殺人鬼憑き
その男に気付くよりも先に、私はその獣達に気が付いた。
だから、或いは私を誘ったのは、その獣達だったのかもしれないとも思っている。否、流石にそれは穿った見方に過ぎるか。
それは夜の公園だった。特に用事があった訳ではないのだが、なんとなく外の空気を浴びたくなった私は、家の直ぐ近くにあるその公園にまで散歩に出かけたのだ。
木々や植込みが豊富な公園で、気の所為かもしれないが空気が澄んでいるように思え、木々で街の灯りが遮られているからか、心なし星々も綺麗に見えるように感じる。
だから私はその公園が好きなのだが、何故かその時は不気味な感覚を覚えた。ただ、それでいて何か惹きつけられるような気も。
しばらく歩いたところで、私は奇妙な気配を植込みの中から感じた。密集して生えている灌木の合間に何かがいる。
ネズミのような印象を受けたが、ネズミにしては大き過ぎるし全体的に丸い。猫よりは小さいと思うのだが、圧迫感のようなものを放っており、随分と大きく感じた。
それはとてもとても黒い毛を生やしていた。あまりに黒いので、細く長い闇が生えているのではないかと一瞬勘違いをした程だ。そして、中心辺りには丸く大きな目があった。光を反射するそれは輝いて見える。
「何かしら、この生き物は?」
私は思わずそう独り言を漏らした。近づいてよく見てみようとして、その獣が一匹ではない事に気が付いた。
植込みの中に複数匹いる。確証は持てないが、十匹以上は潜んでいるように思えた。
私が近寄ると、それは薄っすらと口を開けた。その口には獰猛そうな牙がぎっしりと生えていた。
私は思わず後退る。
もし噛まれでもしたら、無事では済まないだろう。しかも、この獣は相当な数いるのだ。私はその獣から数メートルほど距離を置いた。そこで気が付く。
公園のベンチだった。
恐らくは男のものだろう人影が、そこに座っていたのだ。
「気を付けて、あそこに何かいるわ」
私は警告の意味も込めて、その人影に向ってそう話しかけた。しかし、その人影…… 男はこう返すのだった。
「あんた、あいつらが見えるのか?」
男はとても面白そうにしているように思えた。
「もしかして、あんた、人を殺したいと思っているんじゃないのか?」
私はその失礼な言葉に怒った。
「何を言っているの? そんな訳ないじゃない!」
私が怒った様子を受けて男は「いや、すまない」と謝罪をしてきた。ただし、にやけているような喋り方だった。気持ちが伴っているようには思えない。
「あいつらは、人を殺したい連中に見えるのじゃないかと思っていたもんだからさ」
そう言いながら、男は「よっと」と言って立ち上がった。
私は今度は男に警戒をした。
「その言い方だと、まるであなたが人を殺したがっているように思えるわ」
慎重にゆっくりと私はそう言った。男はふざけているような口調で返す。
「うん。ちょっと違うな。過去形だ。俺は人を殺したがっていたのさ。今は…… どうだろうな? よく分からない」
そして、お酒が少し入っているのじゃないかと思えるような不安定な足取りで私に近付いて来た。
私は尋ねる。
「殺したがっていた?」
「ああ」と男は応える。
「すっごく嫌な野郎がいてさ。殺したくて、殺したくて堪らなかったんだよ。いやぁ、あいつは実際、死んでも構わないような酷い奴だったね」
“だった?”
私は戦慄する。
過去形だ。
男はそこで立ち止まった。
「そいつは子供の頃からずっと俺が好きだった女と結婚するって言うんだよ。ある日、飲み会で聞かされてさ。まぁ、女の方も見る目がない。あんな野郎と結婚したら、絶対に不幸になるってのにな。
それで、まぁ、その飲み会の帰りに俺はそいつを殺したんだ。惚れた女を救う為だ。これは仕方ないよな?」
私はそれを聞いて逃げようとした。しかし男はそこでこう言う。
「おーっと逃げるなぁ。後ろ、危ないぞ?」
振り返ると、さっきの謎の黒い獣達が退路を断っているのに私は気が付いた。恐怖で震え始めた私に向って男は続けた。
「一か月くらい前から、そいつらは俺に付き纏っていたんだがよ。何をしたいんだか、まるで分からなかったんだよ。
が、しかし、その嫌な奴を殺した時に俺は理解したね。
ああ、そうか!
