勇者と僕
食事を誰かと共にしたくないのもあるけれど、食事に一服盛られるなんて猜疑心から断った訳ではないのだ僕は。ウェンユェや春風太陽、ヘルさんは食事をするらしいが。そんな彼等からのまじかよって眼から出奔して、思惑通りアイリスさんに連れられた。
アイリスさんの後ろ姿を独占した一時はあっと言う間に時空の彼方へと消え、僕は独り寂しく、これからは自室となる部屋にいた。特になにをするでもなく、ぼんやり一時間程度過ごしただろうか、なにかをしたいとかもないし、なにかをしなければならない事もなし。
豪華で巨大なベッドに仰向けになり、僕は天井を適当に見ていただけだった。部屋にある照明の強弱を変えられれば良かったが、アイリスさんに質問するのを忘れたので操作なんぞ分からずランタンの前で十分位は歩き回る羽目になったが、体たらくな僕は結局意識の外に追い払うと言う原始的な方法を解決策とした。
外的要因に対し内的要因で対抗するのは別段悪い手段ではないと思うのだ、やや薄暗い室内だからなんとか無視出来ているようにも思うけれども。
僕は今後に付いて悩める学徒なのだ。単位が心配で教授達に頭を下げ懇願する学徒なのだ、最近は出席の足りない親友を背負って大学に向かうのが僕だったのに。一日も経っていないからかどうにも思考は異世界に馴染まずにいる。
にしても、勇者は切れ長の美人と猛る女傑に憂う姫君に戸惑う不良がいるとは思ってもいなかった。増える可能性は考慮していたし、考えられる範囲は考えたのに、二進も三進も行かない。セルフルクル・メルクマルクロストちゃんには嘘を吐いたが、僕は名前をはっきりと覚えていた。
彼女が見せる年相応な未熟さは、僕には辛くて眩しくて鮮やかに過ぎるのだ。だから、僕は半歩下がった。あの子の無償の好意は僕にではなく勇者に向けられたもので、勇者にならば無条件に信じて頼ってしまうのだろう。危うさに巻かれたセルフちゃんは苦手だった。
その点、王に対して直々に意見をぶつけて意思を通すウェンユェは強かで苦手だ。セルフちゃんの危うさを知った上で友達みたいに振る舞うのが、全て下心とは断言しないものの大雑把には外れてはいない。僕に向ける信頼のなさと信用を置かない危機感は程度の差こそあれ、懐いても不思議ではないのだし。
春風太陽君は感情に素直だし疎いようだが、僕はああして笑ったり雑談を楽しんだりは出来ない。無論、誰もが心の根っ子に蟠りを残しているから、異世界だからってはしゃいだりはしなかったけれど。前向きなのは女傑なヘルさんだけだ。
ヘルさんからすれば生きるのに困らないから良い、らしく。見る全てを新鮮な気持ちで受け止めているようだ。ウェンユェだって、困惑はあれど新天地にわくわくしているのが分かる。得体が知れなくとも、知らない物事に於ける好奇心が勝っているのだ。
命の保証がなくて、望まぬ異世界にいる僕達には共通した勇者って肩書きがあるけれど。強いられてもいなければ急を用する話でもなく、曇ったガラス越しのような先へ不満と不安を両手に歩まされている。
大いなる災いのない、勇者が必要とされない異世界で。王は、愚かだ。愚かでどうにもならない臆病な、人間だ。赤い王は、生きていてどうにかなってしまいそうだったのだろう。だから、僕達を召喚する最も間違えた選択をした。
そうじゃないかと、僕は思う事にしている。勇者に縋るのは滑稽だろうか、無力で非力な者が助けを乞うのは醜態だろうか、怯え竦む者が導きを求め願うのは恥辱だろうか、いいやそうではない筈だ。僕は脳裏の一部で英雄のマニュフェストを反芻する。
私は英雄だ。立ち上がる勇気がないならばこの背に縋れ、前に進む勇気がないならば私が手を引こう、悩み頭を垂れねばならず勇気の所在を見失うならば私が見本となろう。傲慢、不名誉、汚れ役、捨て駒、最前線、全て引き受けよう。貴様が前にする人間は、人である以上に英雄だ。
だったか。人の身で英雄であり、英雄であり人の身たる代理のマニュフェストに氏族は連なっている。勇者ではない、彼は紛れもない英雄だ。英雄であり、英雄となるのだろう。
