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帰る場所

作者: エイジ

 

 クナージュ王国が滅ぼされて二年――。

 国を追われた貴族たちは、他国に散り散りになって逃げていた。ある者は捕らえられ、ある者は身分を偽り市井に隠れ住む。そんなある日、アルタジャッジ帝国の首都、ナミの町で。――


     ※


「おい、新入り奴隷。お前たち、歳はなんぼだ」


 また、奴隷が入荷した。

 クナージュ王国が滅び、新鮮な奴隷が毎日のように入ってくる。

 今日の奴隷は少女が二人。

 ボロを身にまとい、顔に垢が浮いている。歳は十六か十七か。

 下働きの青年ハルは、鼻を摘まむ仕種で奴隷の檻を覗き込んだ。まったく汚い。奴隷の市が立つのは毎週水曜日。それまで、良い値が付くように彼女たちを綺麗にしておかなければならない。


「ちょっと、聞こえた? おめえらに聞いてんの。言葉がわからない? クナージュ王国の者でも、アルタジャッジの言葉はわかるだろ。王国学校で習ったはずだ」


「……言葉くらいはわかるだども」


 小さな声で一人の少女から言葉が返ってきた。もう一人は、貝のように唇を結んで下を向いている。


「二番、わかるのか」


 別に番号は付いてないが、ハルはそう呼んでみた。黙って下を向いてる方は自分に近いから一番で、田舎言葉を話す方が二番。


「おらたち、どうしてこげさところ入れられたか、さっぱりわがらねえ。早く外に出してけろ」


「どこの田舎者だよ」


 ハルは苦笑いをした。どうせクナージュ王国の者が、身分を偽るために即興で何者とも知れぬ田舎者を演じているのだ。彼女も生き残るために必死で、クナージュのなまりを隠すために演技をしている。


「そんな言葉で騙される俺かよ。身分は割れてる。お前たちはクナージュ王国から逃げてきた。捕まっちまったものはしょうがねー。これからは奴隷としての幸せを探せ。新しいご主人様に献身的に仕えれば、いつかは自由の身になれる」


 本当のことだ。

 奴隷といっても給金が出る。

 わずかだが、いつか我が身を買い戻し、自由になれる。


「まあ、そのときは早くて三十年後かな……。お前たち、まだ十六歳くらいか? ということは、四十六歳で自由になれる」


「おらたち、四十六歳まで……?」


「まあ、しらねーが、おとなしく俺の言うことを聞け。俺の名前はハルってんだ。ハル様の言うことを聞けば手荒なことはしない。聞かないと……」


 ハルは腰に差していた棍棒を取り出した。


「これで殴る」


「あいやー。やめてけれ。そったらことしたらいけねえだ」


 少女二人は抱き合って震えた。

 一人の少女は田舎言葉を話すが、もう一人は一言も言葉を発しない。おそらく、クナージュのひどいなまりを隠すためだが、捕まった今は演技を続けても意味がない。


「一番、言葉を話せないふりは無駄だ。このハル様の目はごまかせねえ」


「こ、この子は、生まれつき耳さ聞こえねえだ。だから話せねえ。代わりにおらが話す」


「聞け!」


 ハルは大声で言った。


「そんな猿芝居、もう通用しねえ!」


 ハルの大声で、耳が聞こえないはずの少女は肩をびくっとさせて反応した。


「いいか、お前たちは奴隷。ここに居るのは偶然でもなんでもねえ。逃げていたということは、クナージュの貴族だろうが……。捕まって殺されなかっただけでもありがたいと思え。今から、俺が奴隷としての生き方を教えてやる」


