4、追跡
来た時と同じように浩二が運転席に乗り込んだ。ただし助手席には進が乗っている。富山邸が見えなくなったところで、何も言わず浩二が邪魔にならないよう道端に車を止めた。
「で、何を見つけた進」
「うーん。いやまだ見つけたわけじゃなんだけどね」
二人のやり取りに目を白黒させていた瞳は恐る恐る声をかけた。
「あの、いったい……」
「ああ悪い。こいつがあの現場でなんか気が付いたみたいでな」
「え?!」
まったく気が付かなった瞳は目を見開いた。現場では彼がいったい何をするんだろうとじっと見つめていた。少しの動きも変化も見逃さないようにしていたつもりだ。それは彼を信用していなかったからではなく、純粋に探偵の捜査方法に興味がわいたからだ。けれど特別なことには気が付かなかった。
「まあお互いにおしめしているような頃からの知り合いだからな。大体何を考えているか分からるんだよ」
少し苦笑ぎみ浩二は言った。瞳を慰めるような物言いでもあり、また事実を言っている淡々とした声にも聞こえる。それに瞳は少し笑って頭を下げた。理解と感謝のつもりで。
「で、進。何に気が付いた」
浩二は車のハンドルにもたれるように前かがみになって進をみた。予定していた家人への聞き取りを中止して優先する様なことだ。それなりに重大なことに違いない。
現に進も浩二の言葉に眉間にしわを寄せて難しい顔をした。人差し指で鼻の頭をこすり、首を傾げた進。そして慎重な口調で答えた。
「あの家、すごく最近もう一人が死んでる」
予想もしていなかった言葉に二人は固まった。なぜ分かるのか、どれほどの信憑性のあることなのか。瞳は分からないかこそ浩二よりも立ち直りが早かった。
「あの、それはどういう意味ですか?」
「あ、そっか。五十嵐刑事は僕の特技というか、能力ご存知ないんでしたね」
「はい……」
そう聞かれるとは思っていなかったのか、進は瞳の質問に少し驚きを露わにした。しかし自分がまだどんな能力を持っているのか説明していないことを思いだし苦笑する。このまま車を走らせて進むことも考えたが、それだと説明している暇はない。
出発が十分程度遅れようとも結果に変わりはないだろうと思い彼は説明を始めた。そのあたりの機微もきちんと理解し、浩二も好きにしろと肩をすくめて話を促す。
「僕はね、生きている者の匂いと死の匂いが分かるんです」
「死の匂い?」
生きている者の匂いならまだわかる。だが死の匂いはなんだろうと瞳は首を傾げた。進は少し苦笑しながら答える。
「僕も完全に理解できているわけじゃないから説明しにくいんだけどねえ」
そう言って前置きして進が説明を要約するとこうだった。
曰く、人間、動物にはそれぞれ生きたも者の匂い、便宜上と生の匂いと言う、と死んだ匂いがあり、彼はそれをかぎ分けることができる。生きた匂いの中には血の匂いや汗などに分類することでき、そして人間それぞれで匂いは微細に異なっている。問題は死の匂いだった。それは腐敗臭とは違うという。
初めてその匂いに気が付いた時からそれは死の匂いだった。酸いとも甘いともいえない。何とも形容しがたい匂い。しいて言うならその匂いは、
「食べ物じゃないって本能に訴える感じかな?」
という進の言葉。それに浩二はピクリと反応した。ハンドルにもたれてぼんやりと進の話を聞いていたのだが、その筋肉質の肩を揺らして若干の不快感を露わする。あるいはおそれだったのかもしれない。だが何を恐れるのか、それは瞳には分からない。
話している本人である進はその浩二の様子に少しだけ悲しげな様子を見せる。ただそこには若干の諦めも見て取れてますます瞳は混乱した。
「まあ、もうちょっと詳しい説明が聞きたかったら、うちの探偵に聞いて。というより、僕の力は浩一の力の一部だからね」
ますますわけが分からなくなったが、今はこれ以上の説明は無駄なのは分かった。申し訳なさそうな進の表情を見ると無理強いはできない。
「えーと、つまり、あの部屋で水月さんは死の匂いを二つ嗅いだんですか?」
「そう。しかもかなり新しい。一つは亀吉さんなのは確かだと思うけど……ただ両方とも生きている時の匂いを僕は知らないから、いったい誰の匂いなのかが分からなくて……」
「けどまだ追えるんだろ?」
浩二の言葉に進は頷いた。真剣な眼差しで前方を見る。
「まだ追える。死体は今ないから事件にならないけど、死体を見つければ話は違ってくるはずだ」
車にエンジンがかかった。浩二が気を利かせて車の窓を開ける。進が匂いを追いやすいようにという配慮。だが初夏に近いこの季節、まだそれほど熱くはないが、車の中はそれなりの温度となるので窓をあけるとちょうど心地よいほどの温度になる。
