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第十七話 胸が熱くなる日

雨は上がっていた。


医務室の前の土は湿っていて、足を置くとわずかに沈む。空は白いまま低く、雲の底が近い。剣を背負わない背中に、風が直接当たる。冷たいが、不快ではなかった。


リナは扉の前に立ち、少しだけ迷った。


理由は、ない。


痛みも異常もない。昨日と同じく、来なくてもいい日だ。来なくてもいい日が続くほど、胸の奥は落ち着かなくなる。落ち着かなくなるのに、ここへ来ると呼吸が整う。


それが、自分でも不思議だった。


扉を叩く。


「どうぞ」


返ってくる声は、いつもと同じだった。

同じ、というだけで、胸がわずかにほどける。


リナは中へ入った。


室内は変わらない。机、椅子、棚、瓶、布。匂いは薄い。清潔さは、秩序の形で残っている。レオンは机に向かっていた。記録をつけている。紙の端が少しめくれている。几帳面だが、誇らない手つきだ。


「……こんにちは」


挨拶は、もう自然に出る。


レオンは顔を上げた。


「来たか」


それだけ。


理由を問われないことに、慣れてきている自分がいる。慣れた分だけ、そこに甘えそうになる自分もいる。甘えそうになるのが怖くて、リナは立ったまま何をすればいいか分からないまま、椅子の背に指を置いた。


そのとき外から声がした。


「先生!」


扉が勢いよく開く。村の女が子どもを抱えて入ってきた。子どもの膝が赤い。血は少ないが、驚いて泣いている。


「転んだだけなんです。でも……」


女の声は震えていた。怪我よりも、泣いていることが不安なのだ。


レオンの返事は短い。


「座らせて」


女が子どもを椅子に座らせる。リナは無意識に一歩下がった。戦場なら立ち位置は決まっている。ここでは決まっていない。決まっていない場所で、勝手に身を引いてしまう。


「水」


レオンが言う。


その一言で、リナの身体が動いた。棚の位置はもう覚えている。器を取って水を注ぐ。手が迷わないことに、自分で驚く。迷わないのに、胸は落ち着かない。落ち着かないのは、怪我ではなく、距離だ。


レオンは子どもの膝を見る。傷は浅い。洗って、止血して、包めば終わる。処置の手順が頭に浮かぶ。戦場で何度も見てきた流れだ。だが、ここでは叫びがない。血の匂いが薄い。怖いのは別のところにある。


「押さえてくれるか」


その言葉が、リナに向けられた。


名前は呼ばれない。

命令でもない。


だが、はっきりと「あなたに」と分かる言い方だった。


一瞬、息が止まる。


私で、いいのか。


リナはすぐに膝の横にしゃがみ、布を当てた。血がにじむ。押さえる力を調整する。強すぎない。弱すぎない。子どもは泣きながらも、こちらを見る。戦場の視線とは違う。怖さではなく、頼りなさの視線だ。


