祈りと二人と魚釣り
レンタカーの窓を開けて、ユリは外の景色を眺めていた。風が吹き込んでいる。
大きな瞳をきょろきょろさせて、まるで大切な何かを見逃してしまわないように探している、という様子だった。窓の外は普通の風景が通り過ぎているだけだったが、ユリにとっては少し違うのだろう。
「ね、まだかな?」
ユリが言った。
「そろそろ見えてくるはずだけど」
ハンドルを片手に、プリントアウトされた地図を確かめる。道は間違ってないはずだった。地図をユリに渡した。
「ふーん。……ね、釣れるかな?」
「その質問、何回目?」
「んふふ、わかんない」
そう言って、ユリはにこにこしていた。
ユリとは付き合って一年くらいになる。大学の後輩で、知り合ってすぐに付き合い始めた。
最初の印象はおとなしいきちんとした女の子だなというものだったが、化けの皮はすぐにはがれた。ちょっとしたことで喜んだり、怒ったりして感情の起伏は激しいし、俺の家に泊まりに来るときはたいした準備もせずにいきなりやってきて、二、三日帰ろうとしない。おかげで俺の部屋には量販店で買ってきたお泊りセットが山となっていた。
それに、俺の行くところにはどこへでも付いてこようとする。タバコの煙で空気の色が変わっているような雀荘にまでやってきて、居座っていた。いまでは見よう見まねで牌を並べるくらいはできるようになっている。
ユリに言わせると、
「いろんなことをできるようになりたいだけだから!」
ということらしい。
どこまでが本心かはわからないが、確かにユリは何にでも興味を持って、自分もやってみようとするタイプだった。今日車を走らせているのも、そういうことが理由だ。
前方に大きなカーブが見えた。外側は崖になっている。ここを曲がれば目的地までもうすぐのはずだった。
「ようやく着いたな」
ブレーキをかけて、車を止める。俺の言葉にユリはこくりと頷いていた。無言だ。少し緊張しているようだった。
車から降りると潮のにおいがした。
ここは港だ。目の前には海が広がっている。
視線を動かすと、沖のほうへ堤防が突き出していた。人の姿は見えない。堤防の白っぽいコンクリートが青い海を半分にしていた。
この場所はインターネットで探した。初心者でも釣りやすいポイントで、車で近くまでいけると紹介してあった。来てみるとそのとおりだった。車を止めて、すぐに海だ。おかげで荷物を担いでポイントまで移動する必要もない。
あまり苦労せずに魚釣りを体験してみたい。そんな俺たちにはぴったりの場所だった。
車から釣竿を降ろして、俺は早速仕掛けを作り始めた。
そもそもどういう話の流れで魚釣りの話題になったのだったか。
ユリがほおを膨らませて、「私、釣りとかしたことないから!」と言ったことははっきりと覚えている。
「いや、でも一回くらいやったことあるだろ?」
「ないよ! お父さんがそういうのしない人だったから!」
そんなものかと思った。ユリの家は父親以外は全員女性らしい。そのせいもあるのかもしれない。
「釣りもできなくて、悪かったわね! どうせ私は――」
とユリが言い始めたので、慌てて俺は言った。
「ならさ、俺が教えてやるから、一緒に釣りに行こう」
「えっ……本当に? ……どうしようかな。ちょっとやってみたいかも」
「じゃあ行ってみよう! 釣堀が確か近くにあったから――」
「ダメ! 釣堀って魚が準備してあるんでしょ? そういうのじゃなくて、私はちゃんと釣りたい!」
面倒なことを言う、と俺は思った。
「まあ……わかった。釣りなんて簡単だ。俺が全部準備するから、気楽についてくればいい」
「そんなに言うなら、じゃあ、お願いしようかな」
「ああ……」
経緯はともかく、ユリにいいところを見せられると、俺は張り切って準備をした。魚釣りには行ったことはあるが、実はそこまで詳しいわけではなかったので、インターネットで情報を集めた。
初心者にはサビキ釣りがいいらしい。エサを針につける必要がないし、比較的釣れやすいと書いてあった。それを見てすぐに釣具屋に向かった。
サビキとは糸の一番先にカゴがついている仕掛けのことだ。針はカゴまでの間に複数ついている。そのカゴにエサを入れ、海に投げ入れる。そのまま竿を上下させると、カゴの中のエサが水中で撒き散らされる。そのエサに魚が集まり、間違えて針に食いついてしまうという仕組みになっている。
釣具屋の店員に簡単な説明を受けて、釣り竿など道具を一式買った。カゴにエサを入れるとき、素手で掴むと手が汚れてしまうということで、釣り用の手袋とエサを掴む器具も買った。こんなものユリに必要あるか? と思ったが、意外と気にする女性は多いらしい。
道具と移動のためのレンタカー代でそれなりの金額になってしまった。親父の車を借りて、レンタカー代くらいは浮かせたかったが、あいにくその日は遠方のお客さんのところに行かなければならないのだという。仕事で使うなら無理を言うわけにもいかなかった。
