65話 これは確かに、夏目漱石が『吾輩は猫である』で語った「首くくりの松」だよ
茶道化学部の部室兼茶室の南側、弓道将棋部の練習場の北側には、竹林と松の木と庭があり、そこの箇所はいつもはとても学校の中とは思えない風雅な趣があった。霞のような、靄のようなものが漂っている現在、そこに見えるのは曖昧な松の木と曖昧なその奇妙な果実だった。
「これは確かに、夏目漱石が『吾輩は猫である』で語った「首くくりの松」だよ。枝ぶりに惹かれた醍醐くんが、ふらふらっと首吊ってみちゃったんだ」と、樋浦清は言った。
「言われてみると確かにそうだけど、おれとしてはハムレットが父王の亡霊を古城で見せられた故事になぞらえたいね。つまり、ハムレットは見たんじゃなくて見せられたと………………」
おれの話の途中で、建物の出入口をどんどんと叩く音がする。その音はだんだん大きくなってきた。さて、おれは出入口の鍵をかけたかどうか思い出せない。どんどん、の音には心に滲みる一定のリズムがあって、無法松が言うところの蛙打ちだね。ゲロゲロ、で間があって、またゲロゲロ。
怯えすぎている清を後ろに回して、おれはこっそり戸のほうに近づいた。
どんどん、間、どんどん、の、間のところで、おれは引き戸を横に引いたもんだから(まあ、ああいうものは滅多に縦には引けない)、次のどんどん、で、うまく叩けなかった叩き主は、建物の中へすっ転びながら一回転して、おれのほうに向かった。なんでそこで清を襲わないのか。
怪人は黒い布の目出し袋をかぶって、メイドのような格好をしていた。そのコスプレは魔法少女と同じくどう考えても受け狙いだろうが、これがひょっとしたら逃走した連続殺人犯。囚人や病人や作家のような格好で豪雨の中をうろつき回ったから、いちばん連続殺人犯に見えない格好を、剣道演劇部あたりから調達してきたんだろうか………とおれが考えるとでも思ったのか。
メイド服のバリエーションはいろいろあるが、動きやすくて地味で、汚れが目立たないことが基本である。おれは畳の上にあがって、じりじりとその怪人に迫り、一本背負いを仕掛けるが、服の裾をもたれてひっくり返った。
大机に押し倒されて首を締めつける怪人に気が遠くなりながら、なにかないかと思ったら、バールのような鈍器が手に触れたので、それで一発殴ったけど、小悪党ならそれで気絶しておしまいになるところを、そいつはすこし痛がっただけだったから、おれは手に持ったバールのようなものと畳の床とおれの体でぐいぐい首を押さえたら、そいつはかなり苦しんだけど、もがいているうちにヘアスプレーの缶が見つかったらしく、咳き込むスプレーをおれに向けてかけたので、おれは思わず手を離して、お互いはあはあしながら向き合っていろいろ考えた。
これは………先に仕掛けたほうがひどい目に合うパターンだ。
おれは、そいつの手に蹴りを入れて、ヘアスプレーの缶を自分のものにすると、台所のガスコンロに火をつけてそれを噴射したら、簡易火炎放射器として壁から、さらに天井まで火がまたたく間に広がった。
置いてあった消火器で、なんとか火を消そうとする怪人からそれを奪い取って、火じゃなくてそいつにかけると、さすがに真っ白になってくらくらしてるところを、消火器で後頭部を殴ったらさすがに気絶したので、おれは竜頭を引っ張ると丈夫な細いワイヤーが出てくる腕時計を使って、そいつを床柱にぐるぐる巻きにして燃え盛る建物から清と一緒に庭に走り出た。
木と土と紙でできた建物はどんどん燃え、化学的な何か置かれてあったもののせいで派手な爆発まで起きた。
おれは、清の肩を抱きながら、火の海に消えた哀れな連続殺人犯の最期を看取った。
*
というのは嘘である。
どこまでが本当かというと、『おれは畳の上にあがって』の手前までは本当。
おれはただ、ひっくり返った目出し袋でメイド服の怪人にこう言っただけだった。
「なんだよー、驚かせすぎだろ、市川」