だがその気温ではない理由で瞳は背筋に冷たい汗が流れるような気持ちがした。何度も足を運んだ殺人現場でもう一つの事件が起こっていた可能性を示唆されたのだ。それが今回の事件と無関係とは思えない。いやどう考えても関係しているだろう。
だがそれは死体がなければ自分たちは気が付かなかったかもしれない。それが恐ろしかった。そしてそれがこんなに簡単に分かってしまう進も、頼もしいと同時に恐ろしかった。
「怖いか?」
「え」
唐突に浩二はそう言った。バックミラー越しに自分を見つめる視線は厳しく暖かい。窓の外に鼻を突きだして匂いを嗅いでいた進には無頓着に彼は言葉を続ける。
「人間は今まで経験したことに対して恐怖を感じる。それは決して悪いことじゃねえ。ただな、その恐怖で正しい判断を下せないのなら話は別だ」
普通こんな話は本人のいない場所でするべきだ。それをこうして今ここで話すと言う行為に、瞳は自分が試されているのを感じた。けっして間違っていないだろう。シートベルト閉めながら瞳の答を待つ浩二。
「少し怖いです。けれどそれが罪を犯す犯人への憤りに勝つかと言えば答えはNOです。私は犯人を捕まえたい。心を痛める被害者とその関係者を少しでも、とても独りよがりな感情かもしれないですけど、救いたい」
瞳の答にしばし黙った浩二はふと優しく微笑んだ。
「おい、方向は分かったか進」
「うん。こまま真っ直ぐ。たぶんあの目の前の山」
首を外に出したままの進の襟首を掴んで座席に引き戻した浩二。進は何も言われずともシートベルトを締めた。それを確認して浩二は車を発車させた。目指すのは進が言った目の前にそびえたつ小さな山だ。
「五十嵐刑事」
「はい」
運転しながら浩二は瞳に声をかけた。にやりと楽しげに笑う。
「いい答えだ」
見れば進も少し嬉しそうに笑っていた。
「五十嵐刑事、これからもよろしくね」
ちらりと振り向いてはそう言うと、進は五十嵐に手を伸ばした。その意図を察し彼女はその手を握る。その手は暖かく、普通の人間となんら変わらない。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そして一同は進が示す進行方向へ車を進めた。
途中から山道を上る為に徒歩となった三人。周辺ではメジャーなハイキングコースであるらしくたまに地元の人間らしき人とすれ違った。スーツ姿のどう考えてもハイキング向きではない三人組にいぶかしげな視線を向けるが、深く突っ込まれることはなく進んでいく。
歩きやすいように舗装されているとはいえ、もしこれが夜だったらほとんど足もとが見えず少々危険だ。だが歩けないほどではないだろう。森もそこまで木がうっそうと生い茂っているわけではなく、月明かりとライトがあれば歩けはする。
「どうだ、近そうか?」
「うーん」
森に入ってから進は険しい表情を崩さなかった。何度も確かめるように自分の背後と前方の匂いを嗅ぎ分けるように進んでいる。頼りになるのは彼の鼻だけなのだが、進行状況が分からないと言うのもなかなか辛かった。
しばらく進んでいたが、突然先頭を行く進が足を止めた。
「ダメだ! 匂いが消えてる」
「ああ? 今までそんなことなかっただろう」
ハイキングコースを外れてしまうと鬱蒼とした森に迷い込むことになる。その森の中に視線をやりながら進はうでをくんだ。匂いを頼りにすれば入っても問題なくたどり着くことはできるだろう。だがその匂いが耐えた今それは非常に危険な行為だった。
自分たちは山に詳しいわけでもない。それに今日は登山の予定など本来はなかった。三人とも体力はそれなりにある方だが、だかと言ってこれ以上進むのにはそれなりの準備がいるのは明白だった。
「……今日は帰ろう」
「いいんですか?」
瞳は名残惜しげな進の表情に思わず問い返してしまっていた。彼女の問いに彼は深くため息をついた。
「よくはない。だけど匂いが消えたからね」
「それが信じられねえ」
浩二は強いまなざしで進が見つめる先を見た。日が暮れ始め、人もまばらになってきている。見つける当てがないのならばそろそろ降りなければならない。
「今まで匂いが絶えたことなんてなかっただろう」
「そうなんですか」
「うん。犬とかは川を渡られると匂いを追えないらしいけど、僕はそんなことない」
名残惜しそうに視線をふきはがして進はきびきを返した。それに刑事二人も続く。柔らかい土や突き出た木の根に足を取られそうになりながらも順調に下山していく。その間に、進は独り言半分、瞳への説明も含めて言葉をつづけた。
