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みかんと、言えなかったこと

作者: 星渡リン

 こたつの明かりは、冬の夜をやわらかくする。天井の照明が白くても、こたつの中の赤い熱が、部屋の輪郭を丸くしてくれる。実家の居間は、私が小学生だったころから大きく変わらない。畳の縁の色が少し薄くなったことと、テレビの音が以前よりも小さくなったことくらいだ。


 そのテレビの前に、祖母が座っている。背中を少し丸め、膝の上に毛布をかけて、指先をこたつの縁に乗せている。白髪は短く整えられ、眼鏡の奥の目は相変わらずよく笑うのに、笑うまでの時間が少しだけ長くなった。


「寒かったろう。駅まで迎えに行こうかと思ったんだけどね」


 祖母はそう言って、私の手を見る。私がコートを脱いだあとも、指先が赤いままだったのだろう。祖母は何も言わず、こたつ布団を少しだけ持ち上げた。


「ほら、手、入れな」


 私は「うん」と答えて、こたつに手を滑り込ませた。熱が指の間に広がり、体の中の硬いものが少しほどける。こういうとき、言いたいことは喉まで上がってくるのに、言葉にならない。熱に溶けてしまうみたいに。


 こたつの上には、みかんが山になっていた。網の袋から出したばかりの、艶のあるオレンジ色。ひとつだけ、少し青いのが混じっている。祖母はその青いみかんを手に取って、指先で軽く押した。


「これは甘くないかもしれないねえ」


 それでも祖母は、そのみかんを皿に置いた。甘いかどうかより、ここにあることが大事みたいに。


 私は膝の上に置いた鞄から、お土産の箱を取り出した。駅ナカで買った、ありふれた菓子折り。祖母は「あらまあ」と目を細めて受け取り、包装紙の角を丁寧に撫でた。


「こんなに。気を使わなくていいのに」


「……でも、何も持ってこないのも」


 言いかけて、私は言葉を止めた。

 本当は別のことが言いたかった。

 何も持ってこないのが嫌だったのは、私の気持ちの方だ。空っぽの手で来てしまうと、自分が何も返せていないことが形になってしまう気がする。


 祖母は私の言葉の途中を、いつもみたいに埋めない。ただ、うなずいて、箱を脇に置いた。


「ありがとね」


 その「ありがとね」は、軽い。重たくない。受け取ったものだけじゃなく、私がここに来たこと自体を受け取る声だった。私はうまく笑えず、こたつの中で指を握り直した。


 祖母と二人きりで過ごす夜は、久しぶりだった。両親は用事で出かけていて、帰りは遅くなるという。だから今夜は、祖母と私だけ。昔なら喜んだ。祖母の作る煮物や、こたつの中で食べるアイスや、いろんな小話が好きだったから。


 でも今は、嬉しいだけではいられない。


 私は祖母に会いたかった。

 会いたかったのに、会うのが怖かった。


 祖母の背中が丸くなっているのを、知ってしまうのが怖かった。祖母の声が少し小さくなっているのを、確かめるのが怖かった。祖母が、私の知らないところで少しずつ変わっていることを、目の前で認めるのが怖かった。


