1話目ってなんでこんな長くなるん?
これから出会う誰もが
理解の及ばぬ異人なら
どんなにいいか
雑踏、雑踏、雑踏。
コンクリートの間隙が足音で埋まる。歩道の限界を試すような人の量に、沿道の喫茶店や露店が殺人的な回転を見せていた。
古風なバロック様式の建物が建ち並ぶ中央通り。街並みを彩る喫茶店の、店先の小階段。その小さなスペースで、喧噪と店に挟まれ、軟禁を余儀なくされている白髪の少年がいる。
少し大きな丸眼鏡をかけ、白髪を後ろで結った少年。あどけなさの残る顔立ちは、齢13,4といったところか。まつ毛、瞳孔までも白い。いわゆる、アルビノ。階段の2段目に立ち、背伸びをしてようやく人ごみのつむじが伺えることから、彼の背はそれほど高くはないようであった。ゆとりのある焦げ茶のサルエルパンツを履き、オーバーサイズの白いダウンボタンシャツをたくし込まずに着崩していることが、より少年の小柄な体躯を強調しているように見える。
少年は、行き交う人々のその特異な出で立ちを興味深そうに眺めていた。目の前を横切る彼らに、一人として容姿の似通った者はいない。当たり前に思うかも知れないが、この街でのその様子は、言葉のソレをはるかに凌駕する。
体格はもちろん、体色、体毛、果ては各器官の数まで、まさに十人十色、種々雑多。道端で平然と翼の毛づくろいをする人間がいるかと思えば、凡そ人とは思えない魑魅魍魎がテラス席でコーヒーを嗜んでいるのが日常である。
いくら多様性の時代とは言え、せめて人の形は保ってほしい。異文化の坩堝、もとい、混沌と化したこの”何でもいる街”で、そのような考えはとうに埃をかぶっていた。
不意に、歩道の群衆がざわついた。見ると、歩道の100m程前方で騒ぎがあったようで、その余波が伝わってきたのだと分かった。ただ問題は、その騒ぎの中心がかなりの勢いでこちらに近づいて来ているということ。
「逆走……?」
命知らずな、と独り言ちる。ただでさえ飽和状態だと言うのに、この流れに逆らおうものなら、たちまち圧し潰されてしまうだろうことは想像に難くない。
が、しかし、そう楽観してもいられなかった。逆走者は人々を蹴散らし、速力を落とすことなく確かに歩道をこちら側へ驀進してきている。巻き込まれて車道側へ転がり出た者の悲鳴に紛れ、逆走者へ向けられた男の罵声が聞こえる。どうやら逆走者は二人いるようだった。逃げる者と、追いかける者。
「待てクソ強盗! 達磨にして下水に流してやる!」
少し階段の上から身を乗り出し覗き見ると、丁度前の逆走者を追う黒スーツで長身の若い男が、恐ろしい形相で罵っているのが見えた。あまりにも口が悪い。鼻筋が通った好青年に見えるが、その凶悪な表情には現状見る影もない。口調も相まってどちらが悪か判断に困る。
二人はすぐ手前まで接近していた。歩道は既に危機を察した者たちが左右に分かれ中央を明け渡しており、逆走者専用のコースが出来上がっている。少年は階段から、それらを俯瞰していた。
スーツの男とは対照的に少年とさほど変わらない体格の強盗は、まともに人相も確認できない速度でそこを駆け抜けると、ふと高く跳躍した。そして、歩道脇に立つ信号機の柱を足蹴に体を急転させ、路地へと文字通り飛び込んでいく。てめぇ、と叫びながら、こちらも猛烈な勢いで後を追う男。
二人が過ぎ去った後、風の揺らめきと共に取り残された通行人達は呆然と立ち尽くした。久方ぶりの静寂。少し経つと、人々はまた安全な喧騒を求め、立ち去っていった。全員の顔に疲弊した表情が垂れ下がっていた事は、言うまでもない。
