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6、琴美の話

 次の日、彼らは前日と同じメンバーで再度富山家へやってきた。寅吉に言った通り家族それぞれから話を聞くためだ。ただ家に入る気はない。学生である申吉と戌吉に関しては学校が終わってから、寅吉は会社から帰ってきたところを狙うつもりだ。ではこの昼日中に何をしているかと言えば、買い物等で出かけるはずの家政婦の琴美を待っていた。

 彼女からまず初めに話を聞こうと言い出したのは進だった。大学生である申吉ならば、コマとコマの間に話を聞くことできた。だがそれよりも進は琴美の話を聞くのが先だと言う。

 なぜならば、彼女が初めて対面したとき明らかに何かを知っているような反応をしたからだ。それも、亀吉の妻である美奈子に対して何かしらの含みがある様な。


「琴美さん、今いいですか?」


 にこやかにほほ笑んで進はちょうど門から出てきた琴美そう言った。声をかけられると思っていなかった琴美は小さく悲鳴をあげた。


「あ、け、刑事さんと探偵、さん?」

「水月でいいですよ」


 知り合いだと気が付き琴美はほっと息を吐いた。そのどこか過敏な反応に意味深に顔を見合わせる。ただ予断は禁物だ。


「驚かせてしまいましたね、すいません」

「いえ……その、旦那様があんなことになって、少し」

「女性の一人お歩きは怖いですからね」


 同じ女として瞳が琴美の言葉を引き継いだ。彼女の答は別に十分に想定されたものだ。怪しむべき点などどこにもない。殺人事件の合った家に仕えているのだ、少し神経が高ぶっても仕方がないだろう。

 ただ問題なのは、その恐怖が何か一定の人物に向けられていないかと言う点だ。それを話を聞きながら推測していかなければならない。


「これからどちらに行かれるんですか?」


 進の言葉に琴美は言葉少なに答えた。緊張ぎみに伏せられていた目線がゆっくりと上がる。彼女の繊細さが透けて見えるような気がした。


「買い物に……」

「よければ車に乗りませんか? 送っていきますよ」

「いえ、すぐ近くですので」


 浩二の提案に琴美は慌てて首を振った。まだほとんど知り合って間もない、それが刑事とはいえ、人間の車に乗る勇気はないのだろう。

 断られるのはあらかじめ予想していたので慌てることはなかった。ではその代わりと進が別の提案をする。


「ではスーパーまでご一緒しても? 昨日寅吉さんから聞いていらっしゃるとは思いますが、みなさんのお話を伺いたいので」

「は、はい」


 さすがにそれは断るわけにもいかず琴美は頷いた。

 話は決まれば立ち止まっている必要もないと四人は曇り空の下歩き出した。主に質問するのは進の役目だ。もともと浩二と瞳は進の補佐がメインなのだからそれに異存はない。


「もしかしたら警察から聞かれたこととかぶっているかもしれませんし、お辛いことを思いださせることになると思いますが……」

「はい、なんでしょうか」

「まず被害者である亀吉さんを見つけた時、何か不審な物音や人物を見聞きしたということはありませんか?」


 買い物袋代わりの籐の籠を揺らしながら、琴美は深く息を吸って考え込んだ。籠をさげた右手を抱え込むように左手で体を摩っている。非常に不快な記憶であるのは分かっているので、ゆっくり答えを待つ。


「……私が見た限り、とくには」

「亀吉さんがお亡くなりになっていた場所は離れの彼の書斎に近い場所だったと記憶していますが、その時書斎の障子は?」

「確か開いて、おりました。……ええ、開いておりました! 書斎にはこれまで富山のお屋敷で飼っていた猫の絵が飾ってあるんですが、それを見た記憶がありますの」


 進はそういえば富山家は猫を飼っていたなと思い出した。特に重要なこととは思っていなかったので完全に失念していた。

 ただ死体が消えたのがもしも動物のせいならば、猫にも一応気を付けなればならないなと考えを改めた。

あれから探偵事務所に帰った進は浩一に相談しようとしていた。だがしかしその浩一はいなかった。


 机の上に置かれたメモには『死の匂いの消失に関することでちょっと出てくる』とだけ書かれていた。携帯電話も持っているのだからそれで連絡をよこした方が確実ではないかと思わなくもなかったが、こうしたイタズラじみた行いは浩一のくせのようなものだから仕方ないと思い直した。


