第九話 名を呼ばれる日
朝は、驚くほど静かだった。
診療所の裏手で、斧の音が響いている。
乾いた木が割れる音。
急がず、乱れず、同じ間隔で続く。
レオンは水を汲みながら、その音を聞いていた。
剣の音ではない。
戦場のものでもない。
生活の音だった。
裏へ回ると、男が薪を割っている。
上着を脱ぎ、袖をまくり、腰を落として斧を振る。
踏み込みは浅い。
膝に無理をかけない動きだ。
「無理をするな」
レオンが声をかけると、男は振り返らずに答えた。
「していない」
短い返事だった。
言い訳でも、反発でもない。
斧を一度地面に置き、男は呼吸を整える。
息は落ち着いている。
痛みを押し殺している様子はない。
レオンは、そこを見ていた。
「昨日より、動きがいい」
「そうか」
それだけ言って、男はまた斧を振る。
木が割れる。
かつて戦場で見た英雄の姿とは、まるで違う。
だが、無駄のなさだけは同じだった。
しばらくして、男は斧を置いた。
「……聞いていいか」
唐突だった。
「何だ」
「ここでは、名を聞かれないのか」
レオンは少し考えた。
「聞かれれば、答える」
「英雄の名を、だ」
「それはいらない」
即答だった。
男は、しばらく黙る。
戸惑いに近い沈黙だった。
「……そうか」
レオンは水桶を持ち上げる。
「名を聞いて、困ることはあるか」
今度は、レオンが問う。
男は、首を振った。
「ない」
「なら、使えばいい」
それだけだった。
男は、斧の柄を握りしめる。
一度、息を吸う。
「……今さらだが」
声は低い。
戦場の声ではない。
「俺の名は、エルンだ」
短い名だった。
飾りも、重さもない。
英雄として呼ばれていた名ではない。
戦場で叫ばれていた名でもない。
生活の中で呼ばれる、ただの名。
レオンは、その名を聞き、覚えた。
「分かった」
それ以上は言わない。
エルンは、ほんの少し肩の力を抜いた。
診療所が開く時間になる。
村人が一人、二人と集まってくる。
畑での怪我。
子どもの熱。
いつもの光景だ。
エルンは入口に立ったまま、少し戸惑っている。
「手伝えることはあるか」
「ある」
レオンは言った。
「名を呼べ」
「それだけでいいのか」
「十分だ」
エルンは頷き、最初の患者を見る。
老人だった。
腰を押さえ、ゆっくり歩いてくる。
「……どうぞ」
声が出る。
老人はエルンを見る。
一瞬、何かを言いかけて、やめた。
英雄の顔をしていない。
だが、安心する顔だった。
「エルン、だったな」
老人が言う。
エルンは少し驚き、頷いた。
「そうだ」
それだけで、空気が落ち着く。
午前中、エルンは何度も名を呼んだ。
子どもを呼び、
老人を呼び、
旅人を呼ぶ。
どれも、戦場での呼び方とは違う。
呼ばれるたびに、
胸の奥で何かが外れていく感覚があった。
昼前、エルンは膝を押さえて腰掛けた。
「痛むか」
「少し」
「それでいい」
レオンはそう言った。
「越えるな、という合図だ」
午後、村の子どもが転んで泣いてきた。
エルンは、すぐには駆け寄らない。
距離を見る。
泣き方を見る。
動かせるかを見る。
「立てる」
低く、落ち着いた声。
子どもは泣き止み、立ち上がる。
その様子を、レオンは何も言わずに見ていた。
夕方、診療所が閉まる。
「今日は、一度も英雄と呼ばれなかったな」
エルンが言う。
「呼ばせなかった」
「そうだな」
エルンは空を見上げる。
「……それなのに、俺はここにいる」
レオンは答えない。
それで十分だった。
剣を持たない一日。
名を呼ばれた一日。
英雄ではなかった。
だが、確かに、誰かの役に立った。
ここは、そういう場所だ。
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