イルヴェンヌ駆け上がり日記
桜の花びらが散っている。
そして地面にもたくさん落ちている。
散る花びらは綺麗だけれど、地面に落ちた花びらはもう綺麗に散ることはできない。
「セーアラっ!なにぼーっとしてんの?」
「シノっち~!びっくりさせないで~」
シノっちも私も、手には卒業証書を持っていた。
そう、今日は私立ミネルヴァ学園高等部の卒業式。
「卒業しちゃったね、セアラ」
「そうだね~シノっち」
「セアラはさ、卒業後の進路とか決まってるの?」
う……。決まってるといえば決まってるけど、シノっちがいくら一番の友達とはいえ、シノっちには絶対言えない。
「とりあえず働くよ~。うち、貧乏だし」
「働くならギルドよね?もう決まってるの?」
「あの……シノっち。ギルドじゃなくて、別の仕事」
「あら、そうだったの!ごめんなさい。もしギルドが決まってないなら、うちに入ってくれないかな、なんて……」
シノっちは卒業後、彼氏のカスミと二人でギルド経営をすることが決まっていた。
「お誘い嬉しいわ。気持ちだけ受け取っておく」
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「志望動機は?」
「起業がしたいんです。その資金の為です」
「なぜうちを選んだのかね?」
「それは皆様知っての通り、この『イルヴェンヌ娼館』はここアミュラス娼館街でもナンバーワンの人気を誇る、伝統ある娼館だからに決まっています!」
「娼婦の経験は?」
「完全未経験です」
「住み込みで働いてくれるんだったね?」
「はい。勿論です」
「よし、採用だ。まずは最初の一ヶ月、清掃嬢として在籍の娼婦の部屋を掃除したり、身の回りの世話をしてもらう。それでイルヴェンヌの全体図を知りなさい」
「は、はい!ありがとうございます……!」
あっさりと採用されてしまい、私は呆気にとられていた。そう、私セアラは、高校を出たらこのアミュラス娼館街で働くと決めていた。それは夢の為。モデルの事務所を、起業するため……!そして一番有名な娼館、イルヴェンヌ娼館の面接になんと通ってしまった。
「それで、源氏名を決めよう」
「源氏名……?」
「イルヴェンヌで使う名前のことだ。源氏名が決まったら、元の名前は忘れたと思いなさい」
「は、はい……」
そう言ってイルヴェンヌの社長は何やら名前帳のようなものを開いてページをめくり始める。おそらくだが、在籍娼婦の情報が載っているものであった。
「……ジュリエッタ」
「え?」
「君の名前だよ。最上級の名前だ。ジュリエッタ。これから稼ぐんだろう?頑張ってくれたまえ」
「は、はい……!ありがとうございます!」
──こうして私は、〝 イルヴェンヌのジュリエッタ〟となったのである。
「ではまず、寝泊まりする部屋を案内するわ。私はオリヴィア。引退した娼婦で、今はイルヴェンヌの全事務を取り仕切っているわ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします!ジュリエッタです!」
オリヴィアと名乗る女性は話し方からして中年程度だったが、見た目はとてもそうとは思えないほど綺麗だ。流石は元娼婦……。
「えーっと、ここね。荷物を置いていらっしゃい。……あー。運が悪いといえばいいのか……。うーん……。あ、部屋は相部屋なんだけどね。二人一部屋」
オリヴィアさんが部屋のドアを開けると、そこには黒髪ショートの美女が煙草を吸っていた。
「あー。マリアンヌ?撮影終わり?ごめんね。機嫌悪いときに。この子、新人のジュリエッタ。相部屋になるから、よろしくね」
マリアンヌと呼ばれた女性は、完全無視──。
しかし、私は見たことがある。彼女はそう、有名なポルノ女優だった。大人っぽい色気と、煙草を吸うアンニュイな雰囲気に私は吸い寄せられて、見蕩れてしまっていた。
「ジュリエッタ!さっさと荷物を置いてこっちにいらっしゃい。清掃嬢用の制服を選ぶわよ」
「あ……は、はい!すみません!」
「……ジュリエッタは案外背が高いのね。スタイルも抜群。モデル体型というやつかしら……」
「あ、ありがとうございます……」
「ありがとうございんす」
「え?」
「アミュラス言葉よ。目上の清掃嬢、娼婦、そしてお客様には必ずアミュラス言葉を使って話すこと。少しずつ教えていくから。はい、『分かりんした』」
「わ、分かりんした……」
清掃嬢用の制服、というのはメイド服のようなものであった。私はオリヴィアさんから、濃紺色の制服を指定され、その場で着替えると、仕事の説明をされた。
