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第三十八話 立つ場所を選ぶ

 診療所の扉は、町道に面している。王都の石造りみたいな威圧はない。木の板が一枚、控えめに立っているだけだ。


 レオンは朝のうちに、その扉の立て付けを確かめた。開く角度、閉まる音、蝶番の癖。患者が不安にならない音に整える。治療より先に、場の緊張を減らすほうが効く時がある。


 机の上には帳面。薬草の棚には、昨日のうちに手前へ出した包み。消毒用の瓶は倒れない位置に寄せ、布はサイズごとに折り直した。動線が乱れると手が遅れる。手が遅れれば、判断が揺れる。揺れた判断は戻らない。


 廊下から足音がして、ミアが出てくる。髪はまとめてあり、袖はすでにまくられていた。眠気の影が残っていても、目は仕事の目だ。


「今朝、もう人、来てる?」


「来ています。……でも、まだ遠慮している音です」


 扉の外の気配は、確かに「迷い」の形をしていた。夜のうちに痛みと不安が積み重なり、朝に一歩だけ前へ出る。そういう瞬間を、レオンは何度も見てきた。だから朝の説明は長くしない。長くすると、また迷いに戻る者がいる。


 ミアが小さくうなずき、湯を用意しに行く。その背中に、もう一つの足音が重なった。


 ルネが、廊下の影から出てくる。


 歩幅はまだ狭い。回復途中の身体の使い方が残っている。それでも止まらない。止まらないという事実だけで、昨日より前に進んでいると分かる。


 レオンは視線を足元へ落とす。踵の置き方、膝の抜け、重心の逃げ。痛みを隠している歩き方だ。隠すのは悪くない。隠し方を間違えると、次の痛みが増える。


「無理はしないでください。今日は、動ける範囲だけで」


 ルネは一拍置いて、うなずいた。声は出さない。出せば胸の内側が先に溢れると知っている。溢れたものを、今の場に落としたくないのだろう。


 ミアが布包みを机に置いた。包みは二つ。白い上衣と、もう一つは裁ち布だ。


「ルネ。……服、決めよう」


 言い方は押しつけではない。実務の声だ。そこがミアの強さだった。感情のために回さない。回るように整える。整えた結果、感情が置ける場所ができる。


 ミアが包みを解く。白い上衣が出る。袖口が邪魔にならないように短く、紐も少ない。


 次に、下の候補が二つ並んだ。ひとつはスカートになる長い布。もうひとつはズボン用に裁った布。


「どっちも作れる。……どっちがいい?」


 ルネの視線が止まった。


 胸の奥に、短い痛みが走る。選べと言われることの痛み。選択肢を渡されることが、ここまで強いとは思わなかったのだろう。王都での時間が、一瞬だけよぎる。決められていた日々。口にしても届かない言葉。届かない言葉を、飲み込む癖。


 だが、今は違う。今は「決めていい」と言われている。誰かの都合ではなく、自分の動きのために。


 ルネの指先が、スカートの布を一度だけ触れる。次に、ズボンの裁ち布へ移る。指先がそこで止まったまま、呼吸が少し深くなった。


 嬉しい、という感情が喉に当たる。口にすると震える。震えたくない。震えるほどの嬉しさは、胸の奥に置いておきたい。置いておけば、手が動く。


 ルネはズボンの布を取った。迷いがない。言い訳もない。選び方が、現場の形をしている。


 ミアが、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑いではない。肯定だ。


「動きやすいほう。……うん、それでいい」


 レオンは何も付け足さない。付け足さなくていい。今の選択は、すでに整っている。


 ミアは針を通し、縫い始めた。手が早い。縫い目が乱れない。ルネは黙って布の端を押さえ、角を合わせ、ズレを直す。言葉は少ない。少ないほど、動きが噛み合う。


 レオンは帳面を開き、今日の予定を一行だけ書いた。服のことは書かない。ここでは服は「役割」だ。役割は紙に残すより、身体に入れるほうが強い。


 縫い上がったズボンを、ミアが机に置いた。


「試してみる?」


 ルネは小さくうなずき、衝立の向こうへ行く。布が擦れる音がする。少しして戻ってきたルネは、裾を一度折った。膝が楽になる位置を、すでに身体が知っている。歩幅が、ほんの少し広い。


