60話 千鳥紋先輩の手に触れたのははじめてかもしれない
これは誰かが、おれ以外の物語部員をこわがらせようとしている、とおれは思った。冷蔵庫の中の生首、校庭へ攻め込む野武士、生徒会室に置かれた壺もしくは聖杯。それぞれのこわさは、その方法でコンタクトしようとしている誰かもしくは何かの、曖昧な悪意だ。
それぞれの事件には、樋浦清、物語の作者あるいは映画監督、生徒会の誰か、というように、仮に犯人を立てることはできるが、そんなに明白なものではない。犯人は超越的な能力と道具を持つ、逃走した連続殺人犯だ、と、おれは考えるべきだろう。しかし多分その男もしくは女は、河原で溺れた死体として発見されることになる。
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千鳥紋先輩は、楢柴肩衝だった壺を聖杯という存在に固定した。液体窒素は毒ではないかもしれないが、多分飲んだら死ぬだろう。作者も実際に試したことはないからわからない。なんか口から気化した窒素を、体内の組織と一緒に吐き出しながら苦しむんじゃないかな。
そこらへんの描写を本当っぽく書く技術はおれにはまだない。千鳥紋先輩は生徒会室に敷かれた青いビニールシートに横たわり、おれは先輩の手の中の聖杯を取った。
そしておれが殴ったせいで(だけじゃなくて、聖杯が壺だったときに中に入っていたおいしい水飴に含まれていた毒性物質のせいもあると思う)体がすこしふらついている真・市川醍醐にそれを託した。
もうひと組のメンバーである、おれたちの世界の市川醍醐と樋浦清は、もうここには来ることはないだろう。ふたりはおれたちが見つけた銀の聖杯ではなく、黒もしくは金の聖杯があるところに気がついたに決まっている。
横を向いて倒れている千鳥紋先輩の口から白い霧が出ているのを、おれはしばらく見つめていた。先輩の、ひと時代前の女子高生が着ていたような白いセーラー服についていた泥は、真・立花備の浄化能力によってほぼ落とされていた。
おれは、千鳥紋先輩の、すみれ色の瞳を持つ目を指で閉じ、同系色の髪の毛の乱れを手で直し、横向きだった体をあおむけにして、その両腕を胸の上に乗せようとしたが、考えを変えて体の脇に沿うようにした。
千鳥紋先輩の手に触れたのははじめてかもしれない、と、おれは思った。その手は冷たくて、柔らかくて、なめらかだった。先輩は、かつて誰かの手を握ったり、握り返したりしたことはあるのだろうか。
おれは、千鳥紋先輩の体の横に、悲しみと哀れみの気持ちを持って、同じような姿勢で、ただし手の指を組んで天井を見た。生徒会室の天井の上には、以前は使われていたが今は空き教室になっている空間、その上にはソーラーパネルが並ぶ学校の屋上、ずっと上には雲、はるか上もしくは下には無限の宇宙と星々が広がっている。自分がその闇とわずかな光の中に落ちないでいるのは、地球の重力という謎の力だ。目に見えず、弱いけれども耐えることがない。
しばらくの間、かつて千鳥紋先輩であったものとおれは、結婚前の娘とその父親のように並び、おれは宇宙の深淵について考えていた。
ばん、と床を叩く音がして、千鳥紋先輩の上半身が跳ね上がるように起き上がったので、あまりのことにおれは驚いた。
「びっくりしてくれてありがとう。これは黒沢清監督の手法を真似てみたのよ」と、生き返った千鳥紋先輩は、いつもの、何を考えているかわからないすみれ色の瞳でおれを見て言った。
びっくりはしたけど、それは先輩が両手で床を叩いた音が、おれが思ってたより大きかったせいで、ちなみに全然こわくはなかった。
段取りとして、胸に手がある状態だと、びくっ、って感じで上半身起こすのにひと手間あるから、おれのほうで一応、視聴者とか読者に先にバレたら嫌だなあ、と思いながらうまいことやっておいたのだ。