「清掃嬢の期間。基本的に一ヶ月は時給制よ。一ヶ月の間に、頑張りによって社長に認められる、またはお客様に見初められれば、その時点で一ヶ月経っていなくても娼婦に格上げ。システムは理解できた?」
「は、はい……!分かりん……した……」
「そうそう。アミュラス言葉もその調子よ」
仕事は即実践だった。まずは、オリヴィアさんと一緒に仕事が終わった娼婦の部屋をノックする。
「し、失礼致しんす……せ、清掃にあがりんした……」
「はい、どうぞ」
中から娼婦の声が聞こえる。ドアを開けると今先程まで仕事をしていたとは思えないくらい美しい美女がいた。
「あら、オリヴィアさん。新入りの娘?」
「そうよ。エミリーお疲れ様。……ジュリエッタ、挨拶を」
「は!はい!……ジュリエッタでありんす」
すると美女は微笑んで
「ジュリエッタね。いい名前を貰ったわね。私はエミリーよ。よろしくね。頑張ってね」
と言ってくれた。
「あ、ありがとうございんす……!」
「じゃ、私は部屋に戻るから後はよろしく~」
優しい娼婦さんだった……。あんなにフワフワした人もいるんだ……。
初日はオリヴィアさんに仕事の流れ、主に仕事部屋の清掃、廊下の清掃、フロントの清掃、食堂の清掃を教えて貰い、一日が終わった。
私は食堂に腰を下ろす。食堂はバイキング形式で、娼婦は気に入った清掃嬢や格下の娼婦に食事を部屋まで運ばせることもできるらしい。
私は幸い……と言ってもいいのか、今日は声を掛けられなかった。と思っていたそのときだった。
「あら、ジュリエッタじゃないの。お疲れ様!」
「あ……!エミリーさん……!」
「私今日部屋でご飯が食べたいの。ヘルシーな感じで。ジュリエッタお願いね!」
「え……」
「うん?言うことが聞けないの?」
「い、いえ……分かりんした」
嘘……でしょ……。
エミリーさんが、こんなこと言うの?!
「……エミリー様、新入りいびりで有名な低級娼婦だよ。頑張ってね~」
エミリーさんが去った後、目の前に座っていた同い歳くらいの清掃嬢が言った。
「嘘……でしょ……」
もしかして、オリヴィアさんもそれを知っていて私をエミリーさんの部屋に入れたの……?何もかもが怖い。覚悟はしていたものの、私は女社会の怖さを実感してしまった。
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「た、ただいま戻りんした……」
「はいよ」
ガチャリ、とドアを開けるとそこには相部屋のマリアンヌさん、一日働いて分かったが、イルヴェンヌは、このマリアンヌさんがナンバーワンだった。こわい。またいびられるのだろうか。
「何ビクビクしてんだよ。座れよ」
「……は、はい。ありがとうございんす」
「アミュラス言葉もぎこちねぇな。ところで、エミリーに目つけられたみたいじゃねえか」
「う……あ、それは……」
「相当酷かったんだな!ハハッ……アイツも自分が売れねえからってよお。酷いことするぜ」
……私は何も言えなくなってしまう。マリアンヌさんもきっと何か考えてるんだ。私を陥れようと。
「ま、アタシからちょっと言っといたから、明日からは今日みたいなことねぇと思うけどな」
「え?! 」
「ここのナンバーワンと相部屋になったんだ!お前は!エミリーみたいな低級娼婦にいじめられてんじゃねえぞ!」
……突然怒鳴られて、もちろん怖かった。だがこれは優しさだと、私は同時に思った。
「……綺麗な顔してんだからよお」
突然、マリアンヌさんが近づいてきて私の顎を持つ。
何が起こったのか、分からなかった。
「あんたはすぐ客をとる(娼婦になる)だろうね。ジュリエッタなんて名前贅沢だぜ?」
「は……はい。お、お好きに呼んでくだせぇ」
「ジュリー」
「……え?」
「あんたが好きに呼べって言ったんだろ?アタシはジュリーって呼ぶ」
「あ、ありがとうございんす……」
イルヴェンヌでの生活初日、私は一睡もできなかった。
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イルヴェンヌで清掃嬢として働き始めて一週間。
清掃嬢としての仕事も慣れてきた頃、私は支配人に呼び出された。
「ジュリエッタ。お客様からご指名だ。よかったな。今から接客をしてもらうぞ」
「──え?! 」
それは仕事の途中、突然の出来事であった。
「仕事の流れは分かるな?」
オリヴィアさんから仕事の流れは講習を受けていた。
「は、はい……」
「くれぐれも失礼のないように。頼んだぞ」
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「……どうぞ、お入りくんなまし」
一体どんな人が、清掃嬢の私を指名して……?