少年は、信号機を見上げた。少年の背の倍ほどの位置に、黒い足跡と共に凹みが見られた。若干首を傾げている信号機を一瞥し、二人が突っ込んでいった路地につま先を向ける少年。少し深めに呼吸をした少年の脳裏には、先ほど目の前を横切っていった逆走者の顔が鮮明に浮かんでいた。
この街の路地から更に奥に入った路地裏は、10歩も進めば分岐に当たる。そんな入り組みすぎた建造物群が相手では方向感覚など容易く失われ、確かと言えることは、下が地面で上が空という事以外にない。ならば上に――などという考えを普通は起こさないが、この街に生きるものが普通でないのは前述の通りで、まして、強盗に普通も何もあるわけがなかった。
こちらは分岐で急カーブを切る度にレンガやらコンクリートやらに肩パンをもらっているというのに、あちらにはこの二人分ほどしかない路地裏の狭さが都合よく味方をしていた。壁を平然と駆け、薄汚れたパーカーをはためかせる強盗に、大きな舌打ちが出る。
「あー、もう!」
男がおもむろに腕を振り上げた。直後響く、金属を打ち鳴らしたような音。一拍置き、強盗の頭上に影が落ちた。外付けの換気扇である。金具が壊れ、落下してきたのだ。だが、瞬間的に身を翻し、ステップでも踏む様子で直撃を躱す強盗。がっかりする素振りもなくそれを見据えると、男はただ、大きく踏み込んだ。
「まぁそうする、よなっ」
躊躇なく振り切られた右足が、見事なタイミングで落ちてきた換気扇にめり込む。その瞬間、くすんだ白い残像を残し、換気扇が吹き飛んだ。その音に何事かと振り返るが最後、灰色に染まる強盗の視界。
「!?」
意識に火花が散り、明滅する。空中でよろけ、換気扇とともに放物線の終わりを描く強盗。何とか体勢を整えようともがき、換気扇を蹴り飛ばす。半身になってそれを躱し、男が一気に距離を詰めた。這うように四肢を動かし尚も逃げる強盗。が、その失速は火を見るよりも明らかであった。前方に、路地裏に差し込んだ日光が見える。路地裏の終点。この先は開けた空間になっているようだ。
「終わりだこら!」
人だかりに出て先刻のようなことがあっては困る。更に速度を上げた男は、飛び込む形で強盗に腕を伸ばした。それとほぼ同じくして、強盗の手が出口の光にかかる。と、その時である。強盗の上半身が路地裏から出た、その時。
「つかまえた」
横から突如として現れた白髪の少年が、強盗の肩を掴んだ。奇しくも男と同じ、飛び込みの姿勢で。
「え?」
一瞬遅れて、男が間抜けな声とともに路地裏を飛び出す。
「え?」
同じ表情で目をかち合わせる少年と男。急ブレーキがかかった強盗に対し今更止まることは出来ない。男はそのまま、強盗もろとも少年に衝突した。そしてゆっくりと流れる感覚的時間の中、妙な浮遊感に焦燥が沸き立つ。
(地面が――)
場所が開けるどころか、地面そのものが開かれていたのだ。視界が回る中、眼下にいくつかの建物を捉え、ここら一帯が大きく陥没した一つの地区なのだと理解する。
「おおぉおおおぉおぉおお」
雄たけびに似た悲鳴を上げる男。二人を抱えては、自身の天地も正せない。とそこで、幸か不幸か、飛び出した路地裏の直下数メートル。雑居ビルの冷たい屋上が3人を抱き止めんと構えていることに、男はようやく気付いた。
「――っ」
声を上げる間もなく、衝撃が背中を重く打った。不本意ながら庇う形となったことにより二人分の圧にも挟まれ、つぶれた呻き声が漏れる。腹部の圧迫とともに脳裏をよぎる今朝のサンドイッチ。嫌みなほど青い空に、男は悪態を絞り出すしかなかった。
