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第十六話 朝の風景②

「パパ!」


 ソフィアさんにまとわりついていたリリアが、華やいだ声で振り向く。


「みんな、おはよう」


 やって来たのは、ベーカリー「アトム」の主人ジークさんだ。

 瞬時に怒りの吹き飛んだリリアが、今度はジークさんの足に飛びつく。

 ジークさんは背が高い。

 たぶん二メートル近くはある。

 身長がある分、ややひょろ長い印象を受けるが、彼の身体が鋼のような筋肉で覆われていることを俺はよく知っている。


「おはようございます、ジークさん」

「おはよう、オグマ。今日の調子はどうだい?」

「はい。すこぶるいいです」

「それは良かった」


 ジークさんは俺の向かいの席に座り、ソフィアさんが用意してくれたコーヒーに手を伸ばした。

 パン工房の仕事は朝が早い。

 いつも四時には起き出して作業を始めている。

 俺も早起きは苦手ではないが、さすがに四時起きは辛い。


「あら、そろそろ時間ね。さあ、リリア行くわよ」


 黄色いエプロンを外しながらソフィアさんがリリアに声を掛ける。

 修道院へ行く時間になったようだ。

 リリアは準備していたリュックを背中にからうと、なぜか俺の前に立った。


「……?」


 しばらくの間、両手の人差し指をくっつけていたリリアが、意を決したようにポケットから何かを取り出す。


「これ、オグマお兄ちゃんにプレゼント!」


 その掌に握られていたのは、紐を手首の大きさほどに編んだ輪っかだった。

 ミサンガ。

 確か、そういう名前の手芸品。

 輪っかの表面に小さな翡翠の石が付いている。

 <抱空石> だ。

 リリアがそれを意図して選んだのかは定かではないが、彼女の気遣いが俺には嬉しかった。


 壊れ物を扱うように、そっとリリアの掌からミサンガを受け取る。


「ありがとう、リリア。大事にするよ」


 俺が言うと、リリアは顔を真っ赤にして俯いてしまった。


「良かったわね、リリア。そろそろ出ましょう」

「……えへへ」


 去り際、扉の前で振り向いたリリアが手を振ってくる。


「オグマお兄ちゃんが帰ってくるのを待ってるね!」


 元気一杯の声を残してリリアとソフィアさんは家を出て行った。


「いやはや、父親としては少々複雑な心境でございます。しかも、その相手がオグマ様となると、なおさら」


 二人を見送ったジークさんが突然、口調を鹿爪らしいものに改めた。

 席から立ちあがり、二歩下がる。

 背筋を伸ばし、洗練された所作で左腕を胸の前に添えた。


 その変わり身の鮮やかさに内心で苦笑する。

 何度もやめてくれと懇願しているのだが、二人の時は頑なにその姿勢を止めようとしない。

 ついには俺のほうが根負けして、こちらも昔のような態度で接するようにしている。


「いい子だね、リリアは。ソフィアさんに似て、きっと美人になる」

「恐縮でございます、オグマ様」

「あのさ、せめて様付けはやめてくれないかな。何だか凄く居心地が悪い」

「なりません。私が生涯に忠誠を誓ったのはオグマ様ただ一人にございます」


 どうやら、何を言っても暖簾に腕押しのようだ。

 俺は諦めたように大きく吐息を吐く。


 ジークさんはかつて、マイロード家の筆頭執事を務めていた。

 俺の教育係兼護衛でもあり、俺が家を放逐されてほどなくして、何を思ったのか突然執事の職をあっさり辞めてしまったらしい。


「私の長年の夢であるベーカリーショップを開きたいので」というのが辞職の表向きの理由で、ソフィアさんとリリアを伴ってこの街へと移り住んだ後、実際にベーカリーショップ「アトム」を開いた。

 そして、この街で行く当てもなく途方に暮れていた俺をこの家へと招いてくれたのだった。


「父上と母上――それにオリヴィアは元気にしているか?」


 執事の職を辞したジークさんだが、今でも様々な情報網を維持しているらしく、家の便りはもっぱら彼から仕入れている。


「はい。旦那様も奥方様もお変わりありません。そう言えば、オリヴィア様が先日魔導学院にご入学されたそうです」

「オリヴィアが?」

「はい。何でも入学試験ではトップの成績を取られたそうで」

「……そうか」


 驚きがないと言えば嘘になるが、俺は存外平静だった。

 心のどこかで、いずれこの日が来ることは覚悟していた。

 俺がいなくなった今、マイロード家を継ぐ人間はオリヴィアしかいない。

 叔父の家には子どもがいないため、オリヴィアが文字通りの最後の砦なのだ。


「兄である俺が不甲斐ないばかりに……オリヴィアには辛い思いをさせてしまったな」


 もともと、妹のオリヴィアは心優しく争いごとを嫌う女の子だった。

 兄の俺を慕い、小さい頃は、いつも「兄さま、兄さま」と後をついてきた。

 本当に俺には分不相応な過ぎた妹だった。


 もう、オリヴィアとは三年も会っていない。

 記憶の中で無邪気に笑うオリヴィアと、魔導騎士の姿がどうしても上手く結びつかなかった。


 けれど、人が変わるには三年は決して短い月日ではない。

 本来は、マイロード家の嫡子として俺が果たすべきだった責務をオリヴィアが背負うことになったのだ。

 この三年の間に、彼女が受けたであろう様々な試練を思うだけで息が詰まりそうになる。

 苦しい。


「オグマ様。どうか、気落ちなさらないで下さい。人間、生まれ持った資質は、誰も選ぶことは敵いません。我々は、ただ与えられた運命を受諾し、その生を全うする他ないのです」


 淡々としたジークさんの声に「そうだな」と、俺は力なく呟く。

 確かに、俺が今、どれだけ後悔しても、もはや何の意味もない。

 俺は家を追われ、今やマイロード家とは関係のない人間なのだ。

 オリヴィアの兄でも何でもない。

 ここで安い感傷に浸るのは、ただの自己憐憫に他ならないだろう。


「ありがとう、ジーク。いつも心配をかけてすまない」

「いえ。……オリヴィア様のご様子は私のほうでも気を付けて把握致します。また、何かありましたら即座にお伝え致しますので」

「頼む」

「――それより、今日からファルケンヘ行かれるそうで?」

「ああ。穴掘り屋の仲間に誘われてな。何でも、割のいい遺跡の発掘作業の仕事があるらしい」


 実は今日からタチアナと二人で、新しい発掘現場へ行く予定だった。

 場所は、この街から寄り合い馬車で半日かかる砂の都ファルケンだ。


「そうですか……」


 重々しく頷いて、ジークさんが眉間に皺を寄せる。


「どうかしたか?」

「いえ。ファルケンを治めているのは、獅子王と名高い、辺境伯ルーベンゲルト様。彼の周辺では、最近あまりよくない噂を耳にしております」


 そうなのか。

 マイロード家を出てから、すっかり世事に疎くなってしまっている。

 特に、貴族社会の動静についてはまったく分からない。


「心配はいらないよ、ジーク。俺はただ穴を掘りに行くだけだ。危険はないさ」

「それは分かっておりますが、ゆめゆめ身の安全にはお気を付け下さい」


 今でも昔とまったく変わらずに、俺の身を心配してくれる元執事に「分かった。気を付けるよ」と、俺は軽く片手を上げて応えた。

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