドだし……。でもねえ、ネームドってのはもっとねえ……どうにもなんない連中さ。あたしは珍しい属性のせーでセカンダリーネームドがあるし」
と、セルフちゃんを見下ろしてから人差し指を立てた。
「いいかいお嬢ちゃん、あたしの属性はセレスの旦那曰く間違って正しい。火属性と氷属性、なにを間違えたのか逆転してるって寸法さ」
「は、はぁ……」
セルフちゃんは平常運転だ。阿呆とかではなく、知らない事は理解が出来ない、日を見るより明らかな妥当で言うまでもない事柄だ。理解しようと頑張ったり、健気に耳を傾けたり、問うたりするセルフちゃんを馬鹿にする人間はいないだろう。僕はそんな姿を嫌いにはなれそうにないし、苦手にも思わない。
歳に見合った表情で、心から接し触れ合う女の子が可愛くない訳があるものか。
「わから、ないよなあ。えっとなぁ、あたしの氷は燃えるんだよ、火は凍るしな。どんな魔法や魔術を使っても、そうなっちまう」
「……魔導士の方、だったんですか?」
「んー、そうなるのかねえ。請負官ってのは万能じゃなきゃならねえのさ」
ヘルさんの言葉には経験の色合いが濃く、台詞の端々に苦労が滲んでいた。嫌な経験と嫌な思いをさぞ沢山培ったのだろうけれども。
「それで、魔生物を相手に戦うかい?」
「いや、僕はいい。やれない」
身丈の兎に勝てるかこの野郎、あの王まじで頭可笑しい。可笑しいのは勇者であろうか、この場合。僕には向いていないので辞退したいし、役から降りる。覚醒は起きないし、都合は良くはならないし、敵は待ちはしない。僕の敵は誰一人として機会を伺ったり、恰好なんて付けず虎視眈々と大真面目に殺意を握っていた、括弧付ける余地なく一から十まで悪意と害意と正義を胸に生きていた。だから僕は考える。気紛れを続ければ癖になるように、癖を直せなきゃ習慣になるように、習慣を繰り返せば矜持になるように、矜持を貫けば生き様になるように、異常が常なら普通に至るように。
そんな問い掛けは残酷だ、崩れる模倣犯で狂った放浪者で韻を踏むように、喉元を締め付けて来る日々。僕は愚かで、僕は何処かで、リズムが歪んで行く感覚。一音づつ外れ抜ける感覚が心を砕く。僕には無理だった、僕はしないから。真ん中で戸惑ってしまう。Fate has its'ways and while we'te gonna fight《運命には選択肢があるから生き抜く為に戦うしかない》なんて気取って何時だか本当が嘘になったあの瞬間、無邪気な横顔が深く突き刺さったあの刹那、責め続けられる方が楽になったと実感したあの間際、だって僕はずっと求めているんだ。
好きな奴を救うなにかに、僕は成れないから。願って祈って求めて、歪む。嘘吐きだから嘘が尽きなくて蓋をする、それが正しいなら僕は一体全体なんだって宣うのだろう。それこそ、ほんとに、戯言だろうに。
「それがいい、戦いなんて強いられなきゃやらないもんさね」
ヘルさんは、強いられたのだろう。戦わなければ生き残れない世界に居たのだ、強さこそ全ての世界。とある民族が打ち立てた一種の理想郷。そんな世界で藻掻いて来た人間が、弱いと僕は思えない。
弱い者が死ぬ、そんなどうしようもない世界で気高く生きる人を貶すような真似は、死んでも出来ない。誰かに強要したり共感を得ようとせず、戦わない事を認める姿勢は芯が通っているからこそだ。
「あたしは、あたしが大事だから誇れるのさ。真っ直ぐ生きて、嫌いな野郎は殴っちまう」
「どうして、そう生きれるんですか」
僕は、無意識に問い掛けていた。慌てた思考が脳裏で舌打つ。
「さあ……ねえ……? んー、誇りたいだろ? どうせなら、よ」
額を小突かれた、痛くはなかったけれど奥に刺さったように痺れた。ヘルさんのにかっとした笑顔に、僕は記憶の軋みを覚えた。ああ、折角忘れていたのに。木漏れ日の柱と、心地良い微風。林の中で僕はどんどん分って行く。
此処は異世界で、現実なのだ。暑くも寒くもない、でも腐葉土の臭いはするし足だって疲れる。他人事では、ないのだ。僕に現実が教える、生きている事実を確りと。僕に木漏れ日は嫌に眩しくて、手を翳し遮った。ああ、嫌になるな。と、呟いたかのか考えたのか、分らなかった。