第一話 黒髪の少女
目を開けたら煉瓦つくりの道が広がっていた。
普通と言えば普通である。煉瓦造りくらい今日日珍しくもない。
日本全国どこにでもある光景であろう。
それで有難がれるのなら毎日がお祭り騒ぎである。
そうではなくて、最大の問題は。
先ほどまで変哲のないコンクリの通学路を歩いていたはずの僕が、瞬きをした瞬間にまったく見覚えのない小洒落た道路に仁王立ちしている、ということで。
雑踏には骨格的に明らかに日本人じゃない人たちが闊歩。となりを見ればホロのかかった荷車がポツンと置いてある。
いやいやいや?おいおいおいおい!?
可笑しくないか、これ。
オッケーオッケー。まずは状況を整理しよう。
ずれ落ちかけた眼鏡をクイっと上げる。
深く鼻から息を吸い込んで、丁寧に口から吐き出す。
腹式呼吸で体の隅々まで冷たい空気を巡らし……
待て。今は夏だったはずだが。ええい、面倒だ。
これ以上思考する課題を増やしてどうする。
これだけでオーバーフローだというのに。
季節に関しては思考を放棄。そうして冷静な思考を心がける。
僕、桜風風時___読みづらいだろうが、サクラカゼフウトキ、と読む___は中学三年生、いわゆる黒歴史生産期を一年過ぎて、厳しい現実を突きつけられているものの、普通の少年だった。
目前には高校受験が控えて、はてさて進学先など全然考えてなかったぞ、と心胆寒からしめるくらいには平凡であり学習塾とか行った方がいいのかな?と真面目に思考するくらいには臆病で、しかし差し当たっては家で撮りためていた深夜アニメの消費をしてから考えても遅くはないだろう、なんて思うくらいには図太い性格であると自負している。
今日も特に変哲のない学校生活が終わり、今後の限りにない人生について思考しつつ、図書室で今日借りた本の内容は面白いのだろうか、なんて考えながら下校していた。瞬きしたら別の場所にワープしていた。
うん?どういうことだ、これ。
まったくと言っていいほど状況が掴めないのだが。唐突で飛躍しすぎ問題発生中。こんなところにたどり着く要素が欠片も見当たらない。
ふと、ネットか何かで聞いた話を思い出した。
ある男が、気が付いたらまったく見知らぬところにいた。
財布の中身を見てみるとまったく知らない人間の身分証明書や自分のものではないはずの携帯電話が入っている。
とりあえず自分の家族に電話をしたら、やけに大仰に驚かれた。
どうやら男は何年ものあいだ行方不明だったらしく、身分証明書に書かれていた知らない名前で生活していたようなのである………というような、怖い話の類として語られるもの。
不安に駆られた僕は、取りあえずケータイを出して見ることにした。
電波が圏外で繋がっていないようだ。
財布の中身に入っている学生証は、まさしく自分の覚えている通りの名前しか書いていない。
ちょっとした安堵と、圏外であるという事実にまたしても不安を覚える。
いや、待たれよ。電波がつながらない、など現代にあっても日常茶飯事。
むしろよくある。
そういう時は、ちょっと場所を変えてみれば案外簡単につながるものだ。
そうだ。そうであるに違いない!むしろそうであってくれ!
ふんふんふんっ!とケータイをシェイクしながら電波の繋がることを祈っていると
「どいてどいてっ!」
「おおうっ!?」
黒髪の少女が突進してきた。
彼女は僕の隣にあったシートの掛かった荷車を見つけると、その中に勢いよく飛び込んで隠れる。
僕がコメントに困っているとそのあとに妙なコスプレをした外人男性が三人走ってきた。男は周囲を探ったのち、僕の方に歩み寄る。
「すまない。少し聞きたいことがあるのだが」
その男たちは大仰な羽根飾りのあしらった帽子をかぶっていた。
そんなふざけた格好だというのに、その口調も表情も大真面目である。演技臭さも大仰さもなく、生活の一部としてその恰好を受け入れているように見える。
「は、はぁ」
そんな様子に気おされてしまった。曖昧に頷くしかない。
「黒髪の女の子を見なかっただろうか。年のころは16で……そうだな、君くらいの」
「えっと……それなら」
隣にいますよ、と言いそうになってふと考え直す。彼女は逃げていた。
事情は分からない。
もしかしたら分も何も目の前の男たちの方にあるのかもしれない。
彼女は万引きをしたとか、そういうので探されているのかも知れない。
が、しかし。先ほどの少女の、走ってくるときの表情を思い出す。必死だった。
何だかよく分からないが、必死の形相だったのだ。
その必死さは邪悪なものには思えなかった。
それが、僕に正直に語らせることを拒ませた。
「あっちに、あの大通りの方に走っていきました」
「ふむ……そうか。世話を掛けた。行くぞ」
羽根つき帽の男たちはそういうと、僕が指差した見当違いの方向に駆け出していく。僕はため息を吐いた。
彼らが見えないころになって、僕は後ろに隠れている少女に対して声をかける。
「もう行ったよ」
一拍おいてちょろっとだけ顔を出し、周囲に男たちが居ないことを確認して、ようやく身体を荷馬車から出し始めた。
用心深いことである。
「ふぅ。私、どうやら助けられちゃったみたいね。礼を言います」
少女は澄ました顔で僕に言い放った。
尊大ではあるが不快ではない。そんな印象の少女。
彼女は臙脂色のセーターとタイをきっちり占めた、やはり時代がかった服装をしている。