男の上から恐る恐る這い出た少年は立ち上がると、ずり落ちた丸眼鏡を直しながら男を覗き込んだ。
「あ、ありがとうございます……あの、大丈夫ですか」
「……大丈夫なわけあるか、馬鹿が」
いてぇ、と頸椎に残る鈍痛に顔をしかめながら男が上半身を起こす。体質の賜物で、あの高さから落ちても鈍痛で済むのだから、概ね大丈夫ではある。少年は申し訳なさそうに眉を顰めると、軽く頭を下げた。と、はっとした表情で辺りを見渡す男。
「っ、おいあの強盗はっ」
後方のフェンスを登る強盗を男が捉えるまで、数秒もかからなかった。飛び越える体力も枯れたのか、ほとんどしがみつくようによじ登っている。気づくや否や、同じようにフェンスに飛びつき、強引に強盗を引きはがす男。
「逃がすかこの野郎」
組み伏せ、右手首を掴みコンクリートに押し付ける。いつの間にか、鈍い光沢を放つ腕輪が強盗の腕につけられていた。否、腕輪ではない。地面に深々と突き刺さった金属の輪が、その下の鉄筋ごとひったくりの腕を磔にしていたのだ。遅れてそのことに気付き強盗が何事かわめくも、その拘束具からは右腕を締めつける無機質な感触しか返ってこない。
疲労を多分に含んだ溜息を洩らした男は、軽くパーマのかかった黒髪をかき上げ、スーツの汚れを雑に払った。
「爪足族ですね」
「あ?」
横から上がった不意の声に視線を投げると、白髪の少年が強盗の傍に屈み、観察するように手足を眺めていた。
「ほら、爪が若干内側に曲がっていて、鉤になってます。これが目立って部族名になったんですよ。本当は手の平の方が発達してるんですけどね」
少年が暴れる強盗の足先を指で示す。なるほど確かに、強盗の黄ばんだ分厚い爪は、先端が少し湾曲し、鋭く尖った鉤爪のようであった。それに加え、土にまみれていて分かりづらいが、指の腹や掌の各所に、角質に似た硬質な凹凸も見受けられる。これが壁や木を自在に往来する補助をしているのだろう。
「ホントだ、へぇ――じゃねぇんだよ。何なんだお前マジで」
感心した声を上げかけるも、ノリツッコミで軌道を修正する男。少年は男を見上げ、にこやかに答えた。
「さっき中央通りで見かけたので、追いかけて来ました」
「いや、中央通りって……あそこからここまで? お前が?」
「はい」
どれくらい走ったかと思い出そうとするが、路地裏を通ってしまった以上、その目算が狂うことは明白であった。だがしかし、と少年を訝し気に見る男。
(結構走っただろ。それをこのガキが? 俺より早く? なんの目的で? いや、というか……)
そこまで考え、男は唸りながら後頭部を掻いた。元より考え事の類が似合わない性分である。この少年の思惑がなんであれ、男にとってストレスである事には相違なかった。
「やめた。先にとっととコイツをしょっ引いて、それからお前に話を聞くから」
「あ、見てください、これ、珍しい形です」
「話聞けよ」
簡潔に告げつつ少年を見やる。が、そこに既に少年の興味はなく。強盗の手の甲に彫られた紋様を指さす少年に、青筋を浮かべる男。
男はまたため息を吐くと、ポケットから携帯を取り出し、どこかへと電話をかけた。
「勝手なことすんなよ? ったく。――あぁ、ロべ。一応捕まえた。よくわかんねぇのも付いて来たけど。……あぁ。うん。じゃ、それで回収、たの、む……」
男の歯切れが、唐突に悪くなった。見開かれた男の目は、先ほどから妙に大人しくなった強盗の首元を凝視している。パーカーに隠れていて見えなかったが、強盗の首元にもタトゥーがあったのだ。手の甲に刻んだものとは異なる、ムカデを模したデザイン。しかしそれ自体に特に不自然な様子はない。
