第六話 正式な要請
昼前の診療所は、静かだった。
静かすぎる、と言ってもいい。村ではこの時間、畑に出ている者が多い。朝の診療が終わり、次の波が来るまでの、わずかな空白だ。
レオンは机の上を整え、包帯の端を揃えた。薬棚を閉じ、記録帳を引き出しにしまう。いつもと同じ動作だ。
その途中で、外の音が途切れた。
村の足音ではない。止まり方が違う。複数人。革靴の音。兵の装備が擦れる微かな金属音。
ノックは一度だけだった。
「失礼する」
扉が開き、男が二人入ってくる。後ろには兵が続き、担架を運び込んだ。装いを見れば分かる。王都医務局の人間だ。
「……判断医殿だな」
「そうです」
それ以上の挨拶はなかった。形式だけを確認する言い方だった。
「患者がいる」
「診ます」
レオンは診療台を示す。それだけで十分だった。
担架に乗せられた男は、若い。顔色は悪く、呼吸が浅い。胸郭の動きが左右で揃っていない。意識はあるが、力は入っていなかった。
レオンが手を当てる前に、医務局の男が低い声で言う。
「この患者は、王都で五日診ている」
淡々とした報告だった。
「肋骨のひび。固定は三度やり直した。痛み止めも調整した。魔力による治癒も、慎重に重ねている」
言葉を選んでいるのが分かる。誇りではない。事実の列挙だ。
「やり方は間違っていない」
その一言が、重かった。
「だが、良くならない」
兵の一人が、視線を落とす。
「呼吸は浅いままだ。夜になると痛みが増す。眠れない。身体が固まっていく」
男は一度、息を吐いた。
「医師は六人関わった。誰も誤っていない」
だからこそ、判断が止まった。
「これ以上は、様子を見るしかない」
それが王都で出た結論だった。
誰も異を唱えなかった。唱えられなかった。責任を取れる判断が、もう残っていなかったからだ。
患者の男は、その話を聞いていた。だが、口を挟まない。期待していない目をしている。
「……歩けなくなることは?」
小さな声だった。
「命に別状はない」
それが、唯一の救いだった。
レオンは、ここまで一言も挟まなかった。
ようやく、男の胸に手を当てる。
触れた瞬間に、分かる。
治療は尽くされている。慎重で、丁寧で、正しい。だが、足されすぎている。魔力の流れが絡まり、身体の反応を遅らせている。
詰みだ。
治すべき場所は、もう残っていない。
レオンは、指先で一度だけ位置を確かめる。
そして、余分なものを引いた。
足されていた流れを、元に戻す。修復はしない。再構築もしない。ただ、身体が本来持っている反応を、邪魔しないようにする。
それで終わりだった。
「……終わりました」
静かな声だった。
「何をした」
医務局の男が、思わず聞く。
「判断です」
患者の呼吸が変わった。
浅かった息が、自然に入る。胸が上下し、力みが抜ける。顔に、はっきりと分かる変化が出た。
「……楽だ」
声が、少しだけ強くなっていた。
医務局の男は言葉を失う。兵たちも動かない。数日分の停滞が、一瞬で切り取られた。
「固定は?」
「不要です」
「安静は?」
「今日は休む。それで十分です」
反論は出なかった。
出せなかった。
医務局の男は、しばらく患者を見つめてから、ゆっくりと頭を下げた。
「……判断医殿」
それ以上、何も言わなかった。
担架は運び出される。患者は自分の足で立ち、支えを借りながら歩いた。来たときとは、明らかに違う。
扉が閉まり、診療所に静けさが戻る。
村人たちは遠巻きに見ている。誰も騒がない。ただ、空気が変わったことだけは、全員が感じ取っていた。
医務局の男が、改めて口を開く。
「王都に戻ってほしい」
条件が並べられる。設備、予算、権限。
レオンは否定しない。
「断る理由は?」
「医療ではありません」
「では、何だ」
「判断の置き場です」
短い答えだった。
沈黙が落ちる。
「……分かった」
男はそう言い、深く息を吐いた。
「今日のところは、引く」
レオンはうなずいた。
判断は終わっている。
だが、選択はまだだ。
そのことを、レオン自身が一番よく分かっていた。
患者が運び出されたあと、診療所はしばらく動かなかった。
誰も次の動作に移れない。村人も、医務局の人間も、兵も、全員がその場に留まっていた。空気が、まだ戻っていない。
レオンは手を洗い、布で拭いた。指先に残る感触を確かめる。骨の位置、呼吸の変化、魔力の流れ。すでに、必要な確認は終わっている。
それでも、身体が次の行動を選ばない。
治療は終わったが、判断はまだ場に残っていた。
「……今のは」
医務局の男が、言葉を探すように口を開いた。
「治癒ではない」
レオンが先に答える。
「では何だ」
「余計なものを引いただけです」
男は眉をわずかに寄せた。
「王都では、それができなかった」
「できなかったのではありません」