 それ以上に、もっと怖いことがある。

 祖母に言えなかったことが、積もっている。


 会いに来るたび、言おうと思う。

 言おうと思って、結局言えない。

 言えなかったことは、どこへ行くのだろう。


 祖母は、こたつの上のみかんを手に取った。

 指が、昔より細い。爪の先が少し白い。祖母はそのみかんを、ゆっくり剥き始める。皮が裂ける音が、静かな部屋に小さく響く。


 みかんの皮の匂いが、広がった。

 酸っぱくて、甘い匂い。冬の匂い。

 その匂いだけで、私は小さくなった気がした。祖母の家の匂いは、いつもみかんと一緒だった。こたつの上にみかんがあるだけで、ここが安全な場所になる。


 祖母は皮を器用に剥き、白い筋を丁寧に取った。

 私はその手元を見ていた。


「筋、取る派なんだね」


 私が言うと、祖母は「ん?」と目を上げた。


「うん。口に残るのが嫌でね。昔からだよ」


 昔から。

 そうだ、祖母は昔からこうだった。細かいところを、丁寧にする。誰に見られていなくても、手を抜かない。それは、頑固というより、優しさに近い。


 祖母はみかんを房に分け、ひとつを私の皿に置いた。


「ほら、食べな」


 私は房を口に入れる。

 甘い。

 甘いのに、喉が少し痛い。


 祖母の前では、私はずっと“孫”でいられる。何もできなくても、少し変でも、祖母は笑ってくれる。けれど、その立場に甘えてしまったことも、私は知っている。祖母に心配をかけた。祖母の言葉に甘えた。祖母が「大丈夫だよ」と言ってくれるのを前提に、私は動かなかったことがある。


 祖母はテレビの音量を少し上げた。ニュースが流れている。景気、物価、事件。知らない人の話が、淡々と通り過ぎる。祖母はニュースを見ながら、時々うなずいた。


「世の中、落ち着かないねえ」


「……うん」


「でも、寒いときは寒いってだけで大変だよ。余計なことは、体があったかくなってから考えればいい」


 祖母はそう言って、もう一つみかんを剥き始めた。

 余計なこと。

 祖母の口から出ると、優しい。

 私の頭の中にある余計なことは、いつも爪みたいに引っかかっているのに。


 私は、祖母に言えなかったことの塊を思い出していた。

 会社のこと。

 疲れていること。

 将来が怖いこと。

 夜に眠れない日があること。

 親にも言えない弱さ。


 でも、それよりもっと単純なことがある。


 ――ありがとう。

 ――ごめんね。

 ――会いたかった。


 言葉は簡単なのに、言えない。

 言えない理由は、簡単じゃない。


 ありがとう、を言うと、今まで言わなかった分の重さが乗る。

 ごめんね、を言うと、祖母に何かを背負わせてしまう。

 会いたかった、を言うと、会いに来なかった時間が突き刺さる。


 祖母はみかんの白い筋を、ひとつずつ取っていく。

 筋は細くて、透明に近い。どこからどこまでが筋なのか、見極めが難しい。祖母はそれを、迷いなくつまむ。取って、皿の端に集める。取って、集める。小さな作業が積み重なって、みかんは綺麗な房になる。