それが、ひったくりの頭部を浸食するように、蠢いてること以外は。
「あれ、これ」
遅れて気づく少年。明らかな異常に、体が硬直する。と、強盗の顔から急激に血の気が引いたかと思うと、大きくその体がのたうった。大小の痙攣を繰り返し、苦悶の表情を浮かべる強盗。
「ぇ゛え゛ぇえ゛え゛え゛ぇえ゛え゛え゛え゛」
二人が事態を飲み込むより早く、ひったくりは更なる異常をきたした。体をのけ反らせ、舌を突き出し絶叫する強盗のおぞましさに、男が顔を引き攣らせる。
「おい、どうした! おい!」
男が強盗に呼びかける中、少年は、引きずり出されるように飛び出た強盗の舌に、血の滲む模様が、他とは別に刻まれているのを見た。舌根から噴き出る濁った血。絶叫は血にまみれ、排水溝の水音に次第に似ていく。
「まずい」
その”呪い”を、少年は知っていた。
「なっ」
狼狽しつつ強盗の体を抑えていた男は、突然突き飛ばしてきた少年に抗うことができなかった。バランスを崩して数歩後ろへ手をつきながら、疑問の目を投げる。
「なにしや――」
影が差した。強盗の腕が一瞬にして、爆発的に膨れ上がる光景を視界の端が捉える。二の句が継げるはずもなく、次の瞬間、数十倍にまで膨張した巨大な肉塊、もとい、強盗の左腕は、その直径1メートルはあろうかという巨躯を横薙ぎに振るった。野太い風切り音と同時、男の頭上を凄まじい勢いで吹き飛び、数メートル離れた背後のフェンスに叩きつけられる少年。金網が甲高い悲鳴を上げてひしゃげ、何よりも雄弁にその威力を語る。
「おいマジかよ」
男は焦慮の表情で少年の様子を伺った。幸いにもフェンスがクッションとなったか、少年の息はまだあるようだ。あの殴打をもろに貰っている以上、決して無事とは言えないだろうが。
男は立ち上がりつつ、正面へと向き直る。
「ア゛ァア゛あ゛ぁア゛ぁアア゛アぁあ゛」
空を揺るがさんばかりの咆哮を上げ、鉄筋に固定していた右腕の拘束具をそれ諸共引き抜くと、強盗だったナニカもよろめきながら立ち上がった。轟音と共に屋上の一部が崩落する。
もはやソレはヒトなのか。未だ続く膨張に耐え切れず弾け飛ぶ皮膚。止め処なく滴り落ちる変色した血液。そしてその身の憤りを体現するように幾筋も千切れ、また怒張する筋繊維。体格は優に5メートルを越え、肥大した肉に半ばまで取り込まれた頭部は原型を留めず、歪んでいた。
―ちょっとイヴィル? なんかあったのって聞いてるんだけど―
少し尖った女性の声色が、男、イヴィルの携帯から響いた。ネクタイをほどき、目の前の化け物から目をそらさないよう携帯を口の近くまで上げるイヴィル。
「悪い。こりゃ生け捕りは無理だ」
―はぁ?―
ポケットにしまう間も惜しいと、ネクタイと一緒に携帯を放り投げる。背後で女性の戸惑う声が聞こえた気がしたが、全ては後回し。今はこの化け物に集中しなければならない。さもなくば、肉塊になるのはこちらなのだから。
化け物が再び吠え、引き抜いた鉄筋コンクリートをそのままに右腕を振りかぶった。背後へ飛びすさって距離を取るが、激しく撓む右腕に違和感を覚え、咄嗟に身を低く屈めるイヴィル。刹那の後のち、大蛇の如き伸張を見せた右腕は、耳鳴りを覚えるほどの風圧を伴いイヴィルの脳天を掠め、代わりに貯水タンクを直撃した。フルスイングで為す術なく粉砕されたタンクに、思わず自身の脳漿を空目する。形を変え、更に歪にうねる右腕。
(っ、変形できんのか)