使ったのはバイトで貯めていたお金だったが、ユリが喜んでくれるなら、そういう使い道も悪くない。
こうして道具をそろえて、俺たちは海に着いたのだった。道具だけではなく、初心者向けホームページの中に書かれた魚釣りの心得などを前日に復習してある。準備は万端だった。
ユリに簡単な説明をして、仕掛けをつけ終わった竿を渡した。帽子をかぶっていなかったので、麦藁帽子を渡して、タオルと日焼け止めクリームも渡した。どうやら何の準備もしていなかったらしい。
ぎこちない手つきで、ユリは俺の説明どおりマキエをカゴに詰め込んでいた。それから、針が自分に引っかかってしまわないように不自然な姿勢をしたまま、釣竿を抱えてよたよたと海のほうへ向かっていった。
ぽちゃんと音がした。
海面は静かだ。ほとんど波もない。
ユリは真剣な表情で、竿の先を見つめていた。
まだ何の反応もないようだ。
――釣れるまで、少し時間がかかるかもな。
と俺は思った。
自分の分の仕掛けを作って、俺も竿を海へ向けた。
カゴを水中に降ろしていくと、途中で何か手ごたえがある。魚がつついているようだ。慌てて糸をとめて、反応を確かめる。
カゴはまだ海の底に着いていない。
――中層くらいに魚がいるということか。
しばらく待ってみても、魚が食いつくことはなかった。
軽く竿をしゃくりあげて、エサを撒き散らしてみる。
釣りに必要なのはイメージだ。海の中のイメージ。
いま俺が竿をしゃくりあげたから、水中ではカゴが動き、それにびっくりした魚は遠巻きに様子をうかがっているはずだ。だが撒き散らされたエサに我慢できず、魚たちは少しずつ集まってくる。その中にゆっくりと針を落としていくと、エサと勘違いして――
「かかった!」
大声を出して俺はリールを巻いていた。
ユリがびっくりした顔で見つめている。リールを巻き取ると、二つの針に魚がかかっていた。
「すごい、すごい! 二匹も釣れてるよ!」
「まあな。これくらい簡単だよ」
ユリに釣れた魚を見せびらかすと、笑顔になって、
「私も釣る!」
とはしゃいでいた。
――釣りにつれてきて正解だったな。
と俺は思った。
不正解だった。
あれから俺は七匹の魚を釣りあげていた。それほど大きくない魚だ。アジかサバだと思う。バケツの中で折り重なってぐったりとしている。
その間、ユリの竿には一匹もかかっていなかった。魚がつついている感触もないらしい。
ユリの口数が少なくなっていた。明らかに機嫌が悪くなっている。元気もない。魚と同じくらいぐったりしていた。
――そういえばこういう性格だったな。
と俺は思った。
あまり我慢ができないというか、気に入らないことがあるとすぐむくれてしまうのだ。
「ちょっと、ユリ!」
俺は声をかけた。
「……なによ」
「場所を変えようか。ユリの釣ってる場所に魚がいないのかもしれない。俺のところはいるみたいだから、ここで釣ればいい」
「……うん」
しぶしぶという様子で動いて、ユリは俺の釣っていたポイントにサビキを投げ込んだ。どうせ場所を変えても釣れないんでしょ、というユリの心の声が聞こえてきそうだった。
その背中を見つめながら、俺は祈った。
――お願いだ。釣れてくれ!
俺の祈りが通じたのか、水中に白く輝くものが見えた。
「見てみろよ。あの光ってるの、魚だぞ」
「嘘? あれ全部? いっぱいいるじゃない」
「そうだよ。群れが移動してきたんだ。これから釣れるぞ!」
「んふっ、ここから見えるくらいいるもんね!」
ユリが少し元気になった。夢中になって白い輝きを見つめている。
――良かった。これで機嫌が直る。
と思った。
良くなかった。
あれからユリはまったく釣れていない。見えているのに釣れない状況というのは余計にストレスがたまるものらしい。ユリは怒りを通り越して、ときおり「ヒヒヒ」と笑い声をあげるようになっていた。
俺のほうは入れ食いだった。もう釣れなくていいのに魚がかかってしまう。カゴにエサを入れないまま海に投げ込んでみたがダメだった。それでも魚が食いついてくる。その様子をユリがちらちらと見ていた。いや、睨んでいた。
――どうしてだ。なんでユリは釣れないんだ。
と俺は思った。
バケツには、もう魚がいっぱいになっている。普通ならうれしいはずの状況だがうれしくはなかった。ユリが怒っているのだ。
「ねえ、ユリ!」
と俺は声をかけた。
「……ウヒヒ」
とユリが答えた。
「もしかしたら竿が悪いのかもしれない。俺の竿と変えてみようか」
「……ヒヒヒ」
ユリに俺の竿を渡した。もちろん竿を変えたくらいで釣れるようになるとは思っていない。だが、何もしないままでいるわけにはいかなかった。
投げやりな態度で仕掛けを海に放り込むユリの背中を見つめながら俺は祈った。
――お願いだ。釣れてくれ!
