第二十話 当たり前の手順
朝の診療所は、静かだった。
扉を開けると、夜の冷えが床に残っている。レオンは机に向かったまま、記録を書いていた。筆の動きは一定で、視線は紙から離れない。
「おはよう」
声だけが返る。
「おはよう」
リナは靴を揃え、中へ入った。立つ場所は自然に決まっている。入口から二歩、棚から半歩。最初は意識していた距離だが、今は考えなくても体がそこへ行く。
昨日ここに来なかったことは、胸の奥に残っている。
だが、拾われない。
拾われないから、今日もここに立てる。
最初の患者は子どもだった。母親に手を引かれ、膝を差し出す。転んだらしい。
レオンが膝を見る。
「外していい。今日は走るな」
短い指示。
リナは布を解き、膝を一度確かめてから母親に見せる。母親は安心したように頷き、子どもを連れて帰っていった。
室内はすぐ、次の静けさに戻る。
老人、喉の違和感を訴える女、腰を痛めた男。
診療は淡々と進む。
レオンは必要なことだけを言い、余計な言葉を足さない。リナは棚を整え、器具を揃え、床に落ちた糸屑を拾う。誰に頼まれたわけでもないが、次が滞らないように動く。
昼前、足音が慌ただしくなる。
刃物で手を切った女が入ってきた。布で押さえているが、赤がにじんでいる。
「座れ」
女が椅子に腰を下ろす。
レオンは一度、創部を見る。
それだけで杖を取った。
短い詠唱。
淡い光が女の手を包み、血の流れが止まる。皮膚が寄り、表面はすぐに落ち着いた。
女が息をつく。
「……もう、大丈夫ですか?」
レオンは答えず、女の手を取ったまま、指先で軽く押した。
わずかに、傷が開く。
「まだだ」
机の端に、新しい布と器具が並ぶ。リナが黙って揃える。
女が目を瞬く。
「魔法じゃ……」
「表面は閉じた。中は閉じていない」
それだけ。
女は一度、唇を噛み、頷いた。
縫合は短い。
痛みはあるが、長引かない。
「今日は濡らすな。力も入れるな。明日、また来い」
「……はい」
女は何度も頭を下げ、診療所を出ていった。
室内はすぐ、次の動きに移る。
机の上は整い、空気は切り替わる。
午後は穏やかだった。
レオンは記録を書き、リナは棚の前に立つ。瓶の並びを確かめ、器具の位置を直す。沈黙は続くが、重くはない。作業がある沈黙だ。
「それ、左でいい」
「うん」
短いやり取り。
腰を痛めた男が来て、すぐ帰る。
「先生、ちょっといいか」
「今日は帰れ。明日も痛むなら、また来い」
それで終わりだ。
夕方、最後の患者が帰る。
片づけが始まる。器具を戻し、床を確かめ、次に備える。水が少しこぼれる。リナが布を取ろうとすると、レオンが新しい布を差し出した。何も言わない。交換するだけだ。
ランプに火が入る。
「今日は、ここまでだ」
それだけ。
帰れとも、残れとも言われない。
リナは自然に片づけを終え、入口を見る。
外はまだ明るい。
「今日は……人、少なかったですね」
「そうだな」
短い返事。
剣を使うことはなかった。
それでも、診療は滞らなかった。
それが、少し不思議で、
少しだけ、悪くない。
宿に戻り、剣を壁に立てかける。今日は重さを確かめない。
代わりに、今日の一日が、そのまま胸に残っていた。
全部が、当たり前だった。
当たり前に始まり、当たり前に終わる一日。
その当たり前が、
明日は少し違ってもいいかもしれない、
そんな気が、ほんの少しだけした。
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