イヴィルは剣呑に目を細めると、その瞬間地を蹴り飛ばし、短兵急に疾駆した。低姿勢を保ち、薙がれた腕を搔い潜る。間を持たず、足を掬わんと変形した肉を側宙で飛び越え、化け物に肉薄するイヴィル。しかし、その背後を腕の収縮により飛んできた鉄筋が襲う。小さく舌打ちをしたイヴィルは、紙一重で身を捩らせ回避した。そのすれ違いざま、微かに手元を鈍色に瞬かせて。
「……少なくとも痛覚は死んでるみてぇだな」
悠然と、されど倩らと。先ほどまでの疾走は別人かと見紛う歩調だが、イヴィルの一挙一動に油断はない。
「――?」
その上、血に濡れた両手と、肘より先が失せた化け物の右腕を見れば、その緩慢な歩みにも頷けるというものである。遅れてイヴィルの背後へ落ちる、鉄筋と肉片。それをして、振り上げた自身の腕が切り飛ばされていることをようやく理解する化け物。が、しかし、それはもはや遅すぎた。
「ぁァ゛!?」
化け物の視界に、突然帳が下ろされた。イヴィルの放り投げたスーツのジャケットが、化け物の顔面を覆ったのだ。くぐもった咆哮にこれでもかと憤慨の色が乗る。払い落とすという単純な思考さえ手放し、左腕を闇雲に振り回す化け物。
「うるせぇよ」
イヴィルは再び迫り、化け物の股下に滑り込むことでこれを躱す。それと同時、化け物の足首へ手刀を振りぬいた。直前、イヴィルの両の掌から迸る、鈍色。流線形を描くそれは須臾の間に二振りの刃を象り、そのまま化け物の健を削ぎ飛ばした。即座に体勢を切り返し、膝から崩れ落ちた化け物の背筋を駆け上がるイヴィル。膝立ちでも3メートルはある化け物の頂へ軽々至ると、ほとんど胴体に埋まった後頭部を鷲掴みにし、体重を乗せアスファルトに叩きつけた。
転瞬倏忽。理解を許さず、有無を言わさず、そして無論、容赦なく。イヴィルの掌底から飛び出た細身の刃が、化け物の眉間を貫いた。
間延びした金属音に、場の空気が余計に張り詰める。
「ふぅー……」
しばしの緊張の後、イヴィルは時間をかけて息を吐き、肩を脱力させた。床ごと頭蓋を穿った刃が銀の流体に戻り、イヴィルの手へ滑り込むように吸収されていく。
「一体なんなんだ」
疲労、困惑、緊張。様々なものを胸中で入れ混ぜつつ、体を起こす。
「『呪い』、ですよ。それも、とびきり禁忌の」
イヴィルの背に、少し息の荒い声がかけられた。振り向くと、右の腕と足を引きずって歩いてくる少年が。
「お前っ、そんな状態で動くんじゃねーよ」
「いやぁ、この程度で済んで運が良かったです」
「……」
「それより、僕の眼鏡、知りません?」
あの化け物の拳をまともに食らったのだ。少年が五体満足であることに安堵しつつも、少なくない驚きを覚えるイヴィル。
(運でどうこうなるもんじゃないだろアレは。それになんだ、呪い? こいつ……何を知ってる)
恐らくは木っ端微塵になった眼鏡を求めて目を凝らす少年に、イヴィルは胡乱な目を深めた。
イヴィルが連絡を取った「後処理班」とやらは、しばらくして上空に現れた。
端無く何かの羽ばたきが聞こえたかと見上げると、そこには全長10メートルはあろうかという巨大な赤褐色の爬虫類が。頭の3倍はあるエリマキが特徴的だが、その姿は鱗のない竜と表して差し支えない。それは数度の羽ばたきを挟み、屋上の半分を占めて降り立った。殺し切れなかった衝撃でビル全体が若干揺れた。
竜モドキには4名が同乗しており、全員が顔の隠れる黒い外套を着用していた。着陸するや否や、2人には目もくれず、手際よく血溜まりや損壊部分の検分を始める3人の清掃員。
「なにこれ?」