すると俺の祈りに答えるように、海がざわめき始めた。水面が動いている。波ではない。あれは――
「魚だー!」
俺は大声をあげていた。
水面を飛び跳ねているのは魚だ。大量の魚の群れが港に押し寄せているのだった。群れがひとつの生き物のようにうねり、その中から押し出された魚が空中へ飛び出す。何百匹、いや、何千匹いるだろうか。手を伸ばせばすぐに捕まえられそうだった。こんな光景は見たことがない。
俺とユリは顔を見合わせた。
――これならいける!
と思った。
いけなかった。
ユリの竿には魚がかからなかった。一匹もだ。
挑発するように目の前を飛び跳ねる魚を見て、ユリはフウーフウーと息を荒くしている。
一方俺の竿には魚がかかり続けた。海に投げ込む前に、飛び跳ねた魚が空中で針を飲み込んだりしている。
――なんでだ! なんで俺だけだ!
と思った。
ユリはもう完全に怒っている。せめて一匹でもかかってくれればいいのに、こんなにたくさんの魚がいるのに、魚はかからない。
もう、どうにもならないのかと諦めかけたとき、ユリの竿が大きくしなった。
「なに!? なんかかかったよ?」
「落ち着いて! 引き上げられる? 代わろうか?」
「いい! やってみる! はじめてだから、最後までやらせて!」
「わかった! 落ち着いて、ゆっくりだよ」
俺はユリに駆け寄った。
ユリは案外落ち着いている。竿の先を見つめて、落としてしまわないようにしっかり握って、ゆっくりとリールを巻いている。
「ちょっと……重いかも」
「大物か! あせらなくていいから。魚が疲れるのを待って!」
「うん……やってみるね」
時間をかけてユリはリールを巻いていく。しばらくして水面に近づいてきたようだ。黒い影が見えた。
「これは大きいぞ! やったな!」
「うん! 釣りって楽しいね」
ユリが笑顔になっていた。
――良かった。なんだかんだあったけど、最終的に釣れればいいんだ。結果オーライだ。
と俺は思った。
結果オーライではなかった。
釣り上げたものを見た瞬間、ユリは釣り竿を地面に叩きつけていた。
「なんでよ!」
ユリの言葉と同じことを、俺も心の中で叫んでいた。
ユリが釣りあげたのは俺の親父だった。スーツに針が引っかかり、ところどころ破けてしまっている。薄い髪は、水に濡れてぺたりと張り付いている。親父は苦しそうに水を口からこぼしながら、針を一つひとつはずしていた。
「なんでこんなところにいるんだよ!」
「うう……カーブで曲がりきれなくて崖から落ちて……でも助かったよ……」
あえぎながら親父が言った。
苦しそうな親父の後ろでは、飛び上がった魚たちが、きらきらと太陽の光を反射させながら舞い踊っている。
「ああ……私も魚が獲れてたよ……ほら、どうだい……私もやるだろう。釣竿なしで魚を獲ったんだ……釣りなんて簡単だな……」
親父がスーツのポケットから手のひらほどの魚を取り出した。無意識のうちに習慣が出てしまったのか、名刺交換の姿勢で魚を差し出している。親父なりのユーモアのつもりなのかもしれない。
――親父、空気を読め! いま、ユリの前でそういうことを言うな!
俺は思った。
ユリは魚をつかんで地面に叩きつけていた。火に油を注いでしまったらしい。肩を揺らして大きく息を吸っている。
「いい加減頭にきたー!」
ユリが叫んだ。
「私は魚釣りに来たのよ! こんな頭にモズクみたいなのが張り付いてるのを釣りたかったんじゃないのよ!」
「うう……モズク?」
「あんなにたくさん魚がいるのに釣れないじゃないの!」
ユリは海を指差した。魚たちは見事なチームワークで水面に円を描いたり、空中にアーチを作ったりしていた。ユリが指差したのに反応したのかひとかたまりになって、一斉にぴょんと飛び上がる。
「やっと釣れたと思ったら、これよ! なんなのよ、これ!」
「私は……これでは……」
「うっさい! あんたは魚じゃないのよー!」
ユリはそう言って俺の親父を突き飛ばした。
「そりゃ魚じゃないよー!」
と叫びながら親父は海に落ちていった。