 上衣を羽織ると、輪郭が変わった。飾り気が消え、現場の形になる。ボーイッシュな見た目が、ここではむしろ自然だ。動くための体。支えるための体。自分のために選んだ姿。


 ルネは鏡を探さない。代わりに棚を見る。道具の位置、扉から寝床までの距離、段差、窓。動線を入れる目だ。


 レオンは短く言う。


「道具の場所を、今の身体で覚えてください。迷うと、遅れます」


 ルネはうなずいた。うなずきが少し強い。胸の内側が溢れているのに、表情は動かない。動かないまま、手だけが少し速くなる。


 扉が控えめに叩かれた。遠慮と焦りが混ざった叩き方だ。


「……先生、いらっしゃいますか」


 年配の男の声。


 レオンは扉を開け、軽く会釈した。


「お待たせしました。こちらへどうぞ」


 男は、ほっとしたように肩を落として入ってくる。言葉にしない安心が、動作に出る。レオンはそれを見て、椅子を示す。


「順番に診ます。痛いところを教えてください」


 男の手のひらには小さな切り傷。畑で切ったらしい。大したことではない。だが土が入っている。


「洗います。少ししみますが、短く済ませます」


 レオンの声は落ち着いている。落ち着いていることが、患者の呼吸を戻す。患者の呼吸が戻れば、手元が安定する。安定すれば、痛みが減る。


 ミアが水を用意し、ルネが布を差し出す。ルネの動きはまだ固い。だが固いまま正確だ。正確さは遅さを許す。遅くても正確なら、次は速くなる。


 処置は短く終わり、男は頭を下げて出ていった。礼を言う暇もないほど急がせない。だが流れは止めない。止めない流れが、混乱を作らない。


 次は若い母親と子どもだった。子どもは咳をしている。元気そうに見える。元気そうに見えるから、軽く扱われる。軽く扱われた結果だけが、後で残る。


 レオンは子どもの胸の音を聞き、喉を見る。熱はない。だが咳の間隔が風邪のそれではない。夕方に形が出るタイプだ。


 母親が不安そうに言う。


「今すぐ何か、強い薬を……」


 レオンは首を振らず、先に情報を渡した。


「今の段階では、強い薬が必要な状態ではありません。……ただ、夕方にもう一度来てください。そこで確かめます」


「どうして夕方……?」


「今はまだ、症状の形がはっきりしないからです。夕方なら形が出ます。間に合うように、こちらが先に準備しておきます」


 母親の目の揺れが止まる。理由が分かると、人は迷いに戻らない。ミアが薬の包みを渡し、使い方を短く説明する。ルネが帳面に要点だけ書く。書く字が乱れない。胸の内側が騒いでいるのに、表へ出さない。出さない強さが、ルネの形になり始めている。


