その後の『舞姫』
『舞姫』を読んでエリスに同情する読者はいても、豊太郎を擁護する読者というのはあまり聞いたことがない。それどころか「豊太郎地獄行き編」と題した続編を勝手に創作した知り合いもいる。
しかし、自分から見た登場人物の批評をするのはありきたりなので、私は物語終了後に生まれるであろう豊太郎とエリスの子どもになりきって、作品を語りたい。
物語の中でエリスが精神を病んだため、子どもは祖母にあたるエリスの母親に育てられるのではないかと思う。
彼女は夫の葬儀代を豊太郎に工面してもらってから彼に尽くしていたが、あのような形で帰国してからも好印象を抱き続けるとは考えにくい。
もしかしたら、孫に豊太郎の話をしないかもしれない。
ベルリンの下町を離れるなら話は別だが、同じ町に住み続けるとしたら近隣住民から自然と父親の噂が耳に入るだろう。
──日本人の官吏で、のちに新聞社の通信員をしていたが、帰国した。──
近隣の人は真相など知るはずもないのだから、父親は妊娠中の母親を捨てたと子どもに吹き込むだろう。
彼(もしくは彼女)の中に、豊太郎への複雑な感情が沸き上がるはずだ。
一目会いたいと思う反面、自分たちを置いて帰国したことや、エリスを精神的に殺したことに対して憎悪の念を抱くに違いない。
帰国の件を直接エリスに伝えることすらできなかった豊太郎のことなので、政府内で出世して再びベルリンの土を踏むことになった時に、合わせる顔が無いと言ってエリスの消息を捜したくても捜せず、悶々とする姿しか想像できない。
親子の対面を実現させるためには、豊太郎とエリスの子の行動力に懸けるよりほかないのだ。
まず、エリスもしくは母(祖母)が子に「太田豊太郎」という名を伝えることが前提となる。
次に両者の接触方法だが、これは大きく二通りに分かれる。
一つ目は、子どもが来日するという方法だ。
豊太郎の意思にかかわりなく彼を捜し出すことができるという利点がある反面、作中でエリスが心配していた通り交通費の問題が降りかかってくる。
エリスの家──ワイゲルト家にどれほどの収入があるのか、推測は難しいが、豊太郎が残した手切れ金以外の収入が無いかもしれない。
そうすると、子どもは生きていくだけでも大変で、ろくな教育を受けられず、賃金の高い仕事にありつくこともできないだろう。
そこで、二つ目の方法だ。
天方伯の随員として帰国した豊太郎は、元の某省(※1)に戻る道と、豊かすぎるといっても過言でない海外経験を生かして外務省に出仕するという道がある。
ここでは、仮に後者としよう。
学歴からいえば高文の外交科(※2)をパスしてエリート街道を走っていても問題ないが、豊太郎は最初の出仕の際に高文の行政科を受けているはずなので(※3)、外務書記生として採用されたことにする。
そうして、どこかの公使館(※4)に配属され、数ヶ国を回るだろう。
月日が過ぎ、彼にベルリンへの駐在を命じられる日がやってくる。
エリスの記憶が甦っても、豊太郎の性格からして拒否して免官になることはできないだろう。
こうして渋々渡ったベルリンの地で、あの時のエリスの子が自分の名前を頼りに父親捜しをしているという噂を耳に入れたら──。
その先のことは、私には見当がつかない。
エリスとの別離の際にいた良友・相沢謙吉が再び取りなしてくれるかもしれないし、第二の「相沢」と呼ぶべき存在が現れるかもしれないし、今度こそは豊太郎自身が道を切り開くかもしれない。
どのような経緯を辿っても、それが豊太郎と、二人の子どもにとって最良の結果となるだろう。
いつか、二人が対面する小説を読んでみたい、と切に願っている。
※1……豊太郎の最初の出仕先は、司法省説と内務省説がある
※2……正式名称は「外交官及領事官試験」
※3……文官高等試験は明治27年開始であるが、作中での豊太郎の帰国は明治22年上旬と思われる
※4……在外公館が大使館に格上げされたのは明治30年代以降のことである