レオンが前屈みになる。


距離が近い。


近いが、触れない。


肩が触れそうで触れない。息の音がわかる。体温は感じない。医師の距離だ。踏み込まない近さ。


その近さが、胸を熱くした。


レオンは子どもに言う。


「痛いのは今だけだ」

「見るぞ」


子どもは泣き止まない。だが泣き方が変わる。怯えではなく、耐える泣き方になる。女の手が子どもの背をさする。呼吸が落ち着いていく。


レオンは淡々と傷を洗い、止血し、包帯を巻く。動きに迷いがない。早いのに乱暴ではない。相手の反応を見て、手順を変える。手順を変えても、言葉は増やさない。


「今日は濡らすな」

「明日、赤みが増えたら来い」

「熱が出たら、すぐ来る」


説明は必要な分だけ。


「ありがとうございます、先生」


女が何度も頭を下げる。村の呼び方が口から出る。医者、と誰かが言うこともあるだろう。ここではそれでいい。役割としての呼び名が、生活の中に溶けている。


レオンは軽く頷くだけで感謝を受け取らない。

受け取らないのに、捨ててもいない。


女と子どもが帰っていく。


静けさが戻る。


リナは膝に当てた布を外し、手についた血を拭った。赤は薄い。戦場の赤より軽いはずなのに、指先が熱い。熱いのは血のせいではない。


レオンがリナを見る。


「助かった」


たった三文字。


評価ではない。

戦力としてでもない。


人として、頼った言葉。


その瞬間、胸の奥が動いた。


戦の前とも違う。

勝った後とも違う。

称えられた時とも違う。


知らない感覚だった。


「……いえ」


声が少しだけ震える。震えを隠そうとして、喉の奥が固くなる。


レオンは気づかない。気づいても意味を足さない。そういう人だ。淡々と布を片づけ、器具を戻す。


「手つきがいい」


付け足すように言う。


褒め言葉のようで、評価ではない。事実の共有だ。

それが余計に刺さる。


リナは自分の手を見る。


剣を握る手。

血を拭う手。

今は、子どもの膝を押さえた手。


役割が違うのに否定されない。

戦わないのに、ここに立っていい。


リナは口を開きかけて、やめた。


何かを言えば、意味がついてしまう。

意味をつけた瞬間、ここは戦場に似てくる。理由と目的の場所になる。


だから、言葉を選ぶ。


「……さっきの子、大丈夫そうだな」


逃げた言葉だと、自分でも思った。だが、レオンはそれでも返す。


「大丈夫だ」

「驚いただけだ」


短い断定。余計な慰めはない。

でも、確実に収まる形にして終わらせる。


それが、安心だった。


リナは気づく。


この人は、私に戦う役割を与えない。

同時に、役に立たない存在にもしていない。


誰かを救うのに、剣は要らないことがある。

それを、言葉ではなく、手順で見せてくる。


レオンは棚から布を一枚取り、畳み直した。

その動きが続く限り、ここは壊れないように思えた。


外で風が鳴る。


窓の向こうが少し暗い。雲が厚い。

また雨が来るのだろう。


レオンが言う。


「濡れるぞ」


それだけ。


上着を貸すわけでもない。

引き止めもしない。

ただ、気遣いだけ置いていく。


リナは頷いた。


「……うん」


返事が短くなる。英雄としての返事ではない。

女の子の返事に近い、と自分で思ってしまって、少しだけ顔が熱くなる。


レオンは視線を戻し、机の上を整え始める。

それ以上は何もしない。


それが、ここでは正しい距離だった。


リナは扉へ向かい、手を取っ手にかけたところで止まった。

振り返りたい気持ちが出る。だが振り返ったら、何かが変わる気がした。


変わらない方がいい。


変わらないことが、怖いほど嬉しい。


外へ出ると、空気が冷たかった。

医務室の中より冷たいのではない。外の世界が広いからだ。広い世界は、戦場へもつながっている。


それでも、リナの足取りは軽かった。


宿へ戻る道すがら、リナは剣のことを思い出す。

布に包まれたままの剣。結び目はまだ固い。


嫌いではない。捨てるつもりもない。


ただ、今は背負わなくていい。


背負わなくていいことが、誰かの命令ではない。

自分の選択でも、まだない。


気づけば、背負っていない。


その事実が、胸を熱くする。


夜、部屋でランプを消す前に、リナは手を見た。


今日、押さえた膝。

今日、拭った血。

今日、言われた言葉。


「助かった」


それが胸の奥で、何度も繰り返される。


理由は、明日も作れる。

異常は、明日もないかもしれない。


それでも、たぶん――


明日も、ここへ来てしまう。


そのことが何を意味するのかは、まだ分からなかった。

分からないままでも、怖くなかった。


ただ、胸が熱い。


それだけが、確かだった。




――――――――――――――――――

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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