 見た目に反して、彼は携帯のタイピングがあまり得意ではないのでめんどくさかった可能性もある。


 だがそんなことよりも、このタイミングの良さには舌を巻く思いだった。まるでこの異常事態を予見したような日取りにため息をつきたくなる。ただこれでしばらくは進が主体で動かねばならなくなった。

 どこであるかは聞いていないが、日本でない可能性もあった。一応、もう一人亡くなっている可能性とその匂いが途中で消えている可能性はメールをしておいた。


「そういえば僕、こちらで飼われている猫にあっていないんですよね。かわいいですか?」

「ええ、人懐っこい子で、よく外にも出ておりますからもしかしたら水月さんも家ではなく外で見かけるかもしれませんよ」


 本当にかわいがっているのだろう、琴美は初めて小さく笑みを浮かべた。


「五十嵐刑事その猫見たことあるんだっけ?」

「え、あ、はい」

「じゃあ見かけたら僕にも教えてね」


 話をふられるとは思っていなかった瞳はあわてながらも頷く。事件とはあまり関係のない話題で琴美の緊張も解けたのだろう。それを表情から見て取って進は気を引き締めた。ここからが本番だ。何気ない様子をつくろって聞く。実際たわいのない質問だ。


「琴美さん、ネコの名前はなんていうんですか?」

「三毛猫だからミケ。安直でしょう? 旦那様がお付けになられたんですが……」


 少しだけ痛みの残る苦笑で彼女は言う。自分の子供の名前ですからいささか問題のありそうな名前にしてしまっている亀吉だ。まだミケなだけマシだろう。


「ご主人もミケをかわいがっておられたんですね」

「ええ」

「じゃあミケもご主人がいなくなってさみしいでしょうね」


 琴美は進の言葉に微苦笑でうなずいた。


「ミケを一番にかわいがっていたのは奥様ですけど、同じくらい旦那様もかわいがっておられましたからね」


 懐かしそうに琴美は語る。その横を黒い猫が横切った。人間などに興味はないといわんばかりに横切る黒猫の首には真っ白な首輪が付いていた。

 動くたびにちりちりと鈴が鳴る。その猫を優しげな眼で見るのだから、琴美も猫は好きなのだろう。出なければここまで穏やかに話せると思えない。


「そういえばミケは亀吉さんが発見されたときはどこにいたんですか?」


 進の質問が予想外だったのだろう。隣を歩く進をまじまじと見た。だがあまりにもぶしつけな視線だと自分で思ったのだろう。

 少し顔を赤らめて前を向く。ただ耳は赤らんだままだ。肩を縮こませて謝意を伝えると、えーと、と言いながら琴美は記憶をさかのぼった。

 だがそうしてしばらく考えていた琴美はなぜか首を傾げた。


「いつもなら、奥様と一緒に食事をとるんですけど……」

「いなかったんですか?」

「はい」


 これが事件にどう関係しているか想像がつかない浩二と瞳は目と目を合わせて首を傾げた。それは問われている琴美も同じだ。進の質問の意図が分からず困惑した顔で彼を見ている。

 だがそれに関して進はまだ答える気はなかった。もともと自分でもよく分かっていないのだから答えようもないないのだが。ただ動物の関与が多少疑われているので、一応ミケの様子を聞いておこうと言う考えが中心になっているのは否定しない。


「すいません、ちょっと気になったもので」

「はあ……」

「では亀吉さんは琴美さんにとってどんな雇い主でしたか?」


 人当たりのよさそうな笑顔にはぐらかされた。ただ深く聞いてもどうにもならないので新たな質問に素直に答えることにした。


「……もともと私の母は住み込みで富山家の家事を引き受けていたのですが、早くに亡くなりまして。そのまま私をお屋敷に住まわせてくださって。ついでに学費もと。そのころから何くれと亀吉様は私によくしてくださいました」

「奥様は後妻だそうですが、つまり亀吉さんとは藤村さんの方が付き合いが長いんですね」


 進の言葉にしばし押し黙った琴美は、しかし無言でうなずいた。そして少し慌てて言葉を繋げる。


「あ、あの。誤解なさらないでくださいね? 私と旦那様はしいて言うなら兄弟のようなもので。……もし妙な誤解をされておられるのでしたら……」

「大丈夫ですよ」


 優しく微笑んで進は琴美の瞳を見る。その時初めて、彼女は進の瞳の色が黒一色ではないことに気が付いた。いや、もはや黒ではない。なんと表現すればいいのか。よくあるのが少し茶色かかった黒ならよくみる。


