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月時雨

作者: 北峰希

雨が降り止まない時代がありました。涙を枯らした、空自体をまた化かした、馬鹿馬鹿しいとすら思われることが教科書にのるような時代です。実際、僕の住む町は静かな雨と暗い空、照らされることのない海しか存在しませんでした。


「今晩の天気は時雨、明日は黒雨でしょう」

黒い枠の中では傘を差しながら憂鬱そうに話すキャスターが映ります。寒さが目立つ季節な上に黒雨、要するに普段以上の大雨というわけです。根暗で陰気臭い僕もさらにじめじめとした空気を纏ってしまうでしょう。

 僕自身、客観的にみてみると「薄っぺらい人間」といえます。空気を読んでばかりで、周りが白色を黒色と言えば迷わず僕も黒だというようなにんげんなのです。元々はこんな人ではなく物事をはっきりというようなにんげんだったような気がしていますが、気がしているだけでそうではないのかもしれません。劣等感とはみ出すことへの恐怖と「同じ」ということへの安心感でできているような人間であります。

 そんな僕が唯一頬をほころばせるのは、海辺の散歩なのです。雨に打たれる海は光がごく微量ながらも反射をしながら、水面を揺らし、波を作ってゆきます。世間では可笑しいといわれる行為もこれだけは止められないのでした。何とも言えない魅力があり、東屋で寒さに刺されながら水を追うだけで胸が締め付けられるように笑えました。しかしその寒さも程よければいいものの、黒雨であれば凍り付くくらいの体温になることは容易に想像できました。

「明日行くことが困難になるのであれば、今晩の間に行けばいいではありませんか」

そんな名案をふと思い付きます。善は急げ、です。ショルダーバッグに荷物をつめて、無難な色の傘を手に海に向かいました。

 外はいつでも暗闇で、街灯が町にあふれています。しかし表情が隠れないほどの照明に僕はいまいちありがたいとは思えません。少し堪えて海まで来てしまえば照明なんてものはなくなり再び闇に戻ります。いつも通り町を背にして放浪する如く歩き、隅にある東屋で腰を下ろせば表情筋が米粒程度しかない僕も頬をゆるませました。今晩の海も変わらず、闇の中にある光で海がころころと表情を変えていくようです。


「なにがそんなに面白いんだい」

幾ばくかして、不意に声がしました。聞いたことのないような透き通った声で、視界が悪い中その主を視界にとらえると驚きました。海に近しい肌の色と4倍近くも数が多い足、聴覚と視覚が同じ人物であると理解するのにじかんがかかりました。

「なあ、そこの兄さん。いったい何が面白いのか教えてちょうだいよ」

僕の驚きなんて知る由もなく彼女は僕に話しかけ続けます。おびえながら僕は答えました。「水が綺麗なんです」

「水は水だろう。海でも雨でも、それこそ世間じゃ蛇口をひねればでるというじゃないか。手をちょちょいと動かせばあっという間にでるというのに何を見ているんだい」

これだから、と僕は心の中で悪態をつきます。何故見知らぬ彼女に一言でも話してしまったのでしょうか。可笑しいといわれるくらいなら平気に嘘をつけるはずなのに、嗤われる道を選んでしまったと後悔しつつ口をつぐみます。それでも彼女はまだ話を続けました。

「もし、月明かりがあれば今以上に美しいと兄さんは言うのかい。ただの水なのに」

ええ勿論、心の中で答えます。

 海と雨へのこだわりはいつから、と問われれば僕はすぐに「雨が降り続けるようになった前の晩」だと答えます。あの晩はとても不思議なことばかりでした。声が震えながらでも発言したことを馬鹿にされ凹みながら帰宅しているとき、帰路途中にある海に思わず目を奪われたのです。空と海の境が分からないくらい反射し、ひとつの別世界を作り上げていたのです。月も星も出ているのに空からは雨が降り注ぎ、互いが互いの世界に干渉していきます。それを見た途端、なんだか分からない涙がぼろぼろあふれて止まなくなりました。最早涙か雨なのか判断もつかず、ただ胸がつまって苦しいということしか思い出せません。


「自分が好きだというものを好きだと言えない世界なら消してしまえよ、お月さん。どうして貴方ばかり幸せそうな世界を作り上げているのですか。恨めしい、羨ましい。僕をその空まで連れて行きなさい、海面に広がるその奥に連れて行きなさい。出来ないのならこんなきれいな光景を僕に見せないでください。消してしまえ、お願いだから消えてしまえよ。」


思わずそう叫んで泣き崩れていました。そして気づけばこの雨ばかりの日々が始まりまったのです。だから月明かりが出たとするならば、またあの美しい世界が見れるということでしょう。

「空に行けなくても海のまた奥に行けるとしたら、貴方は迷わず向かうのかな」

現実離れした彼女は阿呆な事を僕に言いました。もしかすると独り言だったのかもしれません。けれどその一言で、彼女もあの世界を見て震えた一人だと思えてしまったのです。たまらず言葉を返しました。

「行けるのならどんな手を使っても」

「そうかい」

「ええ」

「行きたいのなら目を瞑りながら水を飲めばいい。黒雨はすぐそこだ、行くなら今晩のうちにすませてしまいな」

 そういって彼女は雨に溶けて流れていきました。嘘のような話だと思いましたが構いませんでした。濡れることも気にせず海に駆け寄り海水をすくいます。これさえ飲めば、塩気に怯えながら一思いに口にしました。不思議と塩辛くなく炭酸水を飲んだようでした。目を開けば光の筋が眩しく揺れるだけで、どんどん暗闇のほうへ沈んでゆきます。それでも彼は微笑んでいました。


 一人の男が魔女に化かされて消えたというお伽噺。男に魔法の水を飲ませることで彼の人間の姿を奪い、海底に閉じ込めてしまう悲劇として語られています。

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