私は三つ指をついてドアの前に頭を下げる。
ガチャリ、とドアが開いた。
「……頭を上げてください」
もごもごとした声が聞こえる。私は頭を上げた。
「ようこそ、いらっしゃいんした」
相手は、小太りの三十代ほどの男だった。丸い眼鏡をかけている。
「ご指名ありがとうございんす。ジュリエッタと申しんす」
「ボクが初めての客なんだよね?」
「……は、はい。初めてでありんすぇ」
すると小太りの男は嬉しそうに微笑んだ。
「ボク、清掃嬢の水揚げしかしてないんだ!」
「は、はあ……ありがとうございんす……」
「緊張しなくていいからね。リラックスリラックス」
小太りの男は、客目線でのいろいろなアドバイスをくれた。洗体の仕方や、振る舞い、プレイ(性行為)に関しても。
「……時間だな。ジュリエッタ、すごく良かったよ。これから頑張って駆け上がってね。夢もあるんだし」
「ありがとうございんす。お名前を教えてくんなまし?」
「ボクは名乗らないよ。もう会うことはないだろうからね。それじゃ」
そう言って、小太りの男は帰っていってしまった。
「失礼致しんす。清掃に上がりんした」
清掃嬢だ。つい先程まで、私もあちら側だったのに──。
「ど、どうぞお入りください」
アミュラス言葉は、ここでは使ってはいけない。
ガチャリとドアが開くと、そこにはエミリーさんが新人いびりで有名だと教えてくれた、同い歳くらいの清掃嬢がいた。
「娼婦デビューおめでとう。貴方もこれからいろんな男に股を開くのね。汚らわしい──」
「……え」
「何でもないでありんすぇ。お疲れ様でありんした」
「お、お疲れ様です……」
私はそのまま部屋を出て、支配人室へ向かった。そうするように言われていたからだ。
「ジュリエッタ。お疲れ様。そして、娼婦デビューおめでとう。これからは、時給制ではなく歩合で働いてもらう。宣材写真を撮るから、奥の部屋へ来てくれ」
私は社長に言われるがままに奥の部屋へ向かうと、そこは全面真っ白の撮影スタジオとなっていた。
「カメラマンのバイアスです。ジュリエッタ様、力を抜いてその椅子に腰掛けてください」
椅子に腰掛けると、様々なポーズでの撮影が始まった。
「お疲れ様です。ジュリエッタ様。撮影は終わりとなります」
「ありがとうございんした」
「支配人がお呼びですので」
「はい……」
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支配人室へ戻ると、社長から「今日はもう上がっていい」と言われたので、私はマリアンヌさんとの相部屋へ戻った。マリアンヌさんは不在だ。
「はあ。いよいよだな……」
清掃嬢のときの給料は、私が高校生の頃スーパーでアルバイトしていたとき並だった。でもこれからは、違う。私は絶対に──駆け上がってみせる。エミリーさんは勿論、マリアンヌさんにだって負けない。
清掃嬢のあの娘は、身寄りが無く、親戚に売られてきた娘だということをその日にマリアンヌさんから聞いた。だから、娼婦のことを汚らわしいと言っていたのね──。でも、同情なんてしていられない。私には私の目的があるのだから。ここでは非情にならないと、駆け上がっていくことはできない。お金を稼ぐことはできない。ふわふわと流されるままに生きてきた私だけれど、もう覚悟は決まった。
──このイルヴェンヌ、私は絶対に駆け上がってみせる。
おわり