「別にいいけどさ。僕は見当違いの方向を言っただけだしね。それよか……恩を感じてくれているのなら、少し聞きたいことがあるんだけどいいかな」
「はい……?」
「いや、別に難しいことじゃない。ちょっとここら辺がどこか分からなくなっちゃってさ。出来れば道案内を頼みたいんだ」
「あなた、もしかして外から来ました?」
「あー……外っていうほど離れてるとこじゃないと思うんだけど」
「えっと。私が来た方が政庁で、あっちが中央広場、そっちが最近できた駅ですけど、分かります?」
全然分からない。
ついむぅ、と唸る。よっぽど態度に出ていたのだろう、女の子の方も困り始めた。
「というか、どこに行きたいんですか?」
「どこに行きたいっていうかさ、家に帰りたいっていうか……いや、そもそもの話なんだけど、ここが何処だか分からないっていうか……」
「はぁ?」
「うん。そもそも、ここ何処なの?」
「ジョージア領のカルドレスでしょ?」
何分かりきったことを聞いているんだ、と言わんばかりに怪訝な表情を向けられる。
ジョージア領、カルドレス。どちらを取っても聞いたことのない地名である。
噛み合わない。全くもって噛み合っていない。ことこうなると、ここが何県なんだとか、最寄り駅は何処だとか、そういうことを聞くのも何だかナンセンスな気がしてくる。そして嫌な想像が駆け巡った。
「ああ、うん。いいわ。分かった分かった。あれでしょ、アンタも何かワケアリって口でしょ?」
ワケアリ、というのならどんなに良いだろう。
もしかしたら僕は……今の僕は、何の事情も何の素性もない人間かも知れないのだ。
「うん、まぁ。そういう言い方も出来なくはないかもしれない」
「ハッキリしないわね。ま、いいわ。取りあえず貸し借りを無しにしましょう。私はそういうの嫌いだから。取りあえず……私はアナタの案内をするわ。それで、私はアナタの事情を聴かない。代わりにアナタは私の素性を聞かない。そうしましょう。いいかしら?」
言いも悪いもないだろうが、取りあえず頷くことにした。現状は何も分かっていないのだ。
だが、一つだけ確信に近く思ったことがあってそれは、
「僕はこの世界の人間じゃないのかもしれない」
「……いやまぁ、顔つきとと挙動を見ればここら辺の人間じゃないことくらい……」
「そうじゃなくて。僕は……」
異世界に来てしまったんじゃないか。そんな荒唐無稽で愉快な妄想が、今の僕の現状の最有力説となっていた。
異世界、あるいは平行世界。呼び方はなんでもいいがそれらは創作作品における鉄板であり常套の要素である。
僕とて文盲ではないし、人並み以上にサブカル方面もたしなんでいる人間だ。そういう作品群については理解はあるし、むしろ積極的に楽しんでいた。が、しかし。それが自分の身に降りかかるとなると、真っ先に襲い掛かってくる感情は楽しむとか怖れるとかじゃなくて、呆然しかない。
たとえば、これ見よがしな扉かなんかがあってそれを潜ったら、とかならまだ分かる。
実家の土蔵を整理していたら埃を被った羊皮紙を綴った古書を見つけて……とかならロマンがある。
もっとベタにトラックに弾かれたりしたら、諦めがつく。しかし、実際に僕が体験したのは、瞬きをした次の瞬間にはもう異世界と思しきところとコンニチワである。
そうなると釈然としない。理不尽さしか感じられないのだ。悪夢のようである。
が、いかに悪夢染みていても現実は現実である。
差し当たって僕がすること(というか出来ること)は情報収集と、状況把握に務めることしかない。
幸運なのは、突然目の前に現れた少女の案内を受けることができたことだった。
「異世界、ねぇ」
「胡乱気だね」
「そりゃ、ね。ありえないけど、転移魔術の実験にでも巻き込まれたんじゃない?そっちの方がまだ現実的よ」
「転移魔術……か」
「ちょっと、本気にしないでよ?自分でも突飛かなーって思ってるんだから」
恐らく僕の突飛と彼女の突飛は相当違う。僕は彼女がサラりと魔術、と言ったことに驚いているのである。
これでは異世界確定ではないか。
僕の判断の基準はその人の態度である。それをどれだけ当たり前のものとして受け入れているか、それを見極めれば真贋は自ずとハッキリする。僕の見る限りでは今のところこの件に関しては嘘を言ってるようには見えない。
「それはともかく。アンタ、これからどうすんの?」
「事情は聴かないんじゃなかったの?」
「そりゃ、さっきはそう言ったけど……どう見ても尋常じゃないわよ。放っとけないでしょ」
「そんなに分かりやすいかい?」
「困った子犬みたいな顔してるわね」
「そっか……」
「とりあえず、あれね。相談できそうなヤツのところに行きましょう。魔導士の
知り合いがいてね。丁度そいつのところに行こうとしていたとこなの。紹介してあげるから、相談してみなさい」
渡りに船である。とりあえず、彼女に付いていくことにした。
「ああ、そうだ」
彼女は唐突に振り返る。
「私は……そう、メイ・ハーヴェイよ。アンタは?」
「へっ?……ああ、桜風風時だ」
「さ、サキュ?言いにくい名前ね。まぁ……フーでいっか」
勝手に略された。
「どうしたの急に」
「いつまでもアンタとか君とかじゃ面倒でしょ。私はメイでいいわ。よろしく、フー」
名前について色々言われて言いたいことが無いでもないのだが、その快活さとサバサバした歯切りの良さは、単純に好感が持てる、と思う。