5、本庁
あれからどうにか日が完全に暮れ落ちる前に下山し終わった三人は、とりあえず今日できることは何もないと言うことで解散となった。進を探偵事務所に送り届けると浩二と瞳は本庁へと帰った。
そこで別の刑事たちが調べ上げた事件に関する事柄をチェックした。帳簿からは特に何も怪しい点は見つからなかったのはすでに分かっているが、現場の人間から話を聞く限り経営におかしな点もなかった。社長の亀吉は多少厳しいこともあるが従業員たちからは慕われていて特に誰それに恨まれているということもないらしい。
またいわゆるライバル会社や取引先の会社などからも目立って悪い噂は聞かなかった。質の良い商品を納入してくれるので潰れては困ると言う話もちらちらと聞かれたくらいだ。また原料を仕入れる先も、この不景気にもかかわらず金払いの良い富山工業は大事なお得意様だったらしく、同じく潰れると困るらしい。
「今は副社長や常務が運営しているみたいですね」
会社の方の捜査に当たっていたのは瞳と同期――つまり新人刑事の百谷信一郎刑事と、その教育係り的ポジションになっている木下誠刑事。信一郎は軽く髪を茶色に染め、また仕事中はつけないが、耳に二つ、三つほどピアス穴をあけた刑事だ。いつもへらりと笑っていて相手が思わず油断してしまうような雰囲気がある。ただ人をみることに熟知した刑事たちの見解は案外性格は悪そうだというのが全体の一致した見解だった。
逆にベテランの木下刑事は生真面目一辺倒で、常に眉間にしわを寄せているような人間だ。短く刈り上げた髪と角ばった顔形で少々近寄り語りイメージがある。ただプライベートではそうでもないようで、結婚二十年になるが今でも奥さんとは仲が良く、一卵性双生児の娘からもそれなりに慕われているらしい。携帯の待ち受けに二人の娘の写真にしているのを一部の刑事たちは知っていた。
一見正反対の二人だが案外馬があいそれなりにうまくやっている。信一郎がやんわりと懐柔し、木下が恐ろしげに攻める。もちろん無理強いはしないが、刑事という言葉に身構えるタイプの人間にはよくきいた。
「ただ被害者のことがあんまりにも急だったので、次の社長でちょっともめているみたいですね」
「本来長男の寅吉が跡を継ぐ予定だったが……」
「継がずにベンチャー企業を開いたわけだ」
木下の言葉を浩二が引きついた。むっつりと黙って木下は頷く。別に機嫌が悪いわけではない。常にこんな状態なのだ。そんな木下のことは意に返さず浩二は腕を組んだ。山登りが意外ときつかったのかカッターシャツの腕をまくり上げている。
「二男の申吉くんはまだ大学生だ。三男の戌吉くんに至っては高校生。とてもじゃねえが会社を継ぐってわけにはいかねえな」
「ああ。だがとりあえず申吉くんが大学を卒業するまでは副社長が社長代理として動くらしいが……」
意味深に言葉を切った木下に浩二は苦々しげな顔をした。
「間違いなく会社内で分裂するぞ」
浩二の言葉に今度は信一郎が答えた。どことなく皮肉っぽい笑みで自分たちが見聞きしたことを伝える。
「実際、すでに副社長派と専務派で派閥が出来上がっているそうですよ。ただあんまり争いごとが得意な会社じゃないらしく、余り表立ってはいませんが」
しかしそれはまだ表面化していないというだけだ。もし申吉が大学を卒業してもすぐすぐに社長の椅子に座って業務ができるものでもない。そこでも誰が申吉の後継人をするかの争いになるだろう。下手をすれば富山工業は富山家から完全に離れてしまう。
「それが、犯人の狙いなんでしょうか?」
瞳の言葉に木下は首を横に振った。
「もし富山工業に恨みがあっての犯行ならこんなまどろっこしいまねはしない。あるいは富山家に恨みがあって、会社を手放すように犯行に及んだとしてもほかにうまいやりようがあったはずだ。被害者本人をもっと苦しめるような、そんな方法でな。現段階で家族単位に恨まれるような真似ができるのは被害者と長男くらいしかいないからなあ」
確かにそうだがあまり気分のいい話ではない。まだ学生である申吉と戌吉が恨まれたとしても家族まで塁の及ぶような話には早々ならないだろう。彼らの母であり被害者の妻である美奈子とて同じだ。家族という点では藤村への恨みは除外できる。
つまりこれはもう亀吉本人への怨恨か、あるいは会社を自分のものにしてしまおうという人間の犯行かだ。後者なら容疑者は二人に絞られるので話は簡単なのだが、可能性は低いと踏んでいた。
「長男の寅吉くんが会社を継ぐっていえば話は簡単なんだがな」
浩二の呟きに三人が同意とばかりに頷いた。そう、すでに会社経営の経験がある寅吉なら十分富山工業を継げるのだ。立ち上げたベンチャー企業は友人数人との共同経営で、彼が抜けても何とか動かすことはできると聞いている。
ただ責任感の強い寅吉の事なので申吉が社長業を継げるとなれば喜んで身を引きそうではある。