 だが彼は違う。


 赤みのかかった茶色。今まで気が付かなかったのが不思議なほど鮮やかな赤。美しいルビーのような色。吸い込まれそうな赤。中心の瞳孔は完全に色が抜けたような金色をしている。その不思議な赤い瞳が琴美を射抜いた。

 ふらりと琴美の体が傾いだ。それを浩二が支える。


「大丈夫ですか?」

「え、ええ」


 浩二の方を向いて琴美は弱々しくうなずいた。そっと浩二が手をはなす。倒れることもう一度彼に頭を下げた。何となく立ち止まってしまった一同。その際瞳は進が何かをしたような気がして浩二を見た。だが彼は静かにと言うように唇に指を当てる。ただほんの少し進の背を睨み付ける。

 後ろ二人のやり取りとは裏腹に、進は何事もなかったかのように話を進めていた。琴美が進の目を見ると、先ほどのことは幻覚であったかのように普通の黒い瞳がそこにあった。ざわりとふく風の音がまた一瞬現実感をなくす。ただ二度目だったので琴美は耐えた。深く息を吸って吐き出す。


「お疲れでしょう。車を回しますよ」

「い、いえ。本当に大丈夫です」

「では僕らもそのスーパーまでお付き合いして、帰りは荷物を持つのを手伝います。大丈夫、どうせ途中車を止めているところまで帰り道はほとんど一緒ですから」


 さわやかな笑顔でそこまで言い切られると琴美も断りづらい。実際倒れかけたのだ。それも幻覚のようなものを伴って。

 疲れているのは自覚していたのだが想像以上に疲れているのかもしれないと琴美は思った。後ろを振り返って無言で刑事たちによいのかと尋ねる。


「色々あってお辛いでしょうから、これくらいならお手伝いしますよ」

「問題ないですよ」


 瞳、浩二の言葉に琴美はすまなさそうな顔をしながら、進の言葉に同意した。

 再び歩き出す。


「ではご家族の仲はどうでしょうか? 寅吉さんと美奈子さんは血が繋がっていないとお聞きしましたし、そのあたりの確執などは?」

「ありません」


 妙にはっきりとした声で彼女は言った。ただ自分でも言い方が少々まずかったのは気が付いたのだろう。気まずそうに視線を彷徨わせて言い直した。


「すいません。ほとんどはないんです。ただ、その……」

「もしかして寅吉さんだけが何か負い目を感じているんですか?」


 進の言葉に琴美は言葉少なくうなずいた。角を曲がると目の前にスーパーが見えてきた。とりあえず話はここまでで続きは店を出てからにしようと言うことになる。

 誰にも異存はない。そもそも人通りも多くなってきたこんな道中で家庭の事情は話すものではない。


「じゃあ僕らはついでにお昼買っちゃおうか」

「そうしましょうか」

「昼飯くらい経費で落としてやるよ」


 浩二の頼もしい言葉に進は笑顔になった。


「あ、何かあったらいけないから五十嵐刑事は藤村さんに」

「はい。じゃあ私サンドイッチでお願います。月原刑事分かります?」

「おう。あと飲み物は冷たいミルクティーだろ?」

「はい!」


 そう言って四人は男同士、女同士で店内に入った。

 浩二は進と適当に昼食を選びながら愚痴めいた叱責を進にしていた。


「お前なあ。そうホイホイ力を使うな」

「あ、やっぱり浩二にはばれるね」


 あははと笑いながら進は自分より背の高い浩二を見上げてそう言った。浩二が言っているのは先ほど琴美が倒れそうになった時だ。彼女はあの時進の瞳が赤いと感じたが今は違う。どこにでもある様な黒の瞳だ。光の加減では少し茶色かかって見えるが赤と感じる要素はない。

 それは認定能力者の特徴。アクアマリン症候群と名付けられた通り彼らが力を発動すると瞳が澄んだ青色に変わるのに似ている。実際同じようなものなのだ。ただ進をはじめ、数人その色が青ではなく赤に変わるものがいる。


「力で彼女になんか暗示でもかけたのか」

「まさか。そんなことしないし、それにそこまですることを今現在の状況では許されていない」


 肩をすくめて進は言う。浩二がもつ買い物かごの中に適当に食料を入れていく。瞳の分は数種類のサンドイッチを浩二が選んでいる。よく彼女が食べているのを見かけていたので浩二に迷うそぶりは見られなかった。

 他の買い物客は親子にも見えないがまっとうな社会人にも見えない二人に首を傾げるものもいたが特別に注意を払う者はいない。ただオフィス街から距離のあるこんなスーパーに背広姿の男二人は目立つ。できるだけ固有名詞は避けるようにしていた。