レオンは、診療台を見たまま続ける。
「やらなかった。やれなかった」
責める調子ではない。ただ、事実の整理だった。
医務局の男は反論しなかった。言葉を挟めば、説明が必要になる。その説明に、正当性はある。だが、それを並べても、結果は変わらない。
結果だけが、残っている。
「六人の医師が関わったと言ったな」
「……はい」
「誰も間違っていない」
「そのとおりです」
レオンはうなずく。
「だから詰んだ」
短い言葉だった。
医務局の男は、ゆっくりと息を吐いた。
「王都では、判断を重ねるほど、選択肢が減る」
「制度ですから」
「責任を分けるための」
「そうです」
誰も否定しない。
兵の一人が、ようやく動いた。担架が運び出された方向を見つめたまま、ぽつりと言う。
「……歩いていました」
確認のような声だった。
「来たときは、立てなかった」
「今は立っています」
それだけで十分だった。
医務局の男が、改めてレオンを見る。
「判断医殿」
「はい」
「王都に戻ってほしい」
言い方は命令ではない。だが、選択肢が多い言い方でもない。
「設備は整えられる」
「予算も出る」
「権限も、以前どおりに」
それらは、レオンがすでに知っている条件だった。
「ここでは、判断が遅れる」
「そうでしょうね」
「今日のような症例は、王都の方が多い」
「ええ」
「必要だ」
必要、という言葉が出た。
レオンは、少しだけ間を置いた。
「必要とされることと、正しく使われることは別です」
医務局の男は黙る。
「王都では、判断は制度の中に置かれる」
「それが普通だ」
「ええ」
レオンは否定しない。
「ですが私は、制度の中で判断をしません」
「……変わらないのか」
「変えません」
即答だった。
兵たちの間に、わずかなざわめきが走る。期待していた答えではない。それでも、想定外ではなかった。
「この村では、無駄が多い」
「患者が少ない」
「記録も簡素だ」
「緊急搬送も遅れる」
医務局の男は、確認するように並べる。
「それでも、ここにいる理由は?」
レオンは、外を一度だけ見た。
診療所の前に、村人が立っている。騒がない。ただ、待っている。
「判断を、戻さなくていいからです」
医務局の男は、理解するまでに時間を要した。
「戻さない?」
「元に戻す判断は、誰かを元の役割に押し戻します」
「それが医療だろう」
「それは制度です」
区別は明確だった。
沈黙が落ちる。
長い時間ではない。だが、短くもない。
「……分かった」
医務局の男が言う。
「今日は引く」
「はい」
「だが、また来る」
「ええ」
否定しない。
「その時も、答えは変わらないか」
「変わりません」
男は、苦笑とも取れる表情を浮かべた。
「厄介だな」
「そうでしょうね」
それで話は終わった。
医務局の一行が去り、診療所は元の静けさを取り戻す。
村人の一人が、恐る恐る声をかけた。
「……先生」
「はい」
「さっきの人、大丈夫なんですか」
「大丈夫です」
「もう、治った?」
「治っています」
それだけで、村人はうなずいた。
理由を求めない。
それが、この場所のやり方だった。
レオンは帳面を開き、一行だけ記す。
判断、完了。
それ以上は書かない。
この場所では、役割はまだ決まっていない。
だから、判断だけが残る。
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「判断医」と「英雄医」──その呼称に込めた意味
本作では、医師レオンに対する呼称として、あえて複数の名称を使い分けています。
それは単なる肩書きではなく、彼の生き方や他者からの認識、そして国家と個人の関係性を映し出す鏡でもあります。
● 判断医
この語は国家や権力構造側から見たレオンに与えられた呼称です。
「治すべきか否か」「生かすべきか否か」――命の分岐点で冷徹な決断を下す者。
特に王都や軍内部の人物、行政・政策担当者などからは、この呼び名で語られることが多く、レオンの中立性と決断力、あるいはその恐るべき影響力を示すものでもあります。
イリスのような「英雄供給の制度化」を使命とする者たちは、彼をこの名で呼び、
**医師でありながら、兵士以上の“戦略資源”**として扱おうとするのです。
● 英雄医
一方でこの言葉は、レオンの治療を受けた者や、彼の背中を見た者たちが自然と口にする呼び名です。
戦うことなくして人を救い、
刀を振るわずして命を守る。
それでも、彼の治療には戦場にも似た緊迫と覚悟がある。
だから人々は、彼をこう呼ぶのです。
「英雄を支える者ではなく、英雄そのものである」と。
この呼び名には、レオンが背負ってきた過去と、選んだ現在――
そして、誰よりも命に正面から向き合ってきたその生き様が、静かに宿っています。