 二人の檻の鍵を開けてハルが中に入って来た。棍棒を手にしている。


「おらたちを、ぶつだか?」


「大丈夫、顔は傷付けない。商売物だから」


「わ、わかった。おらたちは奴隷だ。きょうから奴隷! さあ、ご主人様、なにをするだ。そったら棒、早くしまってけれ」


「いい子だ」


 聞き分けがよい娘たちのようで、二人とも正座してかしこまった。やはり、もう一人の少女は耳が聞こえているのか、棒を持ったハルを恐れる眼差しで見上げている。


「まあ、わかればいい。俺はご主人様ではない。奴隷商人の下働きだ。奴隷の市でお前たちは売られる。買った人が新しいご主人様。その人の言うことをよく聞くんだぞ」


 そういうわけで奴隷の娘二人を風呂に入れた。元のボロは捨て、麻の着衣だが洗いざらしの純白のものを二人に与えた。これで、市に出せば金貨五枚でそれぞれ売れるはずだ。


「着替えは済んだか」


 しばらく待って、風呂の扉をハルが開けた。入浴は監視していない。窓には鉄格子があるから、そこからは逃げられない。念のため、入浴の様子を外から聞き耳は立てていた。


「のぞかなかっただか……?」


 風呂を終え、すでに着替えが済んでいた二番が言った。身構えるような仕種で胸を隠している。ハルは一瞬、息を忘れた。風呂から出た少女たちは、ウェーブのかかった美しい金髪で、輝くような白い肌をしている。黒く湿った瞳。長くて重そうなまつ毛。クナージュの美しい娘たちになった。


「……何が悲しくてお前らみたいなガキを覗かなきゃならねーんだ。いいか、お前たちは俺の言ったことを守って静かに風呂に入った。与えた服も着た。だから俺は棒で殴らねー。言いつけを守れば、それなりに快適に生きていけるんだ」


 ――まあ、奴隷が快適なわけないか。

 と、ちょっと思ったハルではあった。


「お前たちが着ていた汚ない服は捨てた。隠していたあれを風呂の中に持っていったな。俺が貰うから出せ」


 一番――。その耳の聞こえないらしい少女にハルが手のひらを広げた。瞳を泳がせ、事態が飲み込めない様子を作る一番。軽く小首を傾げている。


「耳が聞こえないふりはやめろ。そんなのはすぐにバレる。新しいご主人様に仕えて、新しい一生をお前は始める。あれは必要ないから俺が貰っておく。さあ」


 ハルは見たのだ。

 彼女たちの檻を初めて見た時、一番の少女が光るものを懐に隠した。


「クナージュの紋章の入ったブローチだった。俺は見たぜ。さあ」


 ハルは腰の棍棒に手を添えた。

 出さなければ折檻をする。

 さっと一番の表情が曇った。

 顔を見合わせる少女たち。田舎言葉を話す二番の少女は苦悶の表情でうなずいた。口が利けない少女はそれを見て着衣の裏側に隠していたブローチを出した。白く細い指が小刻みに震えている。


「金製だな……」


 ブローチを取り上げ日にかざし、ハルは感嘆の溜息をなんども落とした。

 金製のブローチ。

 クナージュの紋章が中央に描かれている。

 元はドレスの飾りつけに使われていたものだろうか。金の王家の紋章を付けて歩けるのは王族だけだ。どこで手に入れた物か。あるいは、一番が王家の姫君か――。


「せいぜい真鍮製だと思ったが、まさかな」


 ハルは首をひねるのだった。

 これを売り払い、いつか奴隷商人として独立するための資金の足しにしようと思ったのだが、王家の持ち物となれば事が大きすぎて売りさばくのが難しい。王家の者は公開処刑されることが決まっている。奴隷としては売り物にならず、奴隷商人は王族を嫌う。


「まあ、裏なら売れるか……。これは、ほかで手に入れたことにする。お前たちの素性は知らないし知りたくもない。うっかり、クナージュの王家の者だと自分から言うバカはいないよな? いいか、お前たちの幸せは、奴隷として献身的に働いた先にある。生きていれば、いいことだっていつか必ずある。だから我慢しろ」


 ――本当に?