「ただちょっと、嘘をついているかどうか探っただけだよ」


 なんでもないことのように言うがそれはつまり琴美の精神に外部から無理やり働きかけたと言っているようなものだ。

 探偵と探偵助手には多くの行動制限がある。探偵と比べて助手はその制限が少ない。彼らは探偵と比べて能力に差がある。進は自分でも言っていたが、彼の力は探偵である浩一から借り受けているようなものなのだ。故に探偵はまだ直接事件に関わることができず助手の方が出張ってきている。


 さてその行動制限の中にはもちろん能力の使用制限もある。それは他の能力者に課せられる能力制限にも含まれるのだが、やむに負えない事情――たとえば自分もしく第三者の命が著しく脅かされていると等――の場合をのぞいて他者の精神に働きかけるような能力を使ってはならないとういうものだ。

 明らかに進はその条項を侵している。人の多い場所なので浩二は軽くにらむだけにとどめているが、進はその心情が手に取るようにわかる。分かっていて彼はなんでもないように肩をすくめた。


「探偵とその助手は事件解決のためにいくつかの特例も認める。それは忘れたわけじゃないだろう?」


 彼の言っていることは正しいので浩二もしぶしぶ頷く。もちろん進の言い分を百パーセント支持してのことではない。かなりの面で不満に思っている。

 そもそも浩二は、進と自分の双子の兄である浩一が精神に干渉する能力を持っているとあまり他人に知ってほしくないのだ。知らしめてしまうような危険な行いもやめてほしかった。


「分かってる。わっかちゃいるが……」

「僕もお前の言うことは分かってるよ」


 進は苦笑して浩二の背を叩いた。


「そら、そろそろ会計よろしく!」

「ほんとに分かってんのかよ」


 スーパーの入り口に立った進はもう一度ため息をついた。自分のたちのせいで出世するなかで浩二はずいぶんと不愉快な思いをしてきたのを知っている。

 だがそれでも進と浩一を見捨てることなく、昔と変わらない態度で接してくれてる彼の存在はありがたかった。能力に関しても多少、普通の人間らしく『嫌悪してくれる』部分もあるが、おおむねうまく付き合ってくれていた。

 ただこの精神操作関係はダメだった。自分がされそうになって恐ろしいということではない。進と浩一がその力を当たり前に使えるようになることを危惧している。

 人間であってほしいという浩二の願いだ。


「変わらないな」


 見た目に似合わない、実年齢の四十過ぎの男の口調で彼は無意識に呟いていた。哀切じみたその呟きに気が付いたものは誰もいなかった。

 浩二が会計を済ませ戻って数分後女性陣も集合した。せっかくだから重たい調味料類も買ってしまったと申し訳なさそうに言う琴美から半ば強引に荷物を奪って帰路に就く。どうやら瞳が買ってはどうかと進言したらしい。


「重いでしょう、すいません」

「いえいえ、これくらいどうでもないですよ」


 一番重いものを浩二がもち、比較的軽いものを進がもっている。瞳には自分たちの昼食を持ってもらっていた。その中で手荷物がほぼない琴美がしきりに恐縮していた。

 だいぶ人通りがまばらになってきたところで進が話を再開する。


「ところで琴美さん、寅吉さんのお話をいいですか?」

「……はい」


 今度は目を合わせることなく進は話を始めた。


「寅吉さんは亀吉さん、つまり寅吉さんのお父さんの会社をお継ぎにならないと言うことですが、それはなぜでしょう」

「さあ? ただ奥様とは血がつながっておりませんので、それで気を使ってではないでしょうか?」

「なんだか僕には気の使いすぎのように思えるんですけれどね」


 さらりと何かを匂わせるような進の発言に琴美の背中が一瞬揺れた。だがそれは頑な彼女の防壁を崩すには至らない。逆に彼女の警戒心を強める。それくらい分からない進ではない。