だから、僕はそうなれない。僕は苦手な人種だ、それなりに付き合いは長いけれど強弱の問題だ。
僕の前を歩く英雄に、僕は何時だって背中を向けている。褒められた行いではないけれど、仲間なんかじゃないし友でもあるまいし、歩く道は同じとは限らないのだ。
敵でも味方でもなく、白黒を有耶無耶にだらだら生きるだけの僕になにが出来ると言うのだろう。
自己嫌悪と自己否定に苛まれるのも大概にしようと努力をしてみる、脳内でしりとりから始めて、思考実験を挟んで行く。モンティ・ホール実験と言うものがあって、あれが確率五十%だったか、どうだったか忘れていた僕は例題を思い浮かべる。
そうだな、例えばこの部屋に来る可能性のある人物でぱっと考えよう。
アイリスさん。
セルフちゃん。
太陽君。
この三人の誰か一人が来たとして。一番嬉しい当たりはまぁ、やはり至極当然アイリスさんか。逆に男でありクラスカーストで触れ合わない人種の太陽君は勿論外れだ。つーか、アイリスさん以外は外れなのだ。セルフちゃんには手首を痛め付けられた恨みがあるし。
天井裏。
窓。
扉。
ならば、最初に太陽君が頑張って窓から来るとしよう。三分の一の確率の外れ枠。外れを引いたなら、次に僕の中で豪華景品たるアイリスさんが来る確率は太陽君がいないから二分の一の筈だ。
行動を起こした僕が扉を開けば、待っていただけの何時も間違える僕との勝ちレース。やったぜ。絶対に当たる。
いや待て、三分の一を外して僕が待っていてもそれは二分の一になるのか。
よし、頭の中を捏ねて浮かべよう。
ABC
Aがアイリスさんとしよう。一人づつでしか会いに来ないと定義しよう。分かり易いように、会いに来る場所を用意して。
待っていた僕は必ず外す、待たなかった僕は会えるかも知れない。この待たなかった僕はアイリスさんに本当に二分の一で会えるのだろうか。
這い寄って天井裏。
城壁をよじ登って窓から。
普通に扉から。
仮称ABCである。
考えられるパターンは。
一
A 会えた。待たなかった僕。
B 来ない。待った僕。
C 来ない。
二
A 来ない。
B 会えた。待たなかった僕。
C 来ない。待った僕。
三
A 来ない。待った僕
B 来ない。
C 会えた。待たなかった僕。
四
A 会えた
B 来ない。待った僕。
C 来ない。待たなかった僕。
五
A 来ない。待たなかった僕。
B 会えた。
C 来ない。待った僕。
六
A 来ない。待った僕。
B 来ない。待たなかった僕。
C 会えた。
七
A 来ない。待った僕。待たなかった僕。
B 来ない。
C 会えた。
八
A 来ない。
B 来ない。待った僕。待たなかった僕。
C 会えた。
簡潔に述べると。当たり外れにしろ。
AA
AB
AC
BA
BB
BC
CA
CB
CC
の組み合わせがあって。
待った僕が必ず外すので、待った僕がAだとすると。ん。待てよ、直感的な思考と論理的な思考が僕の脳内でぶつかった。
あれ、当たりを引く確率は二分の一じゃなくねえかこれ。ふざけるなよ待っているだけの僕如きが、お前まじで。と言うか、待っている僕は絶対に間違えるんだからこの通りの内、二回目って要するに。
「……?」
閉ざした扉が開いたように感じた。仰向けになったまま、僕は廊下に向かって広がる戸を眺めて。鍵はあったが閉めてはいなかったのが災いして、功を成してと言い直すべきだろうか、なにはともあれ廊下の暗がりから生えた白髪には内心驚いた。
待っているだけの僕に会いに来るなんて、どんな冗談で戯言だろうか。
踵の高い靴が床を鳴らし、夜より深く浮き彫りになった漆黒のドレスが動きに合わせて靡く。フリルと白髪と、月明かりに照らされた金色に、僕は仰向けのままに目だけを向ける。不意の、来訪者である。
ぱたり、と閉じた扉を背にユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップは胸元に手を添え、息を細く伸ばした。
