45話 (番外)松川志展(まつかわしのぶ)の、そんなに忙しくない仕事の日(その1)
松川志展は、地下のスタジオから2階の、ひと目につかないドリンクコーナーの隅に移動して、夕食として買った3つのおにぎりのひとつと、ミネラルウォーターを飲みながら、高校生になって最初の定期テストのための勉強をはじめた。ドリンクコーナーの自動販売機には、当然のことながら炭酸飲料は並んでおらず、カフェインがあるか、多めか、水とほぼ同じものしかない。
松川は現役高校生(ついすこし前は現役中学生)の声優で、子役からジョブチェンジしつつある、よく言えば割とわかりやすい、アニメっぽいけどやや演技がクドい系の声の、ぼちぼち声と名前はアニメ好きな人には覚えてもらえつつあるかな、というレベルの子だった。
今期収録のアニメは、事情を事務所に説明して仕事をまだ入れないでもらった(建前)ので、主役ではないがそれなりに出番のある脇役(半分ぐらいの話に出ている)というのが1本だけだったが、それは単に出番が少ないというだけなので、収録の際にはずーっといなければならない。だいたい2話ぐらいずつ、毎週3時間というのが通常のペースで、最初の2話は6時間、ほぼ真夜中までのスケジュールに頭がクラクラした松川だったが、各キャラの把握が声優・監督・原作者で共有されていない場合はそうなりがちである。
声優はいくつかパターンを変えてやってみて、監督は原作者とボソボソ話し、原作者はボソボソと意見を監督に言って、監督は大きな声で、じゃ、そのパターンで、と言う。原作者と声優が直接意見を交わすことはない。監督によれば、たいていの原作者はシリーズの3巻ぐらいまではキャラの性格その他に関する把握はいい加減で、当人に聞いてもわからないことが多いらしい。口うるさい原作者と、そうでない原作者がいるらしい。オリジナル脚本の場合は自由度が高い代わりに、アドリブで難易度が高いことをやらされることもあるらしい。
松川は、へーそうなんですか、すごいですね、大変そうですね、というのを、自分でも嘘っぽいな、と思いながら数通りのパターンでやってみた。もしあたしが何かの物語の登場人物で、作者がいるのだとしたら、あたしのキャラを十分に作者は把握しているのだろうか、とも思った。
下を向いて勉強に集中して油断していたら、ほぼ空になったミネラルウォーターと並べて、誰かがおかわりの、同じペットボトルを置いてくれた。
「へー、なつかしいなあ、この教科書、私も昔使ってたよ」
これは、誰かじゃなくてあたしより全然先輩の、あたしより圧倒的に売れっ子の、あたしよりすこしだけチャームポイントが多い千鳥灰音さんだ、と松川は緊張して直立不動の姿勢を取った。
「あなたは松川志展さんだね。うちの妹が同じ高校だから、あれっ、って感じで名前と顔を覚えてたんだ」
そんな設定聞いてないぞ、と、松川は思った。
千鳥灰音はフランクで気さくで帰国子女で、いろいろ複雑な感情を、妹の千鳥紋には持っている人だった。
背は、高校生女子の平均身長より少し高い千鳥紋よりすこし低く、千鳥紋より濃いすみれ色の瞳と同系色の髪はすこし短かった。
「じゃあ問題を出すから、答えてみて」と、千鳥灰音は教科書とプリントを手に取って言った。
「はい。ビトウィーン・ザ・シルバー・リボン・オブ・モーニング・アンド・ザ・グリーン・グリタリング・リボン・オブ・シー………」
「え、ちょっと待って。英語の教科書丸暗記?」
「どの教科書も丸暗記です。頭と要領が悪くって」と、松川は答えた。
「それはすごいね。でも発音はひどいというか、音声自動読み上げみたいだね」




