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第四十二話 レオンの一日

 朝の冷えがまだ残っている時間、レオンは診療所の前で足を止めた。


 扉の脇に、籠が二つ。布が丁寧にかけられている。中身が冷えすぎないように、藁が敷かれていた。野菜の青みと、卵の白さが見える。小さな瓶が一本、倒れない位置に収まっている。


 紙切れが挟まっていた。


『先生へ 朝のぶん』


 名前はない。筆跡だけが、置いた人の照れを残している。


 レオンは籠の前で膝を少し緩め、短く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 誰もいないのに言うのは、癖ではない。相手がいようがいまいが、受け取ったものに向ける姿勢だけは変えない。そういう人間だと、町がもう知っている。


 扉を開けると、暖気と一緒に生活の音が入ってきた。


 台所のほうで湯が沸く音。棚を拭く布の擦れる音。紙を揃える乾いた音。


 ミアが振り向いた。


「おはよう、先生」


 ルネも顔を上げる。


「おはようございます」


「おはようございます」


 レオンは足を引きずらない。だが、歩幅は短い。昨日の負荷が体に残っている。痛みではなく、重さだ。重さを他人に渡さないように、姿勢を整える。


 ミアが入口の籠を見て、肩をすくめた。


「今日も来てるね。朝のぶん」


「そうですか」


 レオンは言葉を増やさず、籠を持ち上げる。ルネがもう一つに手を伸ばした。


「……持ちます」


「ありがとうございます。ですが、無理はしないでください」


 ルネは小さく頷き、籠を抱えた。彼女の動きには、もう遠慮が少ない。何を手伝うべきかを、言われる前に見つけられるようになっている。


 籠の中身を棚へ移すのは、ミアがやる。どこに置けば傷まないか、誰が何を持ってきたかを、彼女は自然に覚えている。町の生活が、診療所の棚に重なっていく。


 卵を手に取ったミアが、ふっと笑う。


「昨日も卵、あったよね」


「続くと困ります」


「困るって言い方が先生っぽい」


 ミアは軽く言い、卵を一つずつ布の上に並べた。そこに、別の小さな紙が落ちていた。


『ミアさんへ いつもありがとう』


 ミアは一瞬だけ手を止め、紙を畳んで棚の隅に置いた。声にしない。声にすると、照れが空気を乱す。ここの静けさは、そういうところで守られている。


 ルネは瓶の口を確かめてから、棚の一段下に置いた。手際がいい。ミアが気づいて、目だけで「ありがとう」と言う。ルネは頷いて終わりにする。


 診療所は、そうやって回っている。


 外が明るくなると、町の音が近づいてくる。荷車の軋む音、井戸桶の水音、子どもの足音。


 扉が叩かれる。強くはない。ためらいもない。ここは誰かに許可をもらう場所ではない。困っている人が入ってくる場所だ。


 ミアが入口へ行く前に、レオンが短く言った。


「いつもどおりで大丈夫です」


 その一言で、ミアの肩から余計な力が抜ける。ルネも同じだ。忙しい朝ほど、安心は言葉ひとつで足りる。


 午前の流れが落ち着いた頃、扉の外が少し賑やかになった。


 子どもが三人、入口のあたりで固まっている。入ってこない。けれど逃げてもいない。診療所の空気を、彼らは理解している。


 ここは怖くない。叱られない。見下されない。軽く扱われない。だが勝手に踏み込む場所でもない。そういう線が、言葉ではなく空気として引かれている。


 ミアが扉を開け、顔を出した。


「どうしたの?」


 三人は一斉に、奥のレオンを見る。レオンは椅子に座ったまま、視線だけを向けた。


「こんにちは」


「こんにちは!」


 返事は元気だ。声に萎縮がない。


 先頭の男の子が、小さな包みを差し出した。中身は焼き菓子だ。形は不揃いだが、焦げていない。手作りの匂いがする。


「おかあさんが……」


 言い終える前に、後ろの子が付け足した。


「先生、たべてって」


 レオンはすぐに受け取らず、子どもたちの手を見る。怪我がないことを確かめてから、包みを受け取った。


「ありがとうございます。とても嬉しいです」


 子どもたちはそれだけで満足した顔になり、踵を返す。


 走り出しそうな足を、レオンが止める。


「走らないでくださいね。転びます」


「はーい!」


 三人は走らず、早歩きで帰っていった。守られているから従うのではない。尊重されているから、自分で選んで従える。


 ミアが扉を閉めると、笑いを噛み殺すように言った。


「先生、子どもにも敬語」


「子どもも、ここへ来た時点で患者さんです」


 レオンは包みを棚に置き、話を終える。説明しない。ここでは、それが当たり前だからだ。


 昼前、ルネが入口の掃き掃除をしていると、彼女の足元に小さな花束が置かれた。ユイが、昨日の包帯を巻いた手で持ってきたものだ。花が潰れないよう、両手で抱えている。


 ユイはルネを見上げる。


「……先生いる?」


 ルネは少しだけ迷い、言葉を選んだ。


「……います。入っていい」


 ユイは頷き、敷居をまたぐ。中へ入る足が軽い。ここは「用事がある人だけの場所」ではない。誰かが安心を確認しに来ても、追い払われない場所だ。