こいつらは餌を欲しがっていたんだって! だから、俺に付き纏っていたんだ! 俺が奴を殺すと分かっていたから!」
それから男は私に向って襲いかかって来た。手に何か持っている。ナイフだ。私はそれを何とか防いだが、その所為で腕が切られてしまった。
血が飛び散る。
黒い獣達はそれに群がった。暗くて見えないが、恐らくは私の血を舐めている。
男はそれから私を押し倒した。ナイフを振りかざす。私を刺し殺す気だ。男は私を刺し殺そうとしながら説明した。
「こついらは俺が殺したそいつをペロッときれいに食べちまったんだよ。一滴の血も骨も髪の毛も何も残らなかった。だからまだ死んだ事にすらなってねぇ。面白いと俺は思ったね。どれだけ殺しても証拠の死体はこいつらが全て食べてくれる。つまり、いくらでも俺は人間を殺し放題ってわけだ。
だから俺は殺した。何人にも何人にも。本当に殺したいと思っているかどうかも分からないまま。
そして、今でも俺はこうしてカモを探しては殺しているってワケさ!」
“殺される!”
私は手でナイフを防ぎながら、手探りで辺りに何か武器になるものはないかと探した。やがて硬い何かに触れる。きっと石だ。それなりの大きさがある。
無我夢中だった。
私はそれを手で掴むと、思い切り握り締めてそれで男を殴った。どこに当たったかはよく分からなかったが、きっと頭部のどこかだ。それで男は倒れたから。急所でなければ、そんなに簡単に倒れたりはしないだろう。
一瞬で静寂がやって来た。
あちこちを切られたはずだったが、痛みは何故か感じなかった。
男は倒れたままだった。
ピクリとも動かない。
私はまさか死んでいるとは思わなかった。しかし、男は動かない。
“……これ、まさか、本当に”
私には男が死んでいるかどうかを確かめられなかった。怖くてそれをする勇気が出なかったのだ。
もし、死んでいたなら、この男を殺したのは私だ。
“正当防衛”という言葉は、混乱していたその時の私の頭には浮かんで来なかった。
しばらくそのままでいると、やがて「ミー、ミー」というたくさんの鳴き声が私の耳に入って来た。とても微かでか細く可愛い鳴き声だった。あまりに切なげだったので、それが黒い獣達のものであるとは、少し間、私には分からなかった。
なんで、鳴いているの?
それが黒い獣達のものであると私が理解し、不思議に思っていると、黒い獣達はそれから倒れてている男に群がり始めた。そしてそれから男を食べ始めたのだった。
私は黒い獣達に食べられ、みるみる消えていく男の姿をただ黙って見守る事しかできなかった……
「なにそれ? 本当の話なの?」
そこまで彼女の話を聞いたわたしは、少し笑ってそう言った。性質の悪い冗談だろうと思ったからだ。
彼女は軽く笑うとこう返す。
「これが本当の話なのよ。困った事に」
まるで真剣さがない。明らかにふざけている。
「そいつらさ、それから今度は私に憑くようになっちゃって、離れてくれないのよね。どうも、私がまた誰か人を殺してくれると思っているみたい」
そう言った後で肩を竦める。
「はいはい」
と、すっかり冗談だと思っていたわたしはそう返す。
ところが、それから彼女は「――でね」、と言って急に口調を変えると、
「そういえば、“死ねばいいのにって思っていた人ならいたなぁ”って私は思い出したのよ」
そう続けるのだった。
「またまたぁ」
付き合ってられない、とばかりにわたしはそう返す。
が、しかし、その時だった。
「ミー、ミー、ミー」
そんなか細い切なそうな鳴き声が私の耳に響いて来たのだ。
「顔も態度も性格も、全て可愛い愛され上手の誰かさん。
あんたみたいな人は、きっと“嫉妬”なんて醜い感情も知らないんでしょうね」
そう言うと彼女はゆっくりと笑う。目は笑っていなかった。手には包丁が握られている。
「嘘でしょ?」と、わたし。
まだ彼女はにっこりと笑っている。何も応えない。「ミー、ミー、ミー」という鳴き声はどんどん大きくなっていった。
そして、あまりに密度の増したその声は、わたしの聴覚を埋め尽くし、聴覚ばかりか、やがては視界をも真っ暗に変えてしまったのだった。