 私は突然、思った。

 言えなかったことも、筋みたいに細い。

 大きな塊じゃなくて、細い引っかかりの集まり。

 だから私は言えなかったのかもしれない。大きく言おうとするから、喉で止まる。小さく言えばいいのに、私はいつも、完璧な言葉を探してしまう。


 祖母が、ふと顔を上げた。


「……最近、どう?」


 ただの挨拶みたいな言い方だった。

 でも、その一言で、胸の奥の筋が一気に引きつった。


 最近、どう。

 それは、答えられるようで答えられない質問だ。

 仕事は忙しい、と言えば終わる。元気、と言えば終わる。寒いね、と笑えば終わる。


 終わらせたい。

 でも、終わらせたくない。


 祖母は私を見つめている。

 問い詰める目ではない。待つ目だ。

 言葉が出てくるまで、湯気みたいに待つ目。


 私は息を吸った。

 こたつの熱が、膝から胸へ上がってくる。

 みかんの匂いが、鼻の奥に残っている。


「……まあ、普通」


 私はとりあえずそう言った。

 祖母は「そっか」とうなずく。

 それだけで終わるはずだった。


 でも、その「そっか」が、あまりにも優しくて、私は次の言葉を飲み込めなかった。飲み込めなかった言葉が喉に引っかかり、痛い。


 私は自分の皿に残っていたみかんの房を一つ取った。

 橙色の粒が、光を吸っている。

 私はそれを祖母の皿の上に、そっと置いた。


「……ばあちゃん」


 呼んだだけで、胸が熱くなる。

 祖母は「ん?」と短く返した。

 返事が軽いから、私は続けられる。


 私は言葉を、小さくした。

 みかんの房みたいに、一つだけ。


「……ありがとう」


 祖母は、目を瞬きした。

 驚いたようで、驚いていないようだった。

 それから、少しだけ笑った。


「急にどうしたの」


 茶化す声ではない。

 照れを隠す声だ。


「なんか……こういうの、言ってなかったなって」


 私は自分の声が震えているのを感じた。

 祖母に泣き顔を見せたくなくて、視線をみかんの皮の方へ落とす。皮が皿の端で丸まっている。あの丸まり方が、何だか可笑しい。


 祖母はしばらく黙っていた。

 そして、私の皿にまた、みかんの房を一つ置いた。


「食べな。冷めちゃう」


 その言い方で、私はわかった。

 祖母は受け取っている。

 受け取った上で、いつもの生活の中に戻してくれる。特別にしすぎないように。照れくさい空気に溺れないように。


 私は房を食べた。

 甘い。

 今度は、喉が痛くない。


 祖母がぽつりと言った。


「……来てくれて、嬉しいよ」


 私はうなずいた。

 その言葉だけで、胸の中の氷が少し溶けた。

 私は「会いたかった」と言いかけて、また飲み込んだ。欲張ると止まりそうだったからだ。


 代わりに、もう一房分の言葉を出した。


「また……来る」


 祖母は「うん」と言った。

 それは約束というより、確認だった。

 明日晴れる、みたいな、普通の言い方で。


 テレビのニュースが終わり、天気予報が始まった。明日は雪の可能性があるらしい。祖母は「雪かあ」と小さく笑った。


「雪が降ったら、危ないから無理して来なくていいよ」


「……でも、来る」


 私は言い直した。

 無理はしない。けれど、来る。

 その中間の気持ちを、私はまだ上手く言えない。上手く言えないままでも、口に出したかった。


 祖母は、みかんの皮を集めながら言った。


「言葉ってね、上手じゃなくていいんだよ。思ってるなら、出せばいい。出したら、あとから形になる」


 私はその言葉に、胸の奥でうなずいた。

 祖母は昔から、こういうことをさらりと言う。説教ではない。自分にも言い聞かせてきた人の声だ。


 その夜、私は祖母の家の客間で布団に入った。

 こたつの部屋からは、祖母が食器を片づける音が微かに聞こえる。水の音。皿の重なる音。生活の音。


 私は枕元に、みかんを一つ置いた。

 明日の朝、剥いて食べようと思った。

 それは、大きな決意ではない。

 でも、続きがあるという印だ。


 布団の中で、私は今日の「ありがとう」を何度も思い出した。言えたことが嬉しくて、言えなかったことがまだ残っているのに、残っていることが怖くなかった。


 言えなかったことは、明日もある。

 みかんも、まだ残っている。


 こたつの上に山になっていたみかんを思い出しながら、私は目を閉じた。

 冬の夜は長い。

 でも、皮の匂いが残る夜は、少しだけやさしい。


 朝が来たら、また一房分でいい。

 そう思いながら、私は眠りに落ちた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

照れくささや後悔が邪魔をして、「今さら」を何度も抱えたまま、いつの間にか時間だけが進んでしまう。そんな感覚を、この短編では“みかん”の手触りと匂いに重ねました。


みかんの白い筋を取るように、引っかかりを少しずつほどいていく。大きな告白ではなく、一房分の「ありがとう」から始めてもいい。言葉は上手じゃなくていい——出したら、あとから形になる。祖母の台詞は、主人公への言葉であると同時に、読んでくださった方への小さな手渡しでもあります。


もしあなたにも「言えなかったこと」があるなら、いきなり全部を言おうとしなくて大丈夫です。まずは一房分だけ。

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