 レオンはユイを見て、顔色だけで判断する。痛みで泣く顔ではない。怖さで硬い顔でもない。


「ユイさん、こんにちは」


「……こんにちは。これ」


 ユイは花束を差し出した。


「ありがとうございます。きれいです」


 それだけ言って、花を水の入った瓶に挿す。ユイはそれを見て、少しだけ胸を張る。役に立った、という感覚が顔に出る。


 ミアがユイに目線を合わせて言う。


「手は洗ってきた?」


「うん」


「えらい」


 ルネはそのやりとりを見ながら、何も言わない。けれど、頬の力がわずかに緩んでいる。彼女はまだ言葉が少ない。だが、ここにいる人間としての余裕が育っている。


 昼を挟む頃、診療所の外で、年配の女性が立ち尽くしていた。入ってこない。戻ってもいない。入る理由が医療なのか、生活なのか、それを自分で切り分けられずにいる顔だ。


 レオンは入口まで歩かず、声だけを届けた。


「どうぞ。中でお話を聞きます」


 女性はそれで肩が落ち、ようやく中へ入ってきた。責められないと分かった瞬間の、身体の動きだ。


「……先生、すみませんね。病気っていうほどじゃないんだけど」


「病気かどうかは、こちらで判断します。座ってください」


 女性が握っているのは、手帳のようなものではない。布巾だ。介護で使う布だ。生活の匂いがする。


「息子の嫁さんがね……倒れそうで。私も、もう若くないし……」


 誰の症状を言うでもなく、生活が崩れかけている話だけが出てくる。レオンは遮らない。診察室にしない。ここは相談室でもある。


「続けられない形になっていますか」


 女性が目を伏せる。


「……夜、眠れてないみたい」


「あなたは眠れていますか」


 女性は苦笑し、首を振った。笑いではない。耐えてきた時間の重さが顔に出ている。


 レオンは、同情の言葉を置かない。代わりに、事実として肯定する。


「それは、無理が出ても不思議ではありません」


 女性の肩が少し落ちる。責められないことで、人はやっと息を吸える。


「介護は、正解を選ぶ作業ではありません。続けられる形を探すだけです」


 レオンは具体だけを出す。今日できること、今日やらなくていいこと。夜に危険になる兆候。呼ぶべきタイミング。


「今夜、息が浅い。唇が白い。ぼんやりして返事が遅い。そういう時は待たないでください。こちらへ来てください」


 女性は頷く。医療の言葉より、判断の順番が欲しい顔だ。


「役場に……行かなきゃいけないのかね」


「必要なら、私が話します」


 レオンは淡々と言う。制度の手続きの代弁をするのではない。だが、困っている人を窓口へ投げない。


「まず、今夜を越えましょう。明日の形は、そのあとです」


 女性は何度も頷き、言葉を探して、見つけられなかった。代わりに布巾を握り直し、深く頭を下げた。


 午後の光が傾く頃、診療所の前に荷車が止まった。男が一人、黙って木箱を置いていく。声をかけられる前に手を振り、去っていった。


 箱の中身は、干し肉と塩。保存の利くものだ。


 ミアが箱を見て、困った顔をする。


「先生、これ……」


「受け取ったものは、無駄にしないようにしましょう」


 レオンはそう言って終わりにする。過剰な礼の言葉は要らない。礼を言うために追いかけると、相手の「置いて去る」という優しさを壊してしまう。


 代わりに、診療所の中でできることをする。必要なところへ回す。足りない家へ渡す。黙ってやる。そういう循環が、町の中に生まれ始めている。


 夕方、子どもたちがまた入口へ来た。今度は大人も一人ついている。母親だ。子どもが勝手に来ないように、ではない。ここへ来ることを恥ずかしがらなくていいように、付き添ってきた顔だ。


 母親が小さく頭を下げる。


「先生、いつも……」


「来てくださってありがとうございます」


 レオンはその言葉だけで受け止める。重い感謝を、相手の手から奪わない。受け止めるだけで十分だと示す。


 子どもが、入口でつま先を揃えた。


「先生、またくる」


「はい。来てください。ですが、帰るときは暗くなる前にしてくださいね」


「うん」


 そこに、上下はない。大人の言葉に従う子どもでもない。対等に扱われた相手として、約束を交わしている。


 夜、灯りを落とす前に、ミアが棚を見上げて言った。


「今日は、すごかったね。……差し入れ」


 ルネは窓辺の花を見ている。花は水に挿され、まだ元気だ。色が薄いのに、芯が強い。


 レオンは椅子に座ったまま、戸締まりの音を聞く。ルネが鍵を確認する音。ミアが布を畳む音。生活の音が、穏やかに整っていく。


 レオンは、最後に棚の前へ行き、紙切れの束をそっとまとめた。名前のない礼。言葉の少ない感謝。押しつけではない温度。


 それを引き受けるのは、診察よりも体力を使う時がある。だからこそ、受け取り方を間違えない。


「……助けられているのは、こちらです」


 独り言に近い声だった。けれど、ミアは聞こえたふうに頷いた。ルネは花から目を離さずに、ほんの少しだけ息を吐いた。


 診療所は、ずっと優しい場所だ。

 子どもにとっても、大人にとっても。


 それを特別なことだと思わないように、レオンは灯りを落とし、いつもと同じように扉を閉めた。




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