 昼前、紙が来た。役場の男が二人、帽子を取って入ってくる。礼はする。だが視線が帳面と札へ先に落ちる。人ではなく規定を見ている目だ。


「判断医殿に――」


 男が言いかけて、言い直した。


「英雄専門最高判断医殿に、お目通りを」


 呼称の使い分けがぎこちない。町にとっては、まだ異物なのだろう。


 レオンは椅子から立たない。立たないのは傲慢ではない。立つべき場面と、立たないべき場面を分けている。


「ご用件を伺います」


 男が紙を差し出す。


「診療所の運用規定です。受付の順、料金の掲示、薬剤の保管、患者の滞在――」


 ミアの肩がわずかに硬くなる。ルネの視線が紙に落ちる。紙の匂いは、王都の匂いに似ている。紙が人を縛る匂いだ。


 レオンは紙を受け取らない。声を荒げないまま、線を引く。


「書類は置いていってください。今は患者対応を優先します」


「署名が――」


「後で拝見します。ただ、今この瞬間は優先順位が違います」


 男が言葉を詰まらせる。レオンの語尾は丁寧だ。丁寧だが、一歩も引かない。丁寧さで相手を下げない。下げないまま、引かない。


「規定に反します」


「責任の話なら、後で私が取ります。……今は患者です」


 責任という言葉が、男の喉に引っかかった。紙は人を縛れるが、責任は人を黙らせる。男たちは紙を机に置き、引いた。引き際が早い。賢い引き際だ。


 扉が閉まると、空気が戻った。


 ルネが紙を見つめ、喉の奥で何かを噛み砕く。


「……縛る」


 声は小さい。小さいのに重い。


 レオンは否定しない。否定しないことで、ルネの怒りは形になる。形になれば扱える。


「縛ります。だから読んでおきましょう。……今触る必要はありません」


 ルネは紙を取り、目を走らせる。読みが速い。読み終えると紙を机に戻す。視線は上がらない。だが胸の奥は熱い。怒りだけではない。守りたいものが出来ている熱だ。


 夕方、咳の子が戻ってきた。息が少し荒い。胸の音が変わっている。予想通りだ。


 母親の目が泣きそうになる前に、レオンは先に伝える。


「大丈夫です。呼吸はまだ保てています。……今なら間に合います」


 間に合うように呼んだ。呼んだ通りに来た。二つが揃うだけで救える範囲が広がる。


 処置は短く、要点だけを押さえる。ミアが復唱し、ルネが要点を書き留める。母親が何度も頭を下げるのを、レオンは止めない。止めないのは、礼を奪わないためだ。礼は、相手の立ち直りの形になる。


「帰ったら、今夜は温かくして休ませてください。もし呼吸が変わったら、迷わず来てください。……夜でも構いません」


 母親の肩が少し落ちる。夜でも構いません、という一言が、人を支える。


 夜が近づくと、足音が増える。途切れない。だが混乱は起きない。順番が崩れていないからだ。崩れないように、レオンが最初に線を引いている。


 ルネは途中で自分の膝を一度だけ確かめた。痛みがある。だが使える痛みだ。痛みがあるから無茶をしない。無茶をしないから続く。


 日が落ちる頃、診療所が一息ついた。


 ミアが水を替え、布を畳む。ルネが帳面を閉じ、棚に戻す。戻す位置が、朝より迷いなく決まる。身体が場所を覚えている。


 レオンはその手元を一度だけ見た。何も言わず、視線を戻す。それで十分だった。見られたことが、ルネの胸の内側を満たす。満たしたまま、言葉にしない。言葉にすると軽くなる。


