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第二十二話 置き場のない剣

朝、剣に触れる指先が、昨日より少し遅れた。


触れないわけではない。確かめないわけでもない。

ただ、手がそこへ行くまでの一拍が、いつもより長い。


鞘に収まった刃は、いつも通りだ。重さも、革の感触も、変わらない。振るえば今日も切れる。戦えと言われれば戦える。そういう確信だけは、揺れていない。


それでも、剣を持ったまま、リナはしばらく動かなかった。


戦場では、迷う時間が命取りだった。

迷うなら、動け。動けないなら、考えるな。

その癖が、体に染みている。


だから、この「止まる」が妙だった。止まっても、何も起きない。誰も死なない。命令も飛ばない。音もしない。


その静けさが、逆に落ち着かなかった。


リナは剣を壁に立てかけ、外套を羽織る。

扉を開けると、冷えた空気が頬に触れた。村の朝は、戦場の朝と違う。遠くで家畜の声がして、水の音がして、人の足音がする。強張りをほどく方向の音ばかりだ。


診療所の扉を開けると、木と薬草の匂いが混ざっている。

レオンはもう中にいた。


机ではなく、棚の前に立っている。瓶の並びを、目で追っているだけに見える。触ってもいないのに、そこに立つ時間が長い。


「おはよう」


声は低い。


「おはよう」


リナは靴を揃え、いつもの位置に立つ。入口から二歩、棚から半歩。患者の動線を邪魔せず、レオンの背後にもならない場所。最初は「ここに立つと邪魔にならない」と頭で選んだのに、今は体が勝手にそこへ収まる。


