3話 ここにいるみんなに、こわいものを聞いてみたらどう?
「なんかホラーの話がうまく作れないのはどうしてなんでしょうかね」と、おれは清と並んで数学の勉強をしている、なんかそういうのにくわしそうな千鳥紋先輩に聞いてみた。
千鳥紋先輩はすみれ色の瞳と同系色の髪を持ち、昔はこの高校の制服だったと思われる白のセーラー服を着ていた。当人の話では、ヤマダが最初に作ったヒトが私よ、だそうなんだけど、そんなのは絶対当てにならない。
自分の数学の問題をすらすらと解きながら、清が必死に答えた問題の解答をさっと見て、あ、それができたらこれね、と、次の問題を指定していた。模範問題と模範解答を見て、公式を暗記して、応用問題をやるのがコツだそうである。
千鳥紋先輩は、日本語でも英語でもロシア語でもない字でノートを取っているため、数学以外はうまく人に勉強を教えられない。いや、古代ギリシャ人だったら読めるわよ、と言うが、今の日本に古代ギリシャ人はいない。数学以外の試験はどうやってたんですか、と聞いたら、時間をかければ日本語も書けないことはないけど、ノート取るには時間かかりすぎるの、だそうだ。
「それは、立花くんが本当にこわいものを知らないからかしら」と、千鳥紋先輩は言った。
「ここにいるみんなに、こわいものを聞いてみたらどう? ちなみに私は………………………………………………………………饅頭かな」と、いきなり千鳥紋先輩はオチではじめた。
「あ、はい、渋くて熱いお茶ですね。今からお湯を沸かします」と、察しのいい清は言った。
「ちょっと待って。お湯を沸かしたら水蒸気になるわ。水を沸かしてお湯にします、って言って」と、ときどき面倒くさい、というのは当人が面倒くさがりという意味ではなくて、面倒くさいキャラになる千鳥紋先輩は言った。
物語部の部室と図書室が違うのは、飲み食いが自由で飲み物・食べ物が豊富にあること、雑談でがやがやなってても問題はないことである。ときには昼休みに抜け出してケーキを買ってきて、冷蔵庫に保存しておいて放課後にみんなで食べる、ということもしていたが、夏休みになる前に冷蔵庫にあったわけのわからない、賞味期限が切れた飲み物・食べ物は整理してしまったため、現在常備してあるのは、食べ物ではせんべい・甘納豆・さきいかといった干菓子類だけだ。それらは部室の真ん中、会議用(雑談&勉強用)の大机の上に置かれた大皿に盛りつけられている。大机というよりは、会議用の机が3つ、ひとつは窓ぎわで窓と平行に、ふたつはそれと垂直になるように配置されている。パイプ椅子はひとつの机にふたつずつで、それ以外に来客があった場合のための予備パイプ椅子もある。
部室にはコンセントがあるので、テレビと録画機、扇風機、冷蔵庫、電気でお湯を沸かすポットなどは使えるが、水道の蛇口はない。一番近い蛇口は同じ階にあるトイレのもので、飲み物を淹れるための水はそこからは取れない。普段の日は下の調理室か、その下の理科室の蛇口を使わせてもらうんだけど、夏休みにはしょっちゅう、というかほとんどだいたい部屋が閉まっているため、1階の水飲み場まで行かなければならない。清の足なら往復に2~3分ぐらいかな。
冷たい水だったら冷蔵庫にすこしぐらいは容器の中に残っていたんだけど、ついでだから、って清はポットと一緒に持って下へ降りていった。いろいろ清には申し訳ないと思ったけど、おれが行くとこの部室におれがいなくなり、いない間の物語はおれの一人称では語れない。まあどうせ「みんな何がこわいと思うか」という話は、清がいない間にしていても、その後の説明には「…ということでな」で話が続けられる。
千鳥紋先輩は話を続けた。
「まあ私のそれは冗談だとして、こわいのはたとえば意味を持たない何かね。饅頭は、食べるとおいしいという意味はあるんだけど、帰り道の橋の手すりにそれがあると、意味がわからなくなったりしない? 何を見てもおびえたりこわがったりしない人が、なぜ誰もこわがらないような饅頭をこわいと思うのか。それはきっと、なにかの物語の中で、こわく見える描写があったのよ。つまり、こわさとは描写だわ。小津安二郎の『晩春』で、父と娘が同じ部屋で寝る場面に、逆光で写る壺は、ふたりの心情をあらわしているという解釈が可能だけど、なんの解釈も意味も象徴でもないただの壺よね。切り落とされた腕や生首ややけどの顔という、わかりやすいこわさではなくて、意味を持たないものはこわいのよ」
千鳥紋先輩は自分のバッグの中からタブレットを出して、検索した画面をおれに見せた。