5話 岡本綺堂の「西瓜」というのはこういう話なんだ
樋浦清はさくら色の瞳を持ち、同系色の髪をポニーテールにしている、背丈も容姿も運動能力も勉強も、当人申告では普通、という、おれのクラスの隣の、おれと同じ一年生だ。しかし高校生女子の平均身長よりすこし低い、ということは年野夜見さんよりすこし低く、学業は普通より秀でていて、モブキャラにいても邪魔にならない程度の容姿なので、自己評価はあてにならない。
清は、わたしはバカだからほかの人より勉強しないといけなくて、と京美人風京ことばみたいなことを言って、夏休みも予備校の夏期講習に前期・後期とも通っていたので、夏休みの毎週火曜日に開いていた物語部の自主練に来るのは、今日だけのことになるだろう。まあ土日や平日の夜は自由時間なので、おれと清の友だちを含む複数の人間で、東京方面に遊びに行ったり、物語作りのヒントになるような場所に行ったりという、夏休みっぽいことも一応していた。
電気でお湯が沸いて保温できるポットのコンセントを差し込み、容器に入れた水を冷蔵庫に戻すと、清は「ホラー映画の「恐怖の方程式(小中千昭理論)」のテキストを自分の携帯端末にもメモ(ブックマーク)として入れて、タブレットを自分の前の席の机の上に置いた。ちゃんとお湯になるまで7分ぐらいかな。
清と千鳥紋先輩は、部室を入って右側、窓とは交差する関係の机の席に座っており、反対側には清の姉である樋浦遊久先輩がごろごろしているソファと、机と、2脚のパイプ椅子があった。その椅子のひとつには、子供が抱くには大きすぎる程度のぬいぐるみのクマが、人間だったら足を投げ出しているような形で置かれており、その椅子の前には数冊の安っぽい(ように見えるけど、講談社学術文庫とかちくま文庫の類なので、けっこう実は高い)文庫本が積み重なっていた。おれと年野夜見さんは窓際の、窓を開けておくとそれなりに涼しいポイントにいて、部室の扇風機は大・中・小の3台が北東の角を除く3隅で回っている。そこには先輩がいないからである。
おれが入ったときから部屋の温度は上昇し続けていたと思うが、心持ち外からの風が熱風ではなく、涼しくてやや湿り気を帯びたものに変わりつつあるように感じられた。降るならゲリラ豪雨かな、とおれは思った。
「岡本綺堂の「西瓜」というのはこういう話なんだ」と、遊久先輩はホラーな物語の続きを話した。
『江戸時代、とある中間、というのは侍の下働きをする奉公人だね、中間が使いで街に出て、風呂敷包みを背負って、とある武家屋敷の前を通りかかった。季節は夏の盛り、時刻はその長い夏の午後も、ようやく終わろうとするころだ。日照り雲が空を薄紅色に染めていた。武家屋敷の前の番小屋には若い侍がいて、中間の行動を不審に思ったのか呼び止めて、風呂敷の中を見せろ、と言った。いえもう、別に大したものではございません、いいから見せろ、というやりとりがあげく、中間が風呂敷を解くと、中からころげ出たのは……………………ころげ出たのは……………………女の生首。』
おれは自分のつばを飲み込む音が聞こえた、と思う。
『中間は腰を抜かし、侍は青くなって仲間のものに見せた。誰がみてもそれは生首だった。泥や蝋でこしらえたものではなく、触ると人肌のような感触があり、長い髪の毛もそこから伸びていた。これは詮議をせねばなるまいと、侍はいったんそれを再び風呂敷に包み、上司の前で事情を説明せよ、と中間に言った。中間の話では、これは出入りの八百屋から買った西瓜で、使いを頼まれて奉公先の親戚のところへ持っていくところでございます、と。侍の上司が風呂敷の中身をあらためると、先ほどまで一同の誰もが生首だ、と言っていたのが、今度は誰が見てもただの西瓜にしか見えなかった。夕陽の当たる庭先に拡げた、濃紺の風呂敷包みを下にして、生首ほどの大きさの、緑と黒の縞模様の西瓜が転がっていた。』
年野夜見さんはまばたきもしないで、冷やしハーブティーの入ったコップを手に持って、遊久先輩の話を聞いていた。
『奇怪なことがあるものだ、と思いながらも中間は許され、使い先の家にたどり着く。着いたのはもう日が暮れ、秋の虫がちりりちりりと鳴いていた。奥方とお女中の前で、またもや中間が風呂敷を開いてみると……………………開いてみると……………………わあああああっ!』
遊久先輩が大声をあげておれの肩を持ってがっくがっくしたので、おれは死ぬほどびっくりした。
「で、この話がこわくないのは」
「十分以上にこわいです、遊久先輩!」とおれは言った。
「ていうか、この話をこわくしている要素についてまず説明するね。西瓜が違うものに見えるのに何の理由もないことと、丸のままの西瓜ってなんか生首っぽくね? ってこと、それに嘘っぽくないところやね。だけど岡本綺堂はこの話を、語り手の友人が田舎に帰省したとき、土蔵で見つけた書き物に書いてあったとしてるんだ。つまり念を入れて、この話は嘘ですよ、って言ってるわけ。それから、勇気のある一人の侍が、また西瓜に戻ったそれを包丁で割ってみると、一匹の小さな蛙が出てきて、八百屋に出所を聞いてみると、貧しいが構えだけは広い旗本屋敷の、敷地を利用して作られている作物を、安値で仕入れているのですが、ときどき妙な生き物がまじることがございます、って因縁の話、つまり江戸時代的には納得できなくもない話にしてる。さらに台無しなのは、それを「群衆妄覚」、つまり集団幻想という明治時代的解釈まで付けくわえていること。こわい話に理屈つける必要ないだろ。要するに、納得できるオチみたいなのがいない話はこわい。この部室にいる一人の部員が、誰の目でも、どう見てもぬいぐるみのクマにしか見えない、とかな」
「誰がぬいぐるみのクマですか」と、ぬいぐるみのクマは言ったので、おれはほんのすこしだけ驚いた。
「なんだ、市川じゃん。お前、いたの?」と、おれは言った。
6人目の物語部員で、おれと同じ一年生の市川醍醐である。