レオンは瓶から目を離さずに言った。


「今日は、少し来る」


予告のような言い方だった。


「わかりました」


その返事も、もう迷わない。


朝一番の患者は年配の男だった。畑仕事の帰りに寄ったらしい。腰を押さえ、眉間に皺が寄っている。


「先生、すまん」


「座れ」


男が椅子に腰を下ろすと、視線がリナに止まる。


「あんた……」


「先生が診ます」


リナが言うと、男は短く頷いた。

レオンは黙って触診を始める。押す場所、角度、動かす範囲。動作は小さいのに、男の表情がそれに合わせて変わる。


「ここは痛むか」


「そこは……痛い」


「今日は休め」


「休めるかって……」


「休め」


言葉が同じでも、押し切る強さがある。

男は結局頷き、背を丸めたまま帰っていった。


次は子どもだった。母親に手を引かれて入り、鼻先を赤くしている。泣いた後だ。


「どうした」


レオンが聞く。


母親が慌てて言葉を重ねる。転んだ、膝を擦った、昨日も見た、でも今日は痛いと言う、熱はない、けれど心配で――。


「見せろ」


それだけで話は終わった。


リナはしゃがんで子どもの膝の高さに顔を合わせた。


「見るだけだよ」


子どもは鼻をすすりながら頷く。

処置は短い。傷は浅い。だが子どもの目はずっとリナを追っている。怖いのは痛みより、ここが何をする場所か分からないことだ。


終わると、子どもは急に口を開く。


「ねえ」


「なに?」


「ここ、こわくない」


それだけ言って、母親の手を引いて出ていった。


扉が閉まってから、リナは少しだけ、その場に残った。

胸の奥に、昨日と同じ感覚が沈む。


戦場で「怖くない」を聞いたことは、ほとんどない。

怖いと言える状況のほうが、勝ちだ。

怖いと言う暇もなく、終わる。

ここは、違う。


午前中は、確かに人が途切れなかった。


切り傷、火傷、喉の違和感、肩の重さ、古傷の痛み。

深刻ではない。だが「深刻ではない」と自分で判断できない不安が、診療所へ人を連れてくる。


リナは動き続ける。


椅子を引く。

布を置く。

水を用意する。

棚の前に立ち、瓶の位置を直す。

レオンが何かを探す前に、机の端にそれを置く。


そういう動きが、少しずつ「自分の癖」になっているのが分かった。

戦場の癖とは違う。

誰かを倒すための癖ではない。


昼前、声の大きい男が入ってきた。指を切ったらしい。布で巻いているが、赤がにじんでいる。


「先生! これ見てくれ!」


「座れ」


男が椅子に腰を下ろす。

レオンは布をほどかせ、傷を見る。刃物の切り口は浅い。縫う必要はない。


「魔法でいい」


短い詠唱。淡い光が指先を包み、血が止まる。表面が寄り、すぐ落ち着く。


男が目を丸くする。


「おお……!」


「今日は濡らすな」


「わかった!」


男は妙に上機嫌で帰っていった。


リナは、その光を見ても、胸がざわつかなかった。

戦場で治癒魔法は「戻るための道具」だった。

戻って、また前へ出るためのもの。


ここでは違う。

治ったら、帰って、暮らしに戻る。

前へ出ない。


午後、診療所は静かになった。


風が窓を鳴らす。

棚の瓶が、光の角度で少しだけ鈍く光る。

レオンは記録を書き、リナは床を拭く。言葉は少ない。だが、沈黙は重くない。作業がある沈黙だ。


水桶を動かそうとして、また同時に手を伸ばす。

一瞬止まり、どちらともなく手を引く。


「先、どうぞ」


リナが言うと、レオンは首を振った。


「……二人でいい」


二人で持つ。

重さが半分になる。


リナは、その「半分」に慣れていない。

戦場では、重さを分けることは弱さだった。

誰かが重いなら、自分が持て。

誰かが倒れるなら、自分が前へ出ろ。

重さは奪い合うものではなく、引き受けるものだった。


だが、ここでは、分けても失われない。

分けることで、次の作業が早くなる。


水桶を置くとき、レオンがぽつりと言った。


「……慣れてない」


「何が?」


「二人でやるのが」


それ以上は続かない。

レオンは自分の言葉を広げない。

リナも、追いかけない。


追いかけると、言葉が壊れる気がした。


夕方、また患者が来る。若い女だった。顔色が悪く、息が浅い。扉を開けた瞬間の目が、どこにも焦点を結ばない。


「……すみません」


声が小さい。


「座れ」


レオンの声は低い。押し付ける強さではなく、揺れない強さだ。

女は椅子に腰を下ろし、手を膝の上で握りしめる。


女の視線がリナに止まる。

助けを求めているわけではない。

ただ、今いる場所を確かめている。


リナは一歩前に出た。


「先生が診ます。大丈夫です」


保証ではない。

励ましでもない。

ただ、ここに来たことを否定しない言葉。


女は深く息を吐いた。

吐けたことに、自分で驚いた顔をする。


診療は短かった。

命に関わるものではない。だが、生活を削る種類のものだった。

レオンは必要なことだけを言い、余計なことは言わない。


「無理をするな。今日は休め」


女は何度も頭を下げ、診療所を出ていった。


扉が閉まると、室内はすぐ片づけの空気になる。

レオンは机に戻り、記録を書く。

リナは棚の前に立ち、瓶の並びを見る。


そのとき、ふと、思う。


剣を持たない自分は、誰なのか。

英雄でなくなったら、何が残るのか。


戦場では、答えは単純だった。

斬れるか、斬れないか。

勝つか、負けるか。


ここでは違う。


誰かが来て、少し楽になって帰る。

その間に、自分が立っている。

それだけで、一日が終わる。


「それだけ」のはずなのに、胸に残る。


片づけの時間になって、レオンが棚に手を伸ばす。

昨日動かした瓶の位置で、指が一瞬止まる。


リナは口を開きかけて、やめた。

昨日は「それ右でした」と言ってしまった。

今日は、言うべきか分からない。


言うべきだ。滞る。

でも、言い方がある。


リナは瓶を取り、机の端に置く。

言葉を使わずに渡す。


レオンはそれを手に取って、何も言わずに頷く。


その頷きに、胸が少しだけ温かくなる。

温かい、と自分で認めたくなくて、視線を外す。


ランプに火が入る。

室内の影が濃くなる。


「今日は、ここまでだ」


いつもの言葉。


リナは出口の前で立ち止まった。

言いたいことがある。

言えない。


剣を持たない自分は、ここで何をしているのか。

何者なのか。

その問いが、喉の奥に引っかかっている。


「……先生」


呼ぶ声が、思ったより小さい。


レオンは顔を上げない。

だが、手は止まる。


「ここって、人が足りないですか」


問いが出てしまった。

問いにしたくなかった。

答えが返ってくると、何かが決まってしまう。


レオンは一拍置く。


「困ってはいない」


即答だった。


その言葉で、胸が少し沈む。

不要だと言われたわけではない。

でも「必要だ」と言われたかったのかもしれない、と気づいてしまう。


リナは視線を落とし、続けた。


「でも……いたら、楽にはなりますよね」


「そうだな」


それ以上は言わない。


勧めない。

引き止めない。

評価もしない。


だから、決めるのは自分だ。


リナは、握っていた指をほどく。

言葉が喉の奥で形を変える。


看護師――その言葉が浮かぶ。

聞いたことがある。

戦場にもいた。

だが、そこでは「治すための手」ではなく、「戻すための手」だった。


ここでは違う。

ここでは、戻さなくていい。

戻らないまま、生きるための手だ。


その違いが、胸の奥で静かに立ち上がる。


リナは息を吸って、吐いた。


「……私」


言葉が止まる。

続けると、何かが変わる。

変わるのが怖い。


けれど、変わらないままでは、今日の一日が行き場を失う。


「……ここで、手伝いたいです」


それは「看護師になる」と同じではない。

でも、その手前の言葉だった。

自分の手を、ここへ置きたい、という言葉。


レオンは何も言わない。

顔も上げない。

ただ、返事を急がない。


沈黙が続く。

長い沈黙ではない。

だが、リナには十分長い。


レオンがようやく、短く言う。


「理由は」


問いだ。

試す問いではない。

確認の問いでもない。

ただ、聞いただけ。


リナは、答えを持っていない。

持っていないのに、口が動く。


「……ここだと」


また止まる。

言い訳にしたくない。

決意にしたくもない。


「剣を持ってない自分が、邪魔じゃないから」


言ってしまってから、胸が熱くなる。

熱いのに、泣きそうにはならない。

泣いてしまうと、言葉が嘘になる気がした。


レオンは何も言わない。

否定もしない。


しばらくして、短く頷く。


「……分かった」


それだけ。


許可でも、承認でもない。

称賛でもない。


ただ、事実として受け取っただけ。


その「だけ」が、今のリナには十分だった。


外へ出ると、空はまだ明るい。

剣の重さを思い出す。

だが、今日は戻らない。


代わりに、今日の一日が、そのまま胸に残っていた。


忙しかったこと。

子どもの声。

女の吐いた息。

水桶の重さが半分になったこと。

瓶を言葉で直さずに渡したこと。

そして最後に、言ってしまったこと。


ここにいたい理由は、まだ整っていない。

でも、整っていないまま、口にした。


剣の置き場は、まだ決まらない。


けれど、

自分の手の置き場なら、

今、少しだけ決まった。


リナは歩きながら、外套の下で指を握り直す。

戦場で握っていたのとは違う握り方だった。


強く握るためではない。

落とさないための握り方。


その違いが、今夜はまだ、怖くない。




――――――――――――――――――

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