第三話 無口な医師
診療所の扉が叩かれた。
強くはない。
だが、迷いのない音だった。
レオンはすぐに分かった。
急患ではない。
村人の叩き方とも違う。
扉を開けると、女が立っていた。
旅装ではない。
村の女とも違う。
布は地味だが、擦れがなく、仕立てが整っている。
長く歩く者の身体ではなかった。
「診察を」
女はそれだけ言った。
声に揺れがない。
痛みを訴える声でも、助けを乞う声でもない。
「どうぞ」
レオンが脇に避けると、女は中へ入った。
足取りに無駄がない。
中を一度だけ見回す。
道具ではない。
空間そのものを測るような視線だった。
「お掛けください」
診療台を示す。
女は一拍置き、腰を下ろした。
「どこが具合悪いですか」
「自覚症状はありません」
即答だった。
「それでも、診察を?」
「はい」
「わかりました」
帳面を開く。
「最近、倒れたことは」
「ありません」
「息切れ、動悸は」
「ありません」
「睡眠は」
「問題なく」
質問は短く、女の答えも簡潔だった。
脈を取る。
指先だけで十分だった。
速さ、強さ、わずかな揺らぎ。
呼吸と連動する癖まで、逃さない。
女は静かに座っている。
「呼吸は」
「問題ありません」
レオンは返答を待たず、女の胸元から少し距離を取る。
耳ではなく、目を見る。
胸郭の上下。
鎖骨の動き。
吸気と呼気の切り替わり。
「……痛みは」
「ありません」
「失礼します」
触診に入る。
指で押すのは最低限。
皮膚の張り、温度、奥にある違和感。
女は身じろぎ一つしなかった。
訓練された静止だった。
「……異常は見当たりません」
レオンは率直に告げた。
「健康です」
女は小さく息を吐いた。
安堵ではない。
確認が終わっただけの反応だった。
「英雄は――治ったのですか」
「治療は終わっています」
「完全に?」
「医師として言えるのは、それだけです」
女は一度だけ、息を整えた。
「……あなたが王都を離れている間に」
「英雄は、何人も壊れました」
責める声ではない。
事実を並べる声だった。
「治せた者もいました」
「ですが、治りきらなかった者もいる」
「あなたなら、違った」
レオンは黙って聞いている。
「あなたは、英雄を治せる」
女は言った。
「それができる者は、もう多くありません」
「だから」
視線が、まっすぐに向けられる。
「あなたは、王都に戻るべきです」
診療所の空気が、わずかに張る。
「英雄が前線に出るかどうかは、次の話です」
「ですが」
「英雄を治せる医師を、村に置いておく理由はない」
「国は、そう判断します」
レオンは帳面に視線を落とした。
何も書かれていない、白い紙。
「私は」
レオンは静かに言った。
「患者を、選びません」
「場所でも、立場でも」
「ここに来た者を診る」
女は否定しなかった。
「……あなたらしい答えです」
「ですが」
一拍置く。
「それでも国は、あなたを必要とします」
「英雄を治せる者を」
「この世界は、手放しません」
扉が閉じた。
診療所には、いつもの静けさが戻る。
風が通り、棚の薬包紙がわずかに鳴った。
レオンは、帳面を閉じる。
何も書かない。
書けば、誰かが正しさを真似る。
正しさは、人を壊す。
外で、子どもたちの声が弾んだ。
転ぶ音。
笑う声。
走る足音。
剣ではない。
命令でもない。
ただ、生きている音だ。
レオンは灯りを落とした。
英雄を治せる医師は、確かに必要だ。
だが、英雄を生かす場所は、必ずしも王都ではない。
ここでは、役割は名乗られない。
誰も、誰かを英雄と呼ばない。
それでいい。
少なくとも、この場所では。
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