遅れて竜モドキの背から顔を出した最後の1人が、足元まで覆う外套に空気を孕ませながら、飛び降りた。厚底の白いスニーカーとともに垣間見える、細いふくらはぎ。上下になびく黒味の強い紫紺の髪は、前髪に薄桃色のメッシュが入っており、丱角に結った余りをニ束の三つ編みにして肩に垂らしている。歳はイヴィルと近いように思える。不機嫌そうに細められた二重の丸目や、目尻を尖らせるアイライン、その振る舞いが、どこか猫を彷彿とさせた。
マントに近い外套で隠れてはいるが、そのシルエットは見るからに面倒そうな姿勢を語っている。表情も加味すれば尚更。
「何をしたらこんなエグい現場になるの?」
ため息混じりの女性に、しかめっ面のままイヴィルが答える。
「んなもんこっちが聞きてーよ。てかなんでお前が直接来た? それもペット連れで」
「後ろで意味わかんない叫び声がするし、あなたが遺言残して電話切るしで無茶苦茶だったからでしょ?」
「遺言じゃねーよ勝手に殺すな」
どうやらこの女性は、先刻リューリが電話で話していた”ロべ”という同僚らしい。と、ロべはそこで少年に気づき、首を傾げた。
「なにその子、攫った?」
「なんでそんなナチュラルに言える? 俺を何だと思ってんだ。……そいつ、通りで俺を見かけて追いかけてきたんだと。怪我してるし、関係者として連れてく」
「ふーん」
少し屈んで目線を合わせるが、それほど興味はない様子でイヴィルへ向き直ると、ロべは化け物の残骸を顎でしゃくった。
「アレ回収して一緒に報告って言われてる。ちょっと待って」
「あ? めんどくせーな。さっさと済ませろよ」
「うるさい虫」
「虫?」
ノータイム暴言に追いつけないイヴィルを尻目に、スリットから手を出し肩口にある留め具を外す。外套の前側が大きくはだけ、ロべの四肢が伸びた。肉塊の前に立ち、両腕を広げるロべ。露わになったロべのしなやかな肢体に纏われていたのは、何故か水着の様な衣服のみ。
と、その瞬間である。ロべの顔が、手が、腹が、順々に亀裂を表皮に走らせ砕け散ると同時、その皮下から、余りにもグロテスクな一つの「口」が現れた。他の部位はない。皮膚すらも。その華奢な肉体からして信じがたい量の骨肉が、絡み合い、むきだしの顎と舌尖の体を成し、化け物の体へ食らいついたのだ。その鴻大なるは甚だしく、化け物は一飲みに。残った血だまりも、続く赤黒い舌に一滴残らず舐め取られてしまった。
役目を終え、急速に萎んだ口はロべの腹部へ収まり、散逸した皮膚が逆再生の様に貼り合わされていく。人の形を取り戻したロべは遠慮がちに微かなゲップをすると、おずおずと外套を羽織り直し、2人の元へ戻った。と、一部始終を見ていた少年と目が合い、やや恥ずかしそうにそらしてしまうロべ。
「……あんま、見ないでくれる? 好きでこんな格好してるわけじゃないから……」
「ハッ、誰も興味ね――」
イヴィルの向う脛を蹴り上げたロべの判断の速さは、観客がいたなら喝采が起こったはずだ。悶絶するイヴィルを前に、スニーカーが更に凶器と化す。その傍らで少年は、驚嘆の声を上げた。
「ア、大喰族ですか? 本物?」
「え?」
固まるロべとイヴィルを置き去りに、興味津々といった様子でロべを観察する少年。
「まさか、準少数部族に会えるなんて。すごい、少しも痕がない。露出した部分から『口』を形成してるんですか?」
「な、なに……?」
「あぁ、だからその恰好。効率的ですね」
「いや何も言ってないんだけど……」
「へぇ~なるほど」
「こわい……」
