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第三十九話 止めるべき水

 昼前の診療所は、町の流れが一度ゆるむ時間帯だった。


 朝から続いていた患者の列が途切れ、扉の外には足音がない。遠くで荷車が石畳を擦る音がして、乾いた風に乗って町の生活音が薄く流れ込んでくる。昼の支度を始める匂いが、ゆっくりと空気を満たし始めていた。


 診察室の中は静かだった。消毒布の匂いと、乾かした薬草の甘さが混じっている。どちらも強すぎない。今日が比較的落ち着いた朝だったことを示していた。


 ミアは帳面を膝に置き、朝の診察内容をまとめていた。文字は丁寧だが、整えすぎてはいない。必要な情報だけが残り、余計な感情は挟まれていない。


 ルネは診察台の脇で布を畳み、包帯の端を揃え、器具の配置を確認していた。ズボンの看護服は動きやすく、立ったり屈んだりする動作に迷いがない。患者の動線を邪魔しない位置取りも、自然と身についてきていた。


 次の患者は、背中を丸めた老人だった。乾いた咳をしながら、息を整えている。隣には孫らしい少年が立ち、袖を強く握っていた。


「どうぞ、こちらへ。息が苦しいですか」


 レオンの声は落ち着いている。急がせないが、間延びもしない。


「朝方だけ……胸が少し重くてな」


 レオンは頷き、聴診具を当てる。音を聞きながら、老人の目の動き、唇の色、指先の温度を確かめる。


「薬は、昨日も飲めましたか」


「ああ」


「では、同じ処方でいきましょう。咳止めは夜だけにします。昼に眠くなると、転びやすいので」


 老人が少し驚いたように目を向けた。


「そこまで見てくれるもんか」


「生活の中で続くようにします。それが一番、楽です」


 少年が、ようやく肩の力を抜いた。


 次は、指先を切った若い男だった。仕事中に刃が滑ったらしい。深くはない。消毒し、薬を塗り、薄く包帯を巻く。


「大したことじゃないと思ったんですが」


「大したことです。手は仕事ですから」


 男は短く頷き、礼を言って出ていった。


 診療所は、確かに日常の中にあった。


 その空気が、突然変わったのは、扉の外で足音が重なったときだった。


 急ぐ足と、もつれる足。複数の人間が同時に動いている音。言葉にならない声が、途中で切れる。


 レオンは顔を上げた。


「……来ます」


 声は低いが、落ち着いている。


 扉が叩かれた。一度ではない。躊躇のない、助けを求める音だった。


 扉が開く。


 支えられた男が二人。腕を引かれる女が一人。外にも人影がある。誰も意識を失ってはいないが、足取りが不自然だった。


「先生……急に、足が」


「力が入らなくて……」


「膝が抜けたみたいで……」


 訴えは揃っていない。だが、方向は同じだった。


 レオンは一人ひとりを見る。意識は清明。呼吸も安定している。顔色も悪くない。だが、足が働いていない。


 八人。


 ほぼ同時刻。


 同じ症状。


 レオンは一歩前に出た。


「無理に立たなくていいです。こちらに座ってください」


 声は早いが、冷たくはない。


「怖いと思いますが、意識は保たれています。今から順に診ます」


 ミアが椅子を運び、ルネが黙って腕を貸す。支え方が的確だった。体重を預けた男が、小さく息を吐いた。


 レオンは膝をつき、一人ずつ足首に触れる。皮膚温、脈、反応。致命的な循環障害はない。だが、運動の応答だけが揃って鈍い。


 レオンは立ち上がり、全員を見回した。


 原因は、もう絞られていた。


 レオンは視線をルネに向けた。


「井戸を止めてきてください」


 即断だった。


「広場の井戸です。今すぐ飲用を止める。役場に伝えて、張り紙と口頭で回す。理由は言わなくていい」


 ルネは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。


「……分かりました」


 それだけ言って、診療所を出ていく。足取りに迷いはない。


 患者の一人が、不安そうに尋ねる。


「先生……井戸、使えなくなるんですか」


 レオンはすぐに患者の方を向いた。


「一時的です。今は体に入れないことが大事です」


 言葉は短いが、突き放さない。


「ここにいる限り、悪くはさせません」


 レオンは再び全員を見る。


「今から、体の外に出す処置をします」


「原因はまだ断定しませんが、こういう症状では排出を優先します」


 若い女が震える声で聞いた。


「……歩けなくなったり、しませんか」


「しません。今の段階なら戻せます」


 即答だった。


「これから尿意が増えます。我慢しないでください。回数だけ、あとで教えてください。だいたいで構いません」


 ミアが用意していた薬を、レオンが一包ずつ手渡す。


「水はこちらで渡します。井戸の水は使いません」


 ミアは頷き、給水の準備に入る。帳面は閉じない。記録を続けるためだ。


 利尿薬が効き始め、患者が一人、尿意を訴える。


 レオンはすぐに指示する。


「無理に立たないでください。支えます」


 ミアが椅子を引き、布を手渡す。患者はそれを受け取り、深く息を吐いた。


 外で、騒がしい声が上がった。


 しばらくして、ルネが戻ってくる。頬が少し赤い。走ってきたのだろう。


「止めました。役場にも伝えました。でも……別の井戸を使えって言い出してます」


 レオンの目が細くなる。


「……それは、やるな」


 低い声だった。


 患者の方へ向き直る。


「大丈夫です。ここにいる限り、守れます」


 その言葉は、嘘ではない。


 だが、町全体を守るには、次の判断が要る。


 器具棚の鍵に、レオンの指が一瞬触れた。


 まだ、ここでは出さない。


 だが、次は切る。


 扉の外で、足音がまた増え始めていた。




――――――――――――――――――

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