外れ、ではないか。ないな。うん。ない。当たりに近い。いいや、正確に述べるならジョーカーだこれは。どちらにも成り得る、人物だ。
呼吸で膨らむ胸部に一瞬目が奪われそうになったが、理性はゆっくり蝕んで億劫な顔に戻した。まあ、良いかと瞼を閉じて狸寝入りに移行する。
「庶民、起きていらして?」
僕は無視する。室内に舞うなにか花のような甘い香りに酔いそうになるが、力を抜いて無視を決め込む。ベッドに近付いたのか、浅い呼吸の音が鼓膜に届く。
おや、ベッドが揺れた。足付近の傾き。もしやユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップ氏の臀部がベッドに鎮座したのではあるまいか。
「庶民、起きていらして?」
「……」
「宜しくてよ」
え、なにが。なんで。なんだ、この状況。僕は、奥底にある戸惑いを殺し切り狸寝入りを実直に遂行する。足に感じる、僅かな温もり。触れてはいないのに、体温が分かった。
「庶民は……問いましたね。わたくしの祈りと願い」
「……」
「……わたくしの目は視えてしまうのです」
語り出したぞ、どうする僕。無視しろ僕。関わるな、これ以上。慌てふためくには未だ早い。
「……して、庶民。先の……そう、わたくしが許し庶民の願いは阻まれておりましたので」
え、続き語らないのかよ。おや。なん。あ。僕の左手が、重々しくも柔らかななにかに沈む。ほんのり温かくて、優しく押し戻す弾力に、これは。まさか。有り得るのだろうか。そんな馬鹿な、律儀にも程がある。箱入りにも限度がある。矜持にしたって折れるべき境界線だろうに、何故、これは、馬鹿な。信じられない。僕は、僕の左手はどうなっているのだ。
沈み込むまでに大きなそれに、僕の左手は包み込まれて。指先の合間に通る生々しい感覚に。
「宜しくてよ」
宜しくないが。全然悪いが。気怠い口調に穏やかな声色が、鼓膜を舐める。背筋をじっとり蒸らす冷や汗に意識を傾ける。
「庶民は、……はぁ……。わたくし、視えないの。庶民、勇者ではないのではらして?」
どきり、ぐきり。とした。左手は捕まったままだ。手首が痛いのはセルフちゃんの所為だろう。
「わたくしの知る今は、わたくしの知らない今……。…………、……ふぅ……」
耳が熱くなりそうで、脳味噌が煮立つ。駄目だ、これは人間耐性のない僕には特効だ。考えが四散する。
「ねぇ、庶民?」
「っ……」
耳に息が掛かった。近い。我慢堪らず、辛抱吹っ切り上体が跳ね起きて、左手を引き抜く。見開いた目に飛び込むのは壁、いや、鼻先が埋まったのは彼女の胸元だ。腰を引き摺り、後頭部を強くベッドに打ち付けた。目眩がした、が、金色の眼が僕の乱れた前髪のちょっと先にある。
息をすれば互いの酸素が循環する距離だ。
「あら……起きていらしたの? 良かった……」
笑うでもなくば、涙袋の憂いに。近い、近い、近い。もうキッスの距離やで、ガンガン来るけど先ず距離取ってくれ、端から見ればただの、あわよくばなんぞ望めぬ。尚顔を寄せるので掌を向けた。突き出して、拒絶した。
「っ……」
まさか両手で捕まれ胸元に沈み込まされるとは。予想外。パニック。月明かりに淡く艶やかな唇が、きゅっと結ばれて。
「わたくしの、勇者様になってくださらない……?」
それは、僕に取っては分岐点だった。
頷けない、何時もなら。
流されない、何時もなら。
でも、僕は誓った。失敗と失格と致命と欠陥はしないと、誓ったのだ。
今回ばかりは、しないと誓えたのだ。
ふうん、って済ませず澄ませなく。
で、って切れずに着れず。
僕は、故に、本音を口にする。
「だからって……するもんじゃないさ」
手を払い、引っこ抜く。至極簡単な作業だった、僕より非力な女の子の拘束を解くのは。掌に染み込む感覚を潰すように、握り込み。
「僕は君の勇者様じゃない」
「……そう」
「でも、今回ばかりはやるよ。僕がそうしなかったように、アイツはそうしただろうから。良いよ、君の勇者様じゃあ……ないけれどね」
「……、そう」
伏せた目に、長い睫毛。横に伸び若干重力に負ける耳がぱたぱたして。