 何を企んでいるのかと浩二は首を傾げた。かさかさと荷物の音が道に響く。進の戯言じみた言葉に琴美は答えない。


「……他意はないですよ? ただ寅吉さんは優しい方なんだなと」

「ええ。亀吉様に似て、とても優しい方ですよ」


 琴美の言葉にふと瞳は疑問を覚えた。ただ今は進の邪魔をしてはいけないと口を噤んだ。ただその様子に進は気が付き、後ろを振り向いた。


「どうかしましたか、五十嵐刑事」

「え、あ……私からも一つ質問をいいでしょうか?」


 瞳の問いかけに琴美は振り返りながら頷いた。瞳は自分の疑問が許されたことにほっと息をついて琴美と並ぶ。その後ろ姿を浩二は静かに見守っていた。


「寅吉さんのお母様はどんな方だったんですか?」


 それは話を聞きながら瞳がずっと不思議に思っていたことだった。もちろん今は亀吉が殺されたばかりで彼の話がメインになるとはいえ、彼女の口から寅吉の実母、つまり亀吉の前妻、富山泉(いずみ)の話が一切出ない。

 瞳の問いに琴美は数度瞬きを繰り返した。困ったような表情をするとずいぶんと幼く映る。その口元に疲れたような苦笑を浮かべる様はどこかアンバランスで、同性の瞳ですら不思議とどきりとした。

「実は、あまり存じ上げておりませんで」

「え?」

「泉様は結婚してすぐ寅吉様を授かったのですが、同じころ私は少し体を壊しまして。そのせいもあって産後の肥立ちが悪くお早くに亡くなってしまった泉様のことはあまり……」

「そう、だったんですか」


 琴美の答に瞳は続けるべき言葉を失った。ではあの家で寅吉の実母を実際に知っているのはあの家にはほぼいないということかと三人は考える。逆に言えば、美奈子に対して特別な蟠りもなく母と慕うこともできるはずだ。なぜそれをしないのか。


「しかしずっとこの家で暮らしておられたと言うことは、その時は入院を?」


 ふと疑問に思った進の問いに琴美はなぜか少し目線を泳がした。


「え、ええ。一郎(いちろう)様、ああ、先代の旦那様が病院の手配と、退院したのちに別荘の方を私の療養にと使わせてくださいまして」

「やっぱり別荘はお持ちなんですね。ちなみにやっぱりその別荘って熱海とかそういう場所にあるんですか?」


 さらりとした進の問いかけに琴美は一瞬言葉に詰まった。そして首を横にふる。


「いえ、その……」


 琴美が答えのはここから少し離れた場所にある海岸沿いの町だった。特別に都会でもなく、また極端な田舎でもない平凡な町だ。それをさらりと取り出した手帳にメモしながら、進は話を戻した。


「では寅吉さんは琴美さんが育てられたんですね」

「そうですねえ。さすがに乳母を雇うほどの余裕もありませんでしたし」


 乳母という言葉に瞳は目をパチクリした。いまどきそんな単語がきかれるとは思いもしなかったのだ。家政婦さんがいるだけで十分驚きなのに、なんのためらいもなく乳母という単語が出てきた。この辺りは裕福な家庭が多いことが関係しているのだろう。


「はあ~乳母ねえ。この辺りでは普通なのか?」


 浩二の問いかけに琴美は首を傾げた。斜め上を見ながら考える。ちょうど雲の切れ目から太陽が差し彼女は思わず目を閉じた。その時小さく猫の鳴き声が聞こえた。


「にゃー」

「あら、ミケ?」


 声のした方を見るが特に何もいない。ただ街路樹の上の方にちらりと白と茶色のしっぽが見えた気がしただけだ。ただ木から木へと動くのが梢の音で分かるだけだ。


「今のがミケですか?」

「ええ。たぶん」


 身軽に木々を移動するミケの音を聞きながら進は何とも名状しがたい顔をしていた。ただそれを琴美と瞳は見ることができない。ただ後ろにいた浩二は見ることができた。そして彼の口が「死の匂い」とつぶやくのに気が付いた。

 あっという間にどこかへ姿を消したミケを見送りながら、浩二からの質問を思い出した。


「あ、乳母の話でしたね。亀吉様の前の代、一郎様の頃はおりましたよ。私は母からそう聞いております」

「ほお」


 にこやかにそう答える琴美に浩二たちは何となく首を振った。理解できないと言う顔に琴美は笑みを深める。今は乳母を使うような家はほとんどないとはいえ、あまり一般的ではないことは実感している。


「では寅吉さんの世話もしながらあの広い家を切り盛りするのは大変だったでしょう」

「そうでもありません。寅吉様は赤ん坊のころからおとなしい子でしたから」


 実の子のことを語るように楽しげな様子の琴美。そこに声がかかった。


「話を聞くということでしたが、まさか私の変な話までしていないでしょうね」


 そう言って後ろからやってきた車から降りて話すのはちょうど話の中心になっていた寅吉だった。


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