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第二十六話 空いた手

馬車を降りたとき、空気が違った。


冷たいわけではない。

張りつめてもいない。

ただ、均されている。


英雄のための場所は、いつもそうだ。

感情の凹凸が、最初から削られている。


建物は高く、廊下は広い。

床はよく磨かれ、足音が無駄に響く。

灯りは均等で、影が偏らない。


リナは歩きながら、自分の手を見た。


剣は持っていない。

だが、ここでは「持っていない状態」が仮の姿だと分かっている。


――いずれ、戻される。


そういう前提の空気だった。


イリスは先を歩く。

振り返らない。

振り返る必要がないからだ。


部屋に通される。


剣が、置かれている。


布の上に。

手入れは完璧だ。

刃に曇りはない。


取れ、という合図ではない。

だが、置いてあるという事実が、すでに命令だった。


「準備は整っています」


イリスは言う。


「英雄は、席に戻るだけ」


戻る、という言葉が選ばれる。

始めるでも、選ぶでもない。


リナは剣を見た。


――剣を取れば、楽になる。


迷いは消える。

期待に応えればいい。

自分で決めなくていい。


昨日まで、何度も浮かんだ考えだ。


だが、そのとき。


廊下の奥で、足音が乱れた。


速い。

複数。

揃っていない。


声が重なる。


「担架を!」


「息が浅い!」


「医師は――」


扉が開く。


運ばれてきたのは、若い兵だった。

顔色が悪い。

鎧の隙間から、血が滲んでいる。


剣で切られた傷ではない。

内側だ。


倒れた理由は、戦闘ではない。

無理をした体の、限界だった。


イリスが一瞬だけ、視線を動かす。


「医師を呼びなさい」


「到着まで時間が――」


「なら、処置を」


誰かが言いかけて、止まる。


剣の前に立つリナを見る。

英雄を見る。


――英雄なら、斬れる。

――英雄なら、前に出られる。


だが、ここに必要なのは剣ではない。


リナは、動いた。


剣には触れない。


担架に近づき、鎧の留めを外す。

布を引き寄せ、圧をかける。

呼吸を見る。

脈を取る。


誰も、止めない。


止める理由が、見つからないからだ。


「水は、まだ」


短い声。

自分でも驚くほど、落ち着いている。


「寝かせたまま。首は動かさない」


誰かが従う。

考えるより先に、体が動く。


英雄の動きではない。

だが、遅れてはいない。


血の流れが、少し落ち着く。

息が、わずかに深くなる。


リナは、剣を見ない。


見れば、戻れなくなる気がした。


処置が一段落したとき、イリスが近づいた。


「……それは、医療行為ですか」


責める声ではない。

確認だ。


「必要なことです」


リナは答えた。


英雄としてではない。

役割としてでもない。


ただ、そうするべきだと思ったからだ。


イリスは、しばらく沈黙した。


「英雄は、前に出る存在です」


「剣を持ち、決断を下す」


正しい。

制度の中では。


「ですが」


珍しく、言葉が途切れる。


「今のは、英雄の仕事ではない」


「……ええ」


リナは頷いた。


否定しない。

肯定もしない。


剣は、まだ布の上にある。


イリスは視線を逸らし、部屋の外を見る。


「席は、空けておきます」


それは譲歩ではない。

保留だ。


「英雄は、逃げません」


そう言って、去る。


扉が閉まる。


部屋に残るのは、息を整え始めた兵と、

剣と、リナ。


リナは、ようやく手を下ろした。


手が、少し震えている。


――剣を取らなかった。


それだけのことが、胸に重く残る。


診療所の匂いが、ふと蘇る。


布。

湯。

静かな手順。


そして、あの声。


「役割は、自分で決めていい」


リナは剣から目を逸らし、

空いた手を見た。


この手は、まだ何かを選べる。


そのことが、怖い。

だが――


少しだけ、息がしやすかった。




――――――――――――――――――

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