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物語部員の嘘とその真実(夏休みの火曜日の午後、物語部員が巻き込まれた惨劇について)  作者: るきのまき
午後1時30分~40分 こわい話をする物語部員たち
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7話 その前に『七人の侍』の冒頭の場面を話してくれませんか

「その前に『七人の侍』の冒頭の場面を話してくれませんか」と、おれは言ったので、年野夜見さんは話しはじめた。


『空は低く、濃い灰色の雲が広がり、かすかなすきまから太陽が光っている。大地は黒く、背の低い草がまばらに生えている。その雲と大地の間の明るいところに、蹄の音を轟かせながら、駆け上るようにして、馬に乗った野武士の集団が姿をあらわす。蹄の音と集団は手前に近づき、先頭の馬に乗った人物が、やや下り気味に左から右へ動くと同時に、カメラはその人物を追ってフォロー・パンするが、すぐに後続の集団に追い越されて、カメラは特定の人物を追うことをやめる。大地の黒の中と馬の足・胴体が一体になり、闇色の霧のように弾みながら集団は進む。

 さまざまな黒い樹木を背景に、黒い野武士のひとりがやや上り気味に、ほぼ山道である丘を疾走する。その速さについていけないかのように、カメラはゆっくりとフォロー・パンをやめ、消えつつある雲と広がりつつある青空を背景に、後続の馬と野武士が写される。太陽の光を受けて輝く雲が強調される。

 丘を上る野武士の集団は果てしなく、馬の背に乗る者はさまざまな武具を身につけていることが影として示される。野武士は見ている者に不吉さを感じさせる自由と、誰かを傷つけずにはおかないほどの力に満ちている。

 その目的や、目指す場所は不明だが、野武士たちの馬の群れは横に長く広がり、蹄の音は重なり合って、一定のリズムで上下する人馬は、乗る者・見ている者のどちらにも何らかの楽しさを感じさせた。人が制御できる、楽しめる、多分そのぎりぎりの強さを馬は持っていた。やや遠くの木々はまばらであることを諦めたかのようにそびえ、太陽の光は強くなりつつありながら拡散している。夜明けだった。

 野武士は幅の広い、両側には雑木とも背の高い草とも思える道に出る。その場面では、人馬は手前から奥へ走るため野武士の背中が見え、今まで横向きに少し上から下へ、そしてまた上へ、さらに横長へと走る形で野武士を捉えていたカメラは、ここでまた別の意味を持つ。馬に乗って奥のほうへ走る集団を、固定したカメラで撮ると、違う広がりが見えるようになる。

 生い茂った草の間を、野武士は走る。草を通して漠然と、ゆっくりと動いていたカメラは、白い服をまとった二人の男が乗っている二頭の馬の動きに同調する。その男の馬は手前を走る馬に追いつき、軽々と追い越す。そのような動きをするカメラは、走る馬を見ている人間の目のように、あるいは競馬中継をしているカメラマンのように、不自然さを感じさせない。つまり、人の目の動きを研究し、意識したカメラワークになっている。

 ここでは、追い越した人馬をワイプで切るような感じで、一本の大きな木が手前に写り、その木が写る前の疾走感と、あれっ、追い越してるよね、と、カットが変わったように心理的に思わせる偶然が絶妙のタイミングで流れる。あまりにもうまいこといってるので、そこは映画的すぎる表現にも感じられる。

 前のカットがうまくいきすぎたのか、次の場面はオーソドックスなフェードでつながり、山の上の、村落が広がる見晴らしのよいところに、野武士と馬が背を見せながら集まる。背負う荷物や具足などの野武士らしい格好、めいめいが乗っている馬などはここではっきりと見える。

 馬はいななき、右側にいる兜をかぶって右目に眼帯をした男、つまり副頭目は左側の、頭目と思われる男に顔を向けるので、映画を見ている人間にもその顔がわかる。「やるかあ」「この村も」と、手にした槍のようなもので下を示して副頭目は言う。

 村の俯瞰では、いくつかの家から、かまどからと思われる煙が立ち、朝食の支度が進んでいると知れる。画面に写らない野武士たちは口々に、副頭目に同意する叫びのような声を上げる。平穏な村の風景は遠景の映像だけで示され、不穏な野武士の叫びは音声だけで示される。

 ここではじめて頭目の顔が写る。野武士としての経験を感じさせる、口ひげをはやした年配の男で、かつては歴戦の勇士・武将であっただろう。頭目は落ち着きがない馬の手綱を引きながら「待て待て」と一同に言う。「去年の秋、米をかっさらったばかりだ」と、ここで馬がヒヒーンといななく。「今行っても」で、馬とそれに乗る頭目が時計回りにぐるっと回る。これこれ、こういう場面が見たかったんですよ、と年野夜見は思う。「何もあるめえ」で、そこまで右上を向いて話していた、つまりカメラがやや下から撮っていた頭目が、右側を見て話す。わずかな角度の違いだけど、頭目の心理がわかる。命令と自制の気持ちの切り替えだ。』


 と、ここまで、年野夜見さんは映画では1分ぐらいのところを1分20秒ぐらいで語った。映画のタイトル・クレジット・字で示される時代背景が終わって、映画がはじまる2分38秒ぐらいのところから3分38秒ぐらいのところまでですね。

 だいたい年野夜見さんは、映画の話をきっちり、2時間の映画なら2時間で話すことができる。やろうと思えば30分で、何も省略しないで話せる、と年野夜見さんは言うが、ちなみにそんなのできるのは100本ぐらいかな、だそうである。落語家だってネタをそれだけ持ってればたいしたものだ。

「映画に必要なのは陰影と奥行きと角度と音。物語にそれらを添付することで映画になる、と年野夜見は言った」と、年野夜見さんは言った。あ、年野夜見さんの場合は、「と、言った」っていうのいらないな。

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