 と、ちょっと内心で首をひねってしまうハルだった。


「いいか、クナージュ語のなまりの奴隷はたくさんいる。だから言葉が話せないふりはしなくていい。お前たちは奴隷。それ以上でもそれ以下でもない。わかったな」


「わかっただ……」


 うなだれて返事をする二番。


「お前は? わかったのか」


 一番に凄んだ声音で言うと、


「……はい」


 と、蚊の鳴くような返事が一番から初めて返ってきた。やはり、アルタジャッジ帝国の言葉が理解できて、クナージュなまりを隠すために話せないふりをしていただけのようだ。




 明日は奴隷の市が立つ。ハルは少女たちに夕食を持ってきた。どうせ明日は売りに出すから粗末な粥だ。奴隷の世話はハルの役目だから、これもハルが作った。


「さあ、食え。おとなしくて助かった。俺だって、棒で人を殴るのが好きなわけじゃないからな」


 恐る恐る食事を受け取る少女たち。悲しいかな、囚われの身でも腹は減る。


「あの……おらたち、考えたども」


 二番が食事を差し出したハルの手に触れてきた。


「なんだよ」


「ハルさと言っただな。あんたさあを見込んでお願いがあるだ。おらたちを、逃がしてけろ」


「は? バカじゃねーの。立場がわかってねーな」


 殴らないから少女たちが調子に乗ったのだ。

 今からでも遅くはない。腹か背中にサソリのような強烈な一撃をお見舞いする。ハルは腰から棍棒を抜いた。


「そっだらことしちゃいげねえ! 棒で人さ殴れば、地獄さ落ちるべ!」


「口の減らねえガキだな」


「おめえだってガキみてえな歳だべ。ほんの二つか三つ、おらより上なだけだべ。ああもういいだ。殴りたきゃ殴ればいいべ。おらもう、どうでもいいだ。さあ、殴れ!」


「お前なあ」


「……なぐらねえのけ?」


 いつまでも殴ろうとしないハルを、二番はそのつぶらな瞳で見つめる。


「ひゃっ!」


 二番は身構えた。

 ハルが棍棒を持って動き、いよいよ殴られるかと思ったが、結局そのまま殴らない。二番は少し安心した。自分の思った通り、ハルは心が優しくて女は殴らない。


「ハルさ、おらたち、こげなところさいつまでも居るわけにいがねえ。逃がしてけろ」


「バカだな。逃がしたら、俺が鞭打ちの罰を受けるだろ」


「鞭打ち……?」


 それだけで済むのか? という顔を少女たちはした。逃げたクナージュ王国の貴族が次々に捕まり、このアルタジャッジ帝国に奴隷として送られてくる。ほかの国の奴隷も溢れ、奴隷など掃いて捨てるほどいる。うっかり奴隷を逃がしても、ハルへの罰はそれだけで済むようだ。


「軽く言うぜ。いいか、一人逃がせば鞭打ち五十回。体力のない者は、それで死ぬんだぞ」


 アルタジャッジの法は厳格で、法は確実に履行される。


「ならハルさ、おらたちと一緒に逃げてけろ」


「はあ?」


 ハルは怒りで震えた。顔を引きつらせる。


「どうして俺が逃げる」


「ハルさあ、本当はクナージュ王国の人だべ。おらたちと一緒に逃げてけろ。ハルさあの言葉にはクナージュのなまりがあるだ。隠してもおら、ちゃーんとわかるだ。おらたちの仲間だべ」


「お前、本物のバカだな……」


 ハルは呆れた。


「たしかに俺はクナージュ王国の出身だ。だから、こんな最底辺の奴隷商人の下働きなんだ。だが、クナージュだからってなんだ。今はアルタジャッジの市民権を持っている。法が整っているここでは、市民権の書類があれば立派に俺もアルタジャッジ人だ。今更、どうして流浪のクナージュに戻らなきゃならない。お前たちと逃げて、どんな得が俺にある」


「得、だか……?」


 二番は鉄格子を握りしめて黙った。


「今、お前たちはアルタジャッジの奴隷だ。奴隷としての幸せを探せ。逃げても、どうせ捕まって殺されるぞ」


 むしろ、説得するようにハルは言った。

 逃げたところで捕まって処刑されるか、どこかで野たれ死ぬかだ。奴隷として過ごして、いつか自分の身を買い戻す。そんな老後を夢見て生きる方が賢い。

 ハルは思った。

 一番の少女。

 紋章入りの金製ブローチを持っていた娘がクナージュの高貴の姫君で、田舎言葉の少女が彼女の侍女だろう。潜伏先が露見して逃げたが捕らえられ、この有り様になっている。よくある話だ。気の毒だが、奴隷としての幸せを探すことでしか彼女たちの良い未来が浮かばない。




 寝苦しい夜だ。

 蒸し暑い。蚊が多い。


「……ちっ、この蚊帳、穴が開いてんじゃねーのか?」


 頬に止まった蚊を、ぺちっとハルは平手で打った。鉄臭い血の匂いがただよう。

 窓の外には、月が青白く輝いている。

 ハルは一番から奪った金製のブローチを月にかざした。売れば、いくらになるだろう。奴隷商人の下働きの役得。だが、彼女たちのためにもなる。こんな物を持っていれば、例え人違いであってもクナージュ王国の王族だと思われて殺される。