「なら、束の間の戯れをしましょ?」
「僕にはないけどな、大層なものは」
いや、本心だ。僕はなんでも出来たが、なにもしなかった人間だった。なにもしないからなにも出来ない奴なのだ、だけれど。
「まぁ、良いさ。慣れてる、他人の評価が一番正しくてましなんだからさ。そうだな、どんな話が御所望で?」
「そうね……、どうして、覚えられたの?」
名前か。いや出来るさ、僕なら。やらないだけで、やっていないだけで。出来るからやらなかった。やらなかったから出来なかった。
「出来たからかな、僕には」
「そう、ひとたび見聞きしたものは、常なる人は忘れないものかしら……?」
「良くも悪くもね……って、頭を撫でようとしなくて良いからさ。困るから」
「……、それは悲しい話よ」
「……なんで?」
「……、はぁ」
黒き勇者、漆黒の姫君。熱を帯びる息が僕の頬を撫でて行く。でも、僕は決して錯乱もしていなければ場の空気にも呑まれていない。悍ましく壊れていた僕だから、いっそ清々しく理解していた。
「じゃあさ、少し話をしようか。僕が主人公になっちまった酷くチープで、惨くシャープな話さ」
「……、宜しくてよ」
「そうかい……僕は、そうだな。あれは……嫌になるほどまともだった頃になるかな。まあ、詳細を語るのがめんどくさいから十割省くけど」
黒き勇者、寄り添う姫君に僕はどんな面で言えているだろう。残酷で冷酷な顔で、熱のない眼差しなのだろう。
「その時に得た教訓はね、人間ってさ、助けられないし救えないってシンプルな事なんだ」
突き放すように、然もなくば強いるように。
「僕にはなにも出来ないけれど、君はそれでも僕に救われて助かりたいのかな……?」
「宜しくてよ。わたくしは……勝手に救われ、自らで助かり、一人で祈り、声に出して願うだけだもの」
「ふうん」
僕は、彼女の変わらない気怠い声と億劫な顔と緩慢で徐な所作に相槌を打つ。
「だから、わたくしの勇者様であってくださいな」
「別に、好きにすれば良いだろ。そんな事、今更僕に、僕なんかに言うなよ……困るだろ」
僕は、顔を左手で覆ってそうほざく。
「ええ、好きにさせて。わたくしの勇者様」
僕は、だから。月を見る。月っぽい天体を観測する。ほんとに、碌でもない。
「もし……、もし……?」
袖を引っ張る傷もなければ汚れもない青白い手、僕は本音と本心から顔面が歪んだ気がしたが。絶妙な、言い方の分からぬ顔であろうに彼女は小首を傾げるばかり。
「……、なんだよ」
「わたくしに……祈り願い、望み欲することはなくて?」
「ねえよ、いや、ないね」
食い気味に否定する。危うく肯定しそうになった。このままでは大学生なる純粋な心が荒むので、気持ちを切り返した。
「勇者様、明日はなにをなさるの?」
「……、魔物討伐とかじゃない? 流れ的に」
「そう」
耳のぱたぱた。御機嫌なのか。どうなんだこれ。
「勇者様は……わたくしとは反するのね」
「……反する……?」
「そう、白い……わたくしに黒い衣。黒い……勇者様に白い衣」
まあ、確かに。アロハシャツの勇者とか嫌だけどさ。
「それより、もう帰った方が良いんじゃないかな」
「そう……。勇者様は……わたくしをもう、名では呼んでくださらないのかしら」
眉間を指で押し、暫し。僕は肩を落とした。
「……、ユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップ……ちゃん。夜も更けて参りました、可憐な乙女に寝不足は敵でありましょう。なんざ着飾っても分からないだろうからさ、早く帰れこのアマって言い直すよ」
しっしっと、手振り。耳はぱたぱたしていた。僅かに口角が上がっている。何故ご機嫌なんだ。
「不敬……ええ、わたくしの勇者様ですもの。また……明日にでも言を交わしましょう?」
「……どうだかな」
ほんとに、どうだかな。部屋からするする出て行く姿を記憶に焼き付けて、僕は後頭部と手首の鈍痛に不思議がりながらベッドに転がった。瞼は重くて、中々眠りに入れなかった。