第十八話 空いている席
朝は早かった。
霧が村に降りている時間、診療所の扉はすでに開いていた。木の軋む音は小さい。誰も気にしない。気にしないことが、この場所の常だった。
レオンは一人で準備をしていた。
器具を拭き、瓶を確かめ、布を畳む。順番は決まっている。順番が決まっているから、考える必要がない。考える必要がないことは、続けられる。
外で足音がする。
「先生」
声は低い。農具で指を切った男だ。血は止まっているが、念のため来たのだろう。念のため、という理由で来る人間が増えたのは、この診療所が“信用されている”からだ。信用は数で増える。数は時間を奪う。
男が椅子に座る。
レオンは手早く傷を見る。深くはない。洗って、包めば終わる。
「動かすな」
それだけ言って処置を始める。男は黙って従う。説明が足りないと思う者はいない。必要なことは、必要な分だけ言われると分かっている。
処置が終わる前に、扉がまた鳴った。
「先生、母が」
声が重なる。老女の付き添いだ。腰を痛めたらしい。重なること自体は珍しくない。珍しくないから、対応できる。できるが、余白は削れる。
レオンは包帯を留め、男を見送る。すぐ次に向き直る。老女を座らせる。歩き方を見る。腰ではない。股関節だ。触診する。表情を読む。
その間にも、外で待つ気配が増える。
回っている。
確かに回っている。
だが、記録はまだ白紙のままだ。
昼前になって、リナは来た。
理由は、いくつも作れる。昨日の子どもの様子が気になった。包帯の具合を聞きたかった。村人に呼ばれた。どれも嘘ではない。だが一つで足りる理由でもなかった。
扉を開けると、室内はすでに人で埋まっていた。
リナは入口で一度止まり、邪魔にならない位置を探す。戦場なら、ここは後方だ。ここでは後方という概念が曖昧だ。曖昧だから、立ち位置を自分で決めなければならない。
レオンは顔を上げ、短く言った。
「そこに」
指示は指先だけだった。
それで十分だった。
リナは示された位置に立つ。老女の背中に手を添える。支える力を調整する。体重を預けすぎないように。怖がらせないように。
レオンは診る。
淡々と、しかし丁寧に。
「重い物は当分避けろ」
「痛みが引かないなら、また来い」
老女は何度も礼を言い、孫に支えられて帰っていく。
次が来る。
次も、軽い。
次も、急ぎではない。
軽いからこそ、数が増える。
急ぎでないからこそ、後回しになる。
リナは気づく。
レオンは、一人で全部やっている。
それは責任感ではない。癖だ。長くそうしてきた人間の癖。誰かに振る、という発想がない。必要だと思っていないからだ。
「水」
言われて、リナが器を持つ。
「布」
布を渡す。
「これ、洗っておいてくれるか」
頼まれているのか、頼られているのか、区別がつかない。区別がつかないまま、身体が動く。動いてしまう。
村人がそれを見て、ぽつりと言う。
「先生も、楽になったな」
言葉は軽い。深い意味はない。
だからこそ、刺さる。
レオンは否定もしない。肯定もしない。
事実を付け足すこともしない。
ただ、次の患者に向き直る。
昼を過ぎても、人は途切れなかった。
レオンの動きは変わらない。速さも正確さも落ちない。
落ちないが、増えない。
余裕が増えることはない。
リナは、器具を拭きながら考える。
自分がいなかったら、どうなっていたか。
回る。
確実に回る。
だが、遅れる。
記録は夜になる。
布は後で洗う。
水は自分で汲む。
壊れはしない。
ただ、静かに疲れる。
夕方、ようやく人が引いた。
レオンは椅子に腰を下ろし、記録に手を伸ばす。
その手が、少しだけ止まる。
疲労ではない。
考えごとでもない。
単に、時間が足りなかっただけだ。
リナは何も言わず、ランプに火を入れる。
言われなくても、やってしまう。
その夜、リナは来なかった。
理由は、あった。
宿の手伝いを頼まれた。
雨が強かった。
疲れもあった。
どれも本当だ。
診療所では、レオンが一人で灯りを点けた。
来ると思っていたわけではない。待っていたわけでもない。
だが、来ないという事実は、作業の流れを少しだけ変えた。
水を汲みに行く回数が増える。
布を畳む時間が後ろにずれる。
記録は簡潔になる。
問題ではない。
問題ではないが、違いはある。
夜更け、記録を閉じたとき、レオンは一瞬だけ入口を見た。
確認ではない。習慣でもない。
ただ、空間を測っただけだ。
翌朝、リナはまた来た。
扉を開けた瞬間、昨日と同じ光景が広がる。
同じであることに、なぜか安堵する。
「おはよう」
自然に出た言葉に、自分で驚く。
「おはよう」
レオンの返事は短い。
言葉が交わる。それだけで、位置が定まる。
この日も、人は来る。
軽い怪我。相談。確認。
リナは動く。
頼まれなくても、空いていることを拾う。
誰も「残れ」と言わない。
誰も「必要だ」と言わない。
それでも、夕方には、そこに立っているのが当たり前になっている。
帰り道、リナは立ち止まった。
自分は何をしているのだろう、と考える。
英雄としてではない。
戦う者としてでもない。
役に立っているかどうかも、まだ分からない。
ただ、いないと、少しだけ違う。
その「少し」が、胸に残る。
剣に触れない一日。
それでも、空白ではなかった。
夜、宿で灯りを消す前に、リナは思う。
明日、来ない理由を作ることはできる。
同じくらい、来る理由も作れる。
どちらを選ぶかは、まだ決めていない。
ただ一つ確かなのは、
この診療所には、空いている席がある、ということだった。
誰の席かは、まだ決まっていない。
決める言葉も、まだ出ていない。
それでも、空席は空席のまま、そこにある。
そのことが、胸を静かに熱くした。
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