13話 短歌はこわくなくて俳句はこわいと思うんだよね
「すこし時間調整・確認をしよう」とおれは言った。
「どうやんのよ」と、樋浦清は聞いた。
「あー、あれですね、三人の仲間、スリー・アミーゴスの歌」と、市川醍醐はすぐに察した。
映画『サボテン・ブラザース』の中の曲である。
まず、アミーゴ・サルーテね。
右手を左胸に、それに交差させて左手を右胸に当てる。
次に、両手を腰に当てて、左を向いて「ハッ」と言う。
で、踊りながらフォーメーション・チェンジ。
そして歌う。
ぼくら三人仲間
ぼくら三人仲間
ぼくら三人な~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~かまっ!
よし、うまいこと映画の通り、15秒伸ばせた。ちゃんとおれたち自身が感じている実際の時間と、この物語の読み手との時間とはシンクロしてる。
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「短歌はこわくなくて俳句はこわいと思うんだよね」と、樋浦遊久先輩は、先輩がいつもゴロゴロしているソファの上に座って、物語部の部室の窓際にいつも置いてあった観賞用のサボテン(別名「そんなことはどうでもいいから、とっとと話を進めろサボテン」)を両手で持って、それを膝の上に置いて話しはじめた。
このサボテンを手にすると、話がなかなか先に進まなくなる呪いにかけられる。
「てやんでえ、何言ってやんでえ、べらぼうめ、って奴?」と、おれは言った。
「それは啖呵」
「マラッカ海峡を越えて行く…」
「それはタンカー」
「けが人を運ぶ」
「それは担架」
割とありがちなボケツッコミだ。
「たとえばさ、寺山修司『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』って短歌あるやん。あれ、下の句はいらなくね?」
「いや、その部分があるからその句は意味があるんで…」
「意味を持ちすぎなんだよ。だったら、『古池や蛙飛び込む水の音身捨つるほどの祖国はありや』でもいいのかよ。芭蕉の句は、意味を語の外に置いている。だから、『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし』で、問題がなくて、美しくて、こわい」
「言われてみるとそうですね。じゃあ、石川啄木の短歌なんかも」
「『ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく』は、『ふるさとの訛なつかし停車場』だな。「ていしゃば」じゃなくて「ていしゃじょう」と読むことになるけど」
おれたちは、いくつか考えてみた。
『幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく』(若山牧水)
「幾山河今日も旅ゆく越えて行く」
『最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうふべとなりにけるかも』(斎藤茂吉)
「逆白波ふぶくゆふべの最上川」
『瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり』(正岡子規)
「藤の花たたみの上に届かない」
『清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき』(与謝野晶子)
「清水へ祇園をよぎる桜月夜。これ本当に下の句いるのか?」
即解答だった。
千鳥紋先輩はこんなのを尋ねた。
『「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日』(俵万智)
「う………えーと………、おいしいな、今日はサラダの記念日だ」
「それじゃ小学生よ」と、千鳥紋先輩は言った。
「それはともかく、寂しいなーとか、きれいだなーとか、短いなー、という気持ちは基本的になくてもいい情報なんだよ。ま、おいしいなー、はあってもいいことにしといて。だから、こわい話は淡々と語られるべきなんだ。こわいぞー、とか、こわいだろー、うわーこわい、みたいなのはいらない。しかし、そういった気持ち、勘定の情報を支持する一定数の人間もいて、石川啄木その他の叙情短歌は愛唱されているから難しいな」
窓の外、まだ大雨の、夏の午後。
見捨つるほどの部活はありや。
確かに下の句、いらないなあ。
※作者注:述べられている意見は、作中の登場人物の意見で、作者の意見ではありません。