もはや誰と話しているのか。一人で黙々と納得をしていく少年に、ロべは後ずさる。助けを求めて視線を送るが、イヴィルは呆れたように肩を竦めるばかり。日が高く上るなか、我関せずと竜モドキが呑気にあくびをした。
竜モドキ――ロべ曰く、ドドンちゃん――の背に乗り、3人は地上約80メートルを街の中央へ向けて飛行した。仕事が残っている後処理班を現場に置き、先に帰路についたのだ。先頭には、首を撫でながらドドンちゃんを御すロべがいる。
肉体の一部、ないし全てを消化器官として再構築できる特異な部族「大喰族」は、その一部を変質させることによって様々な生き物の音を模倣でき、それを利用してある程度の懐柔が可能なのだと言う。
「賢い子ならコミュニケーションも取れる。ドドンちゃんは賢い」
乗り込む前、ロべが手背に造った口で喉を鳴らしたような音を発し、実際にドドンちゃんをあやして見せると少年は嘆息した。最も、「口」の併用は意識の分離が容易ではなく、ドドンちゃんの馭者をする間会話はできないらしいが。
「そういや名前、聞いてなかったな」
2人の後ろで腰を落ち着けている少年に、イヴィルは肩越しに話しかけた。少年が、ドドンの風を切る音に負けぬよう声を少しだけ張り上げる。
「エスです」
「エスだな? 俺がイヴィル、こいつがロべだ」
「よろしくです」
イヴィルは、エスに気になっていたことを尋ねた。
「お前はその、部族オタクかなんかなのか?」
あの強盗然り、ロべ然り、部族の絡む話にエスはかなりの関心を見せていた。そう思うのも無理はない。しかし、イヴィルの言葉に困ったように笑うエス。
「一応、部族学者です。ぁいや、ちゃんとした学位は取ってないので、正確には部族研究家ですかね?」
「学者ぁ? オタクでいんじゃねーのかそれは。子どもが背伸びしてるみたいにしか見えねぇぞ」
ふと、エスはきょとんとした表情を一瞬浮かべると、「失敬な」と零し眉をひそめた。
「成人してますよ一応」
「!?」
「!?」
直後、荒れ狂うドドン。乱気流に揉まれたかという過激さで、強制ロデオに臨まされる3人。
「おわぁああ何やってんだお前!」
「うるさい! その子が変なこというからでしょー!?」
「乗り手の感情がこんなに伝わるなんてすごいです!」
「お前は黙っとけぇ!」
ドドンにロべの動揺が伝播し、制御が乱れたのだ。首やら背中やらにしがみつきながら騒ぐ3人だが、一番可哀そうなのはドドンであった。
3人と1匹がようやくバランスを取り戻す頃。日は若干傾き、昼過ぎ。郊外と然程変わらない様子だが、街並みに雑多な印象を受けないことが、そこが都市の中核であることを悟らせる。
その一角を担う12階建てのコンドミニアムの11階の窓から、男が上空を見上げた。4,50歳ほどに見えるが、白髪の混じり始めたブロンドの髪を整髪料で丁寧に整え、髭も綺麗に剃られている。ストライプの入った濃紺のジレと、セットアップのスラックスを着こなし、片手で紅茶を持つその姿は、疑うべくもない紳士。
「……新しいものを淹れてくれ」
窓辺に佇む男は肩越しに振り返り、背後へそう言った。男の深い声が、場に不思議なうねりを生む。「かしこまりました」と胸に手を当て、小間使いの若い男が頭を下げた。また窓へ顔を戻す男。見た目の年齢に対し、背筋の揃った姿勢とその所作からくる若々しさは、窓からの逆光も相まって眩いばかりである。
「客人だ」
男は笑みを浮かべ、高度を下げつつある上空の影を見やった。白目のない、その漆の海を湛えたような眼球が、そこに浮かぶ白濁した瞳孔が、男の持つ言い知れぬ異質感を現出していた。
はて
君の隣は
いつから異人でなくなった