だがもともとは寅吉が継ぐ予定だったので、やはり会社を引き継ぐと言えば嫌と言う従業員もいない。逆にもろ手を挙げて喜ぶだろう。
「実際、専務も副社長もそんなことを言っていましたよ」
今以上の地位を望んでも自分にその責務は背負えないとほかの従業員のいない前ではぼやいていた副社長と専務の人のよさそうな顔を思い出し何とも言えない表情で信一郎は付け加えた。特に二人は現場畑の人間で、仕事が経営メインになると現場に出れなくなることを危惧していた。
会社関係はやはり外れそうだなと思いながらも、木下と信一郎はもう少し詳しい話をまた別の方面から聞いてみると言うことになった。そこで木下は浩二たちに言った。
「お前らの方はどうだったんだ。例の探偵と富山家まで行ったんだろ?」
木下の言葉に瞳と浩二はどうしようかと目線を交わした。まあこの二人なら大丈夫だろうと判断し少し声を落として言った。
「……これはまだ捜査本部には言ってねえんだがな」
「もう一人死んでいるかもしれないんです」
二人の言葉に木下は普段の二割増しで恐ろしげな顔になった。話には聞いていたアクアマリン症候群の患者関係の捜査を担当する探偵の仕事ぶりに興味津々だった信一郎はぽかんと口を開いた。
『死んでいる』はなく『死んでいるかもしれない』という彼らの言葉がよく分からなかった。ただ当事者二人もいまいちよく分かっていないので説明しようがない。
「本当は家族から事件の様子やいろいろ聞き出す予定だったんだが、探偵、ああ、助手の方な、そいつがもう一つ死体があるって言い出すもんだからそっちを優先したんだが」
苦い顔で言葉を切る浩二に木下は厳しい顔のまま言った。
「見つからなかったのか」
「おう」
弱り切った浩二の言葉に信一郎は瞳を見た。ただ彼女は浩二以上に現在の状況が分かっていなかったので分からないと横に首を振るしかなかった。
「そりゃあお前、例の探偵助手が間違えたんじゃねえのか」
瞳も信一郎も木下の言葉には賛成だった。特に信一郎は実際に目にしていない分、探偵と探偵助手という存在がまるでおとぎ話の中の登場人物のように感じられているのでその思いはこの中で誰よりも強い。
だが浩二はそれはないと木下の言葉を否定した。
「あり得ない。あいつが死体の存在を勘図いたならそれは絶対に存在するはずだ」
「あのな浩二、いくら身内だからって絶対の信頼は置いちゃいけえねえ。分かってるだろう」
木下のなだめるような言葉に浩二は苦い笑みを浮かべた。ちらりと瞳を見て、少し迷うそぶりをする。
「身内なんざ関係ない。俺はあいつらがそれを間違えないと知ってるんだ」
「本当にそうか?」
情に流されて判断ミスをしてないかと木下は暗に問いかける。だが浩二は再度強く首を横に振った。
「ない。絶対にあいつらは間違えない。もしそれで間違っているなら、それこそ『あり得ない事態』だ」
アクアマリン症候群の認定能力者が起こす出来事を刑事は『あり得ない事態』と言い表すときがある。その『あり得ない事態』があったはずの死体とそれに付随する死の匂いを消したと浩二は主張する。
その様子をじっと見ていた木下は深く息を吐いた。
「ま、そっちはお前の専門分野だ。これ以上とやかくは言わねえよ」
「おお、わりいな」
とりあえずの現在の死体のない状況では何ともしようがないのでこのことはこの四人の胸の内にしまっておいてくれと言う浩二の言葉に木下と信一郎も頷いた。しゃべったところで困ったことになるのは目に見えている。
とくに木下は探偵が関わる事件ではたまに常識が通じないことがあるあるとよく知っていたので誰にも言うつもりはない。
情報交換も終わりそろそろ帰り支度をしようということになった。帰り支度を少し嬉しそうにする浩二に瞳が問いかけた。
「何かいいことあったんですか?」
「いや、今日は恋人が休みなんでな」
いささか胸焼けしそうな言葉を言って浩二は言って、それではお疲れさまでしたと一礼して刑事課を後にした。何ともいえない気分を振り払うように瞳が木下のほうを見ると、今度は何やらまるでレモンをまるごと一個飲み込んだようなすさまじい表情をしている。
「ど、どうかされたんですか?」
「いや……胸焼けがな、うん……」
「ああ、月原先輩って彼女さん思いなんですね」
確かにその気持ちは分かると瞳が苦笑して言うと、なぜか新一郎と木下以外の刑事たちが一斉に彼女を見た。その何かを言いたそうな、喉に骨が挟まったような顔に彼女は驚くが結局誰も何もいわない。その反応に瞳と新一郎は首をかしげる。
「おお……そうだな、まったくな。じゃあ気を付けて帰れよ。お先に失礼」
「あ、はい。お疲れ様でした!」
くたびれ果てたと言わんばかりの木下の背を見送った瞳は、同じように狐に包まれたような顔をしている信一郎と共に首を傾げ何となく二人で帰路についた。