「ちっくしょう――!」


 ――暑さがハルを狂わせたとしか思えない。

 ハルは少女たちの檻の前に立っていた。音がしないように、そっと鍵穴に鍵を挿入して手首をひねる。油のきいた鉄の扉は音もなく開いた。


「ハルさだか?」


 寝ていなかったのか、闇から二番の甲高い声が聞こえた。


「別に、夜這いに来たわけじゃねー。とっとと出ていけ」


「……逃がしてくれるだか?」


 少女たちは二人とも起きていたようだ。それはそうだ。明日は自分たちの運命が決まる奴隷売買の日。新しい主人がどんな横暴な男かと、不安で寝ていられなかった。


「これを持っていけ」


 檻を出て行こうとする一番にハルはブローチを返した。一番は静かな挙措で頭を深く下げた。


「ありがとうございます。あの、私は――」


 ハルは彼女を手で制した。


「何も言わなくていい。あんたが何者か興味がない」


「……この御恩は、一生忘れません」


「俺は、元はクナージュ王国の竜騎兵団の伝令だった。まだ十七で見習いだったが……。竜騎兵団がクナージュの王族を助けなくて誰が助ける。さあ、行け」


 瞳に涙を溜めてお礼を言う少女たち。運命が彼女たちを救おうとすれば、その運命の一員も俺か……と、ハルは青白い月を見上げた。今日は月齢十五日だったか。

 少女たちが闇に消え、ハルはなんとなく少女たちの檻に入ってみた。その寝ていた寝床で横になってみる。彼女たちの体温が寝床に残っていた。運があれば彼女たちは逃げおおせ、どこかで結婚して幸せになり、子供にも孫にも恵まれるだろう。その一族を作ったのが俺だ……。二重の切れ長のまぶたを閉じ、そのような妄想にいつまでも浸るハルだった。




 翌日の午後、ハルが大通りを通ると、磔にされた死体が晒されて人だかりが出来ていた。

 高札が死体の脇にあって、

 ――この者、クナージュ王国王家の者なり。よって死刑に処すものなり。

 と、ある。

 死体は一番だった。

 ハルが与えた純白の着衣が血で赤黒く染まっている。金髪や白い肌は輝きを失い、見るも無残な姿になっている。


(……運がなかったのだ)


 そのようにハルは思うしかない。心の大切な部品は、随分昔に無くして涙は出てこない。あのブローチを返したのはまずかった……。と、それだけを後悔した。あれを持っていなければ、捕まっても再び奴隷として売られただけで済んだのではないか。二番の死体が晒されていないのは、彼女の身分が侍女だからだろう。今頃、断頭台の順番を待っている頃か、すでに処刑は終わったか……。

 おそらく、昨夜のうちに町の門を出ようとして二人は捕らえられた。そして、拷問の末に一番は身分を自白して即日で処刑された。


(あの、おしゃべりの娘も死んだか……)


 これが、王家の血の閉じ方なのだろう。

 ハルには理解ができなかった。石に噛り付いても生きたいとハルは思うが、彼女たちは違った。高貴の血は、奴隷になることをよしとせず、毅然とした態度で誇りを持って死に向かって歩を進めた。


(それも生き方か)


 そう思い、ハルはこの件を忘れようとした。

 わずかに日が地平線に棚引いている。

 ハルは酒をあおり町を歩いた。飲まなければならない日だ。

 酩酊して、部屋までの道のりを歩いていると、彼の手を引く女がいた。早めの客引きか――。


「お前……」


 しかし、その女は二番だった。捕まってはいなかった。


「お、おら……」


 瞳を充血させ、目の周りも腫れたように赤い。ずいぶん泣いたようだ。


「お前、大通りのあれを見たのか」


 一番だけが捕まり、まだ二番は逃げていた。一瞬、町の警備兵を呼ぼうと思ったが、少女の涙に勝てる者はいない。気づけば、彼女の手を引いて自室にいた。


「やばい、これはやばいぞ……」


 二番は帝国のお尋ね者になっているはずだ。王族の少女と一緒に逃げていた。二番を匿えば、害は自分にも及ぶ。鞭打ちなどでは済まない。断頭台に首を差し入れる自分がちらりと見えた。