「今日はここまでにしましょう」


 レオンが言うと、ルネが首を横に振りかけて止まる。止まったのは自分だ。言えば声が震える。震えたくない。


 レオンは少しだけ声を柔らかくする。


「続けるために、休んでください。……明日も来ます」


 明日も来ます。その一言が、役割を未来へ繋ぐ。ルネは小さくうなずく。溢れるほど嬉しいのに、表情は動かない。動かないまま、手が少しだけ速くなる。


 夜、ルネは薄い寝具に横になった。王都のベッドではない。だが嫌ではない。硬さは現実だ。現実があるなら、足が地面に付く。


 廊下を一度だけ足音が通った。レオンの足音だ。迷いのない足音が過ぎていくだけで、診療所が守られていると分かる。言葉にしない。言葉にすると軽くなる。


 翌朝。


 扉の前に、もう人がいた。並んでいるというより、立っている。遠慮と焦りが混ざった立ち方だ。王都の行列とは違う。ここでは皆が自分の生活を抱えたまま立っている。


 ミアが小さく息を吐く。


「……ほんとに、来たね」


 ルネは自分の足元を見る。ズボンの裾を折った位置が、昨日より自然だ。服が身体に馴染んでいる。馴染むほど、役割が中へ入ってくる。


 レオンが札を掛け直し、扉を開けた。


「お待たせしました。順番に診ます。どうぞ中へ」


 人が動く。動き出した瞬間、診療所は生活になる。生活が回り始める。


 最初は軽い症状が続いた。擦り傷、胃のもたれ、腰の痛み。軽い症状は軽いまま終わるとは限らない。軽いと見えるから、見落としが混ざる。


 昼前、男が運び込まれた。畑で倒れたという。顔色が悪い。汗が冷たい。だが熱はない。脈が速いのに息は落ち着いている。矛盾がある。矛盾は、見落とすと命になる。


 運んできた若者が言う。


「急に、がくって……仕事中に……」


 レオンは男の指先を見る。土が爪の間に残っている。普段から働く手だ。その手が今、力なく開いている。


「こちらへ。寝かせてください」


 言葉は丁寧だが、迷いがない。ミアが布を敷き、ルネが水を持ってくる。ルネの動きが昨日より早い。早いのに乱れない。順番が身体に入ったからだ。


 レオンは男の腹に手を当て、押す。押した瞬間、男の表情がわずかに歪む。痛みは腹の表面ではなく奥にある。汗が冷たい。冷汗は危ない。


「昨日、何を食べましたか」


「……いつも通り……」


「水はどこで」


「川の……」


 川。ここは川沿いだ。水は身近だ。身近なものほど疑われない。


 レオンは帳面を取らせる。ルネが開く。筆先が震えない。胸の内側は震えているはずなのに、表へ出さない。出さない強さが、ルネの芯になる。


 レオンは帳面の端に、小さく印を付けた。誰にも分からない印。だが後で必ず拾う印だ。


 ミアがそれに気づき、視線だけで問う。レオンは答えない。答えるのは確定してからだ。確定する前に言葉が歩くと、町は混乱する。混乱は治療を遅らせる。


「今日はここで休んでください。帰すと、また倒れます」


 男が反論する前に、運んできた若者がうなずいた。うなずく速度が速い。怖いからだ。怖いから従う。従うことで、間に合う。


 昼過ぎ、昨日の役場の男がまた来た。紙のことを言いに来たのだろう。だが入口の人の多さと、運び込まれた男の様子を見て、言葉を飲み込んだ。帽子を取り、低く言う。


「……また後ほど」


「はい。後ほど伺います」


 レオンは受け止める。突き放さない。だが優先順位は変えない。丁寧に受け止め、線は引く。その両方ができるから、判断医は信頼される。


 夕方、診療所はまた混んだ。混むこと自体は恐ろしくない。恐ろしいのは混んだ時に順番が崩れることだ。順番が崩れなければ現場は回る。


 ルネは布を替え、湯を用意し、帳面を走らせた。口数は少ない。少ないのに、場を支えている。支えているのが自分だと気づいた瞬間、胸の内側が溢れそうになる。溢れそうになっても、表情は動かない。動かないまま、手だけが少し速くなる。


 夜、最後の患者が帰り、扉が閉まった。


 ミアが椅子に座り、肩を回す。


「……動いたね。今日、ほんとに」


 ルネは返事をしない。返事をしたら声が震える。震えるのが嫌なのではない。震えが嬉しさを外へ落としてしまうのが嫌だ。嬉しさは胸の内側に置いておきたい。置いておけば、明日も動ける。


 レオンは帳面を閉じ、棚の上に置いた。


「明日も来ます。……今日はよく動けました」


 褒める言葉を大げさにしない。だが、言うべきことは言う。言われた側が、自分の足で立てる言葉を渡す。


 ルネは小さくうなずいた。胸の内側が満ちる。満ちたまま、言葉にしない。言葉にしなくても、もうここにいる。


 診療所は回っている。

 ルネはその中に立っている。

 そして帳面の端の小さな印が、静かに増えていく。




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