「たぶんこれは物理的な匂いじゃないのかもしれない。実際血の匂いとかに限定すると全然分からなくなる時があるからね」
「それが消えた」
「そう、あの辺りを境にぷっつりと」
ちらりと後ろを振り返り、浩二は自分の考えを口にした。
「森の中は普通の町とは違って死も生もあふれている。それにまぎれたんじゃねえのか?」
なるほど、確かにと瞳も頷いた。あの地点から道を外れて森に入り、人が行き来している道にかろうじて残っていた香りが消えたというのは一理ある。だがそれは進によってすげなく否定された。
「あり得ない。僕が感じている匂いっていうのはそういう類じゃないし、それにほかの匂いに紛れるっていうならあの事件現場で亀吉さんの匂いにかき消されていたはずだよ」
進の言葉にそれもそうかと納得した。
「死の匂いは特別だ」
ほんの少し嫌そうに眉をひそめて進はそう言った。深い緑の香りが立ち込めるこの山の中に彼はどんな香りを感じているのか。
「生の匂いはたぶんどれも普通の人間が嗅ぐことができる香りだと思うんだ」
「血の匂いや汗の匂い、でしたっけ?」
「そうそう。あとはーあ! 足の裏の匂いも嗅ぎ分けられるよ」
いったい誰の足の匂いを嗅いだんだろうと瞳は思ったが、隣で浩二がすさまじい顔をしていたのできくのをやめた。何となく答えは分かった。足の裏の匂いを嗅ぐような状況にも少々興味はひかれたが触らぬ神にたたりなしである。
「おい、話変わってるぞ」
どすの利いた声で浩二が言う。それに対して進は肩をすくめた。自覚はしていたのでおとなしく話を戻した。
「死の匂いはそうそうなことがない限り消えないんだ」
「ではどういう状況で消えるんですか?」
「うーん……やっぱり時間経過かな? さすがに一カ月もすると消えるね。あとは火葬? けど骨が残るからそれに残った匂いで若干嗅ぎ分けられるし。それにあの場で火葬ができるようには思えないしね」
あとは何かあっただろうかと進は付き合いの長い浩二に視線を向けた。だが彼も自分が今まで関わってきた中で、時間経過以外で匂いが消えたというのは聞いたことがなかった。
その時不意にわきの茂みでがさりと音がした。突然のことに驚き足を止める三人。
出てきたのは蛇だった。いわゆる青大将と呼ばれる種類のそれになんだと胸をなでおろす。それで進はふと気が付いた。
「そういえば、もう一つ匂いが消える条件があった」
「なんですか?!」
「へえ?」
勢い込んで聞く瞳と、興味津々な表情の浩二。だがその二人とは裏腹に進はなぜか言いよどむように視線を削迷わせた。困ったように耳の裏を掻きながら話し始める。
「これは完全にそうだとは言えないんだけどね。もし遺体が動物か何かに食べられると消えちゃうんだ」
はてと浩二は首を傾げる。これまで扱った事件で、遺体の発覚が遅く動物や虫に食われた遺体というのもあった。その時は進も浩一も何も言っていなかったのだ。それを問いただせば進も浩二の言葉を肯定するように頷いた。
「そう、その時気が付いたと言うか、なんていうのかな」
「はっきりしねえな」
「仕方ないだろう。まだこの話は浩一と僕、あとは他の国の探偵との協議中だったんだから」
他の国の探偵も彼らと同じ力があるのだろうかと瞳はぼんやり思った。だがそれを聞けるような状況ではない。また後で聞けばいいかと進の説明を待った。
「そうした遺体を前にして共通して、死の匂いが薄くなってたんだ」
「そうだったのか」
「その損害が激しければ激しいほど匂いは薄くなる」
火葬の話ともつなげて考えれば、つまり遺体が消えれば匂いも消える。では遺体は食べられたのかと瞳は思ったところで、ゾクリと鳥肌が立った。完全に遺体が消える、つまり人間の遺体が骨も残さず食われたという言うことだ。
どんなに鋭い牙をもった動物でも人間の骨まで食べることができる動物なのそうそういない。しかもここは人も多く来る山だ。熊ぐらいはいてもおかしくないが、しかしそれでもかけら一つ残さず食われるというのはあり得ない。
「……あり得ない、ですよね?」
「と、思いたいんだけどね」
苦い顔でそうつぶやく進だが、それを浩二が鼻先で笑う。
「そういうおかしな事件担当がお前らだろ? やっとお前ららしい事件になってきたじゃねえか、国際連合認定能力者探偵さん」
「僕は探偵助手だけどね」
進のいいように浩二は肩をすくめた。探偵と探偵助手、その二つには明確に区別すべきだと言外に告げられた気がした。夕暮れが迫りよりいっそう暗くなる。その中を気持ち急いで進みながら、瞳はまだ知り合って間もない探偵とその助手への興味がむくむくと湧いて出てくるのを抑えられなかった。