 ただ、ハルは用心深い。部屋に入るところを誰にも見られていないのを確認してから部屋に入った。その自分の行動をふりかえる。とうに酔いは飛んでいた。


「お前たち、なんて手際が悪いんだ。だから奴隷としての幸せを探せと言ったんだ」


「タニアが、タニアが……」


 二番は床に膝をつき、両手で顔を覆って泣いた。タニアというのが磔になった一番の名前のようだ。どうせ名のある姫君だと思ってはいた。

 いつまでも一番は泣いていたが、しばらくして落ち着いたようなので、


「あの子はかわいそうだった」


 と、ハルは優しい声音で言ってやった。


「俺も覚悟ができた。こうなったら、お前だけはなんとか逃がしてやる。今まで貯めた金で、お前の身分証と通行証を作る。もちろん偽造だが、それを持って遠くへ逃げろ」


「……おらはもう一人ぼっちだ。もう、生きていたくねえだ」


「甘ったれるな。それでも生きろ。……いっ!」


 ハルの背中に激痛が走った。服に血が滲んでいる。


「怪我をしてるだか?」


 二番が見ると、ハルの背中に鞭の生々しい傷が無数にあった。奴隷を逃がした罰の鞭打ちがすでに行われたのだ。


「薬さあるだか?」


「そこの棚に……」


 二番は、小ツボに指を入れて薬を取り出し、ハルの背中に塗りはじめた。鞭打ちは奴隷商人の親方がするのではなく、役所で専門の役人が打ったらしい。


「へっ……。まあ、なんとか五十発、今回も耐えたよ」


「あ……」


 古い鞭打ちの痕跡がハルの背中にあった。前にもクナージュ出身の奴隷を助けたことがあるようだ。だから、奴隷を逃がした場合の鞭打ち五十回のことを知っていた。


「前も、だれかを逃がしたのけ?」


「ああ……。やつは逃げおおせたぞ」


「タニア――」 


 二番は磔になった一番の名を呼び、大粒の涙を落としながらハルの背中に熱心に薬を塗り込む。「タニア――」と、名前を呼ぶところをみると、二番は一番の侍女ではなく、王族に近い貴族階級かもしれない。そんなふうにハルは思った。




 あれから二日が過ぎた。食事はハルが用意している。二番は、不意に誰かが来たときに備え、裏口の近くで穀物の入った樽の影に息を殺して潜んでいた。そして五日が過ぎた午後、ハルが息を切らせて部屋に戻ってきた。


「おい、お前の身分証と通行証ができたぞ。これがあれば大通りだって歩ける。門の外へだって自由に行ける」


「これが……? これがあれば、おらはどこへでも行けるだか?」


「この国は書類馬鹿みたいなところがあってよ、書類が足りなければ絶対に通れない門でも、書類さえ揃っていれば多少怪しい奴でも通ることができる。これがあれば捕まらない」


「あの――」


 と、二番が意外なことを言い始めた。


「おら、一人で逃げてもしょうがねえし、行くところもねえ。このままハルさの奴隷にしてけろ」


「俺の家政婦にでもなるつもりか? 俺は奴隷を囲える身分じゃないから人に怪しまれる。それに、いつそれが偽造だとバレるかわからない。だから、それを持って遠くへ逃げろ」


「それなら、クナージュに戻るしかねえだかな……」


「それがいい。戻って暮らせ。占領されたクナージュの町に帝国兵がうようよいるだろうが、町から離れた土地を選べば大丈夫だ。クナージュの人に紛れたら、お前はただのクナージュの女だ。最悪でも、また奴隷になるだけで済む」


「はあっ……。どっちにしろ、あっちでもおらは奴隷だかな」


「それでも、死ぬよりはいい。俺は、今日これから役所に出頭しなければならない。鞭打ちの刑がまだ残っている。お前たちを逃がした罰を、五日のうちに受けなければならなかったんだ」


「また、鞭打ち?」


「お前とあの子に逃げられた。だから二人分で鞭打ち五十回を二回。それが、俺が受ける罰。一度に百回も受けたらたぶん死ぬから、五十回ずつ日を分けて受けるんだ」


「ハルさあ、死なねえでけろ」


「え……?」


 二番は、ハルの腕にしがみついて泣いた。


「お、お前はもう、俺が居なくなってもその証文があるから大丈夫だ」


「やっぱりおら、ここさ残るだ。逃げたかったのは、タニアを得体のしれない男の奴隷にしたくなかったから……。あの子は、おらより二つも年下だったから」


「ここはだめだ。すぐに荷造りしろ」


 ハルは溜息をひとつ落とした。二番の行く末が心配ではある。しかし、今は鞭打ちの刑を耐えて生き残れるかわからない。二番がここで待っていても、もう彼女の面倒を見てやれない。


