第十五話 朝の風景①
朝――
街の中央に並び立つ、東雲の塔と夕暮れの塔。
毎日、六時と十八時にそれぞれ六回ずつ鐘が鳴らされる。
この街に来て数年が経過したが、俺は今のところ東雲の塔の鐘を聞き逃したことは一度もない。
ベッドで横になったまま鐘の音を聞いていると、控えめに扉がノックされた。
ちょこんと顔を覗かせたのは、ツインテールに髪を結ったまだあどけない少女。
この家の一人娘兼ベーカリー「アトム」の看板娘であるリリアだ。
くりくりした丸い瞳が、なかなかに保護欲を刺激する。
無意識に妹のオリヴィアの顔が脳裏を過った。
「オグマお兄ちゃん、起きた?」
扉の間をすり抜けるようにして入ってきたリリアが、もじもじと身体をくねらせる。
極度に恥ずかしがり屋な彼女は、今でも俺の前では緊張してしまうようだ。
俺はお世辞にも愛想があるほうではないので、リリアもどう接していいのか分からないのだろう。
「ああ。おはよう、リリア」
ベッドに上半身を起こすと、俺はできるだけ笑顔を心掛けて声を返した。
「……おはよう。あっ、朝ご飯ができてるから、一緒に食べよう。待ってるから!」
それだけ言うと、リリアはいそいそと出て行ってしまった。
ぽつんと残された俺は、うーんと腕を組む。
自分では笑ったつもりでいたのだが、どうも上手くいかなかったようだ。
対人スキルが絶望的に低い俺だが、できればリリアとは仲良くしたい。
まるで、オリヴィアに嫌われてしまったようで、俺の心はチクチクと痛む。
「分かった、すぐに行くよ」
今さらそう呟いてみても、もちろんリリアには届かない。
急いで着替えと準備を済ませた俺は、食堂へと足を運んだ。
窓から朝日の差し込むテーブルには、すでにほかほかと湯気を立てる朝食が並んでいた。
ライ麦パンにじゃがいものスープ、それから野菜サラダ。
ありふれた一般家庭の食卓の風景だ。
正直、この家に来た当初は戸惑いを感じていた。
物心ついた頃から、当たり前のように食べていた食事とあまりにも差異があったから。
それでも、俺はもともと贅沢を好むような子どもではなかったので、しばらくして慣れた。
ただ、自分がどれだけ恵まれた環境にいたのかを、嫌というほど思い知らされたが。
「あら、おはよう。オグマ。今日もいい朝ね」
台所で立ち働いていたソフィアさんが、たおやかな笑みで俺を迎えてくれる。
「おはようございます」
俺も挨拶を返し、テーブルの椅子を引いて腰を下ろした。
隣に座っていたリリアが、にぱっと表情を崩す。
ソフィアさんが席に着くのを待ってから、
「いただきます」
三人揃って手を合わせて、まずスープを啜る。
シンプルなじゃがいものポタージュなのだが、まろやかな舌触りのあとに、程よい甘みが広がる。
ソフィアさんは料理がかなり上手い。
これまで、いわゆる母親の味というものを知らなかった俺にとっては、初めての経験だ。
サラダは市場で買ったパプリカとルッコラとトマトを混ぜたもの。
やや酸味のあるドレッシングにとてもよく合う。
そして、パン。
もちろん、ベーカリー「アトム」の主人であるジークさんが作ったものだ。
表面はカリッと焼き上がり、中はふわふわでもちもち。
微かな甘みが鼻の奥に抜けていく。
ほぼ毎日同じメニューなのだが、まったく飽きがこない。
俺は瞬く間に食べ終わってしまう。
「ふふふ。相変わらず、いい食べっぷりね。とっても作り甲斐があるわ」
ソフィアさんが口に手を当てて笑う。
無心でばくばくと食べてしまったが、行儀が悪かっただろうか。
幼少期より礼儀作法については嫌というほど叩き込まれてきたが、最近はそれもおざなりになっている。
隣を見ると、リリアも「オグマお兄ちゃん、小さな子どもみたい」と、クスクスと面白がっている。
こうして、ソフィアさんも一緒だと、リリアは普通に接してくれるのだが。
「オグマの仕事は体が資本だもんね。お代わりはいる?」
「いえ、もう十分です。ごちそうさまでした」
欲を言えば、もう少し食べたいところだが、食客の身とすればここは自重すべきだろう。
毎月、穴掘り屋の仕事で得られた給金から、いくらかをソフィアさんへ渡しているが、俺一人の生活費には全然足りない額だ。
贅沢を言ってはいけない。
少し遅れてリリアとソフィアさんも食べ終わる。
もう少しすれば、リリアは修道院へ行く時間だ。
空になった皿を手際よく片しながら、ソフィアさんが俺に尋ねてきた。
「そう言えば、オグマは今日からファルケンへ行くんだったかしら?」
「はい。しばらくの間、留守にすることになります」
「そう。リリアが寂しがるわね。できるだけ早く帰ってきてね」
言われ、俺は隣で食後のコーヒーを、ふーふーしながら啜っているリリアに目をやった。
ちなみに俺のコーヒーはブラックで、彼女のは砂糖とミルク入りだ。
視線が交わった瞬間、リリアが恥ずかしそうに俯く。
その様子を横目に、
「あらあら、昨日はオグマお兄ちゃんと離れたくないって泣いてたのに」
と、ソフィアさんが微笑んだ。
「ママ!」
リリアが慌てたように声を上げ、椅子から下りてソフィアさんの足元に駆け寄る。
「それは言わないって約束したでしょ!」
ポカポカとソフィアさんのエプロンを叩くリリアは、えらくご立腹だ。
よくは分からないが、少しは俺がいないことを寂しいと思ってくれているようだ。
「あやおや、朝から賑やかだな。どれ、私も混ぜてくれないか」
母と娘の微笑ましい光景を眺めていると、パン工房へと続く扉が開いて、大柄な男が姿を現した。