64話 人生をセーヌ川とするなら、パリは青春の輝かしい黄金時代だ
おれは、この物語をくだらないものにしたがっている作者の欲望と戦いたい。青春を回顧して美しいものと見るのは、普通の感性と感傷じゃないんですかね普通。
人生をセーヌ川とするなら、パリは青春の輝かしい黄金時代だ。そして全長780キロのその川は、パリを抜けても延々と蛇行しながら続く。アポリネールはローランサンとの恋人だったとき、ミラボー橋で会って、川がパリから離れるのを見ていた。そしてアポれネールは歳月と永遠について、淡い人の心について感傷的な詩を残してシャンソンになった。
アポリネールの時代、ミラボー橋はセーヌ川にかかっていたどうということのない橋だったが、そこを最後に川はパリ市内ではなくなるのだった。言ってみれば青春の卒業記念橋みたいなもんだ。
忘却と非忘却の誓いをするにはうってつけの橋だろう。
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おれは茶道化学部の部室兼茶室の隅にあるがらくた置き場から(物語部ほどではないが、やはり何でもある)未使用のバスタオルを取って、顔と髪の毛が濡れている以外は(おれが水をかけたせいなんだけど)特に服の乱れなどもない物語部一年生の女子・樋浦清と会話をした。
部室兼茶室の、冷蔵庫の裏にはちゃんと水道の蛇口があり、プラスチックのコップなどもいくつか置かれていたので、あとで洗うの面倒くさいなあ、と思いながら、おれと清の、二人分の普通の水を入れた。
清は、おれが渡したコップを慎重に見たあげく、なんか同じ気がするけど、念のため、と言って、おれのコップと取り替えさせられた。
「この水、新しい?」と、清はおれに聞いたけど、目の前で入れた水道の水が古いわけないだろうと思う。いや、この蛇口が最近使われたのは昨日かおとといか、半年前かわからないから、ひょっとしたら古いかもしれないけどね。
「備が今、座っている席で、わたしは醍醐くんが入れてくれた液体を飲んだんだよ。冷蔵庫の中には聖杯はともかく、いろいろおいしそうなものがあった、って」
おれが今、座っている席は掘りごたつにもなる机の北側で、そこに座ると南側にある庭などはよく見えるが、冷蔵庫や水道の蛇口といった台所的なものは建物の北側にあるので見えない。
「さては一服盛りやがったな、あいつ」と、おれは言った。
「味は普通の冷やしハーブティーだったけどね。なんか飲んだら眠くなってきたんだ。あーっ、ちゃんと机の上にわたしの体液のあとが、かすかに拭かれて残ってる!」
液体とか体液とか、微妙な言い方するなよなー。
「まあ、お腹の調子が悪くなるほうの冷やしハーブティーでなくてよかったな」と、おれは言って、そのあとを確認した。
「でも、それだったら何でわたしの場所が移動させられてたんだろう」
「多分演出効果だな。おれがやってみるから、もう一度ここで倒れてたときのポーズをしてみて」
清は多分頭の中を「?」で一杯にしながら、言われたとおりにした。
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『清さん、しっかり、しっかりしてください。一体何があったと言うんですか。それに立花くんはどこへ?』
『あ…わたし、気を失ってたんだわ。はっ、あの庭の松の木にぶら下がっているのは』
おれが抱きかかえると、うまいことふたりで窓の外を見ることになる。
恐怖で引きつった清の顔のアップに続いて、おれの驚いているアップの顔になる。でもって、下を向いて泣く顔に両手がかぶさる。
『清さんは見ないほうがいい』
おれはそう言って、清の肩に手を当てる。
いい役だなあ。日本映画だと上原謙か佐田啓二か金子信雄がやりそうな役だ。
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薄くなっていく靄の中の、庭の松の木の枝にかかった薄ぼんやりした黒い影は、次第にはっきりとした黒い影になり、それは誰かが首を吊っているものだと知れた。
「これで犯人がわかったよ。犯人は醍醐くんじゃん」と、清は言った。
「まあ、ふたりしかここにいないんだったらね。でも市川は被害者なんじゃないの? 犯人は清のほうでさ」