「じゃあ、俺は役所に行ってくる。部屋にある物はなんでも持っていけ。俺が出たら、お前もすぐに出ろ」


 ハルはポケットの小銭を出して少女に握らせた。彼女の身分証と通行証を作り、残った銭はもうこれだけだ。全財産だがいい。死んだらあの世へは持っていけないし、命が残れば儲けもの。命があれば、また稼げばいい。鞭打ちの刑を乗り切れば以前と同じく、ここで奴隷商人の下働きが出来る。仮に彼女と今から逃げたとしても、二人分の通行証がないから、どうせ逃げきれない。




 ――役所の広場で鞭打ちの音が響いていた。

 同時にハルの悲鳴も響く。


「痛いよー、痛いよー」


 子供のようにハルは打たれるたびに泣いた。

 ハルは鞭打ちを受けながら考えていた。これで死ぬかもしれない。身分は帝国の奴隷商人の下働き。結局、ここでは自分の心の置き場所が見つからなかった。

 泣いても痛みが和らぐわけではなかったが、何か叫ばなければ命の炎が切れてしまう気がした。生きたいから泣いて叫んだ。叫んでいる間は生きている。叫んで生きていることを続ければ、辛い鞭打ちにも耐えられるかもしれない。




 しばらくして、役所の門が開いた。ハルはふらふらになって外に出てゆく。


「くそう……。ちくしょう、ちくしょう――」


 鞭打ちに耐えきったが、こういうとき、門を出て安心した瞬間に気持ちが切れて死ぬ者があると聞いたことがある。だから、気持ちを切らさないように、「ちくしょう、ちくしょう……」と、喋り続けて門を出た。足を踏ん張って歩く。気を失って倒れてはだめ。

 クナージュの流浪の民だったハル。

 心を許せる者は、ここには誰も居ない。だが、役所の外で待っていた人がいた。二番だ。


「お前……」


「よかった」


 二番はハルに抱き付いて泣いた。


「いたっ……。痛いから、もっと優しく」


「ご、ごめんなさい」


「……お前、名前は?」


 ハルは二番に聞いた。


「今、考えたやつでいいから名乗ってくれ。お前を思い出すときに名前で思い出したい。逃げる前に聞かせてくれ」


「私の名前は、ミシェルです」


「やっぱり、聞かなきゃよかった……」


 名前を聞いたことをハルは後悔した。

 クナージュの王族の第三王女がまだ捕まっていない。第三王女の名前はミシェル・ジャッジ。十六歳。


「もしかして、君が第三王女のミシェル・ジャッジなのか?」


「はい――」


 竜騎兵団の伝令時代に何度か見たことがあり、そういえば面影があった。ただ、彼女は雲の上の存在で遠目でしか見たことがなかったし、あのときまだ幼い。

 彼女が第三王女ミシェル・ジャッジだとすれば、磔になった娘の方が侍女で、王女を守ろうと紋章入りのブローチを手放そうとしなかったのではないか。二つ年下らしいが、よほど覚悟があって、いざとなれば自分が身代わりになるつもりでブローチを持っていた。あるいは、王女を逃がすためにわざと捕まり、自ら積極的にブローチを示し、「私が王女のミシェル・ジャッジである」と、偽りの身分を明かしたのかもしれない。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺には刺激が強すぎる。とりあえず、元の喋り方をしてくれ」


「私には……。あ、あの……。ハルさあは、おらに逃げろと言ったども、おらはもう、行くところさねえがら」


「それはもともと、俺にもない」


 心の置き場はアルタジャッジのどこにもなかった。ただ、心も体も傷だらけではあったが、どういう辻褄か、支えてくれる人、守ってあげたい人は出来た。ハルは彼女の肩を借り、帰るべき自分の部屋に向かうのだった。――〈了〉



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― 新着の感想 ―
[良い点] いい話に見える醜い話。なかなか工夫されていて面白い作品でした。 帰る場所(国)を失って生きることの厳しさが伝わってきます。 [一言] 清き者が死に、卑しき者が生き残る。 国を守る者が、民を…
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