第十四話 剣を使わない日
霧が薄くなる頃、村はまだ眠っていた。
屋根の低い家々が、谷の形に沿って寄り集まっている。道は広くない。荷車がすれ違うには肩を引かなければならない幅で、石の縁がところどころ欠けている。畑へ向かう小道がいくつも枝分かれしていて、どれも同じように土の色が濃い。
リナは村の手前で足を止めた。
剣は背にあった。布で包んで、革紐で留めてある。抜けないようにしているのではない。抜かないために結んでいる。指先がその結び目に触れると、紐の硬さが手に残る。
剣があるだけで、見られ方が変わる。声の掛けられ方も変わる。ここへ来る道すがらで、それを何度も見た。名を知られていなくても、剣の重さだけで、人の目は向きを変える。
今日は、それをさせない。
リナは結び目を確かめ、背筋を伸ばして歩き出した。
村へ向かう理由は、言葉にしてしまうと薄くなる。だから、自分にも言わないようにしていた。どこかにいる医者を探している、と言えばそれは正しい。しかし、その言葉はいつも途中で終わる。探す、という行為が、彼女の中で別の意味になっているからだ。
最初は、ただ生き延びたくて動いた。戦場で生き延びるのと同じように、死なないために歩いた。
次に、場所を捨てた。人を捨てた。噂を捨てた。どれも違う、と切り捨てていくうちに、残ったものがここだった。
凄腕の医者は多かった。名のある医者も、腕を誇る医者もいた。そういう者は、たいてい都市にいる。弟子や記録を集めたがる。手柄を欲しがる者もいる。村に来ても長居はしない。長居する者は、代わりに金を求める。あるいは、褒められることを求める。
安心できる医者も多かった。優しい声の医者、話を聞く医者、慰める医者。そういう者は、誰かの悲しみを受け止める代わりに、自分が傷つく。夜の間に酒を飲む。眠れなくなる。目の奥に疲れが溜まる。
リナが探していたのは、そのどちらでもない。腕がある。なのに、安心できる。そこに矛盾がない。あの人は、救命の最中にも声を荒げず、他人の目も気にせず、必要なことだけを言って、必要なことだけをした。
それができる者は、少ない。
そして、そういう者は、人が集まる場所にいない。理由は分からなくても、そういう気配だけは残る。名誉を断った話が、何度か耳に入った。報酬の話もあった。安全な席の話もあった。それでも断った、と。断った理由を誰も説明できず、誰も怒れず、誰も誇れない。
誇れない断り方をする医者。
その条件が、最後に残した。
村の入口で、木の柵をまたいだとき、土の匂いが強くなった。薪の焦げる匂いは薄い。ここはまだ朝の火を起こしていない。鶏が一羽、道端を横切って、ゆっくりと畑へ逃げた。追い立てる声はない。追い立てられない鶏の歩き方だ。
家の戸が一つ、開く音がした。
女が水桶を抱えて出てくる。肩に掛かった布がずり落ちるのを、片手で直す。目が合う。女は驚かない。驚いたように見せない。よそ者を見るときの間があるだけだ。
「おはよう」
女が言う。
リナは一拍置いて、頭を下げた。
「おはようございます」
それだけで、女は桶を持ち直し、井戸の方へ歩いていった。村では、挨拶が先にあり、理由は後になる。理由を聞かれないことが、リナには少しだけ助かった。
道を進むと、小さな広場がある。露店の準備をする男が二人。樽を転がし、布を掛け、板を並べる。手つきが慣れている。顔は険しくない。戦場の人間の顔ではない。
リナは広場の端に立ち、しばらく眺めた。
自分が眺める側になることに、慣れていなかった。戦場では、眺めている時間は死につながる。見たら判断して動く。動いて終わる。それが生き延びるやり方だった。
ここでは、眺めていても誰も死なない。
その事実が、胸の奥を静かにさせた。
「旅の人かい」
声が掛かる。男が一人、樽の上に布を掛けたまま、こちらを見ている。
「はい」
「泊まりは?」
「まだ決めていません」
嘘ではない。だが、正確でもない。
男はそれ以上、踏み込まない。視線が背の布包みに一瞬寄るが、すぐに戻る。
「宿なら、川沿いに一つある。部屋は多くない」
「ありがとうございます」
それだけで終わった。村の会話は短い。短いが、冷たくはない。余計なことを言わない距離が、ここにはあった。
リナは川の方へ向かった。
水音は近づくにつれて大きくなる。川辺には洗い場があり、石が並んでいる。誰かが先に来て洗濯をしていた。布が水に沈み、引き上げられるたびに、濡れた音がする。
リナは川の少し上流へ回り、手を洗った。血はついていない。鉄の匂いもない。なのに、指先の裏に戦の感覚が残っている。消えないものがある。
それを見つめていると、背後で小さな声がした。
「おねえちゃん」
振り向くと、子どもが立っている。背丈は膝のあたり。頬が赤い。息が上がっている。片足を少し浮かせて、痛いのを我慢している。
「どうした」
リナがしゃがむ。子どもは息を整えようとして、うまくいかない。
「すべった」
足首が少し腫れている。色はすぐに変わらない。捻っただけだ。
リナは子どもの足首に触れる前に、一言だけ言った。
「触る。痛かったら言え」
子どもが頷く。
足首の外側を軽く押す。骨の位置はずれていない。内側も同じ。脛まで指を滑らせる。異常な角度もない。動かす。子どもが顔をしかめるが、泣かない。泣いている暇がない顔だ。
「折れてない」
リナはそう言って、布で足首を軽く固定した。川辺にあった古い布切れを借り、きつくならないように巻く。指が一本入る程度。腫れはこれから出る。冷やした方がいい。
「今日は走るな」
子どもは少し不服そうに目を伏せた。
「冷たい水で少しだけ冷やせ。長くはするな」
「うん」
「痛みが強くなったら、先生のところへ行け」
先生、と言った瞬間、子どもの目が少しだけ明るくなる。
「先生、いる?」
「いるの」
子どもは頷いた。
「先生、いつもいる。きょうもいる」
その言い方が、村の真実だった。医者がいる村。医者がいるだけで、人はこういう顔をする。
「先生のところはどこ」
子どもが指さす。川から少し離れた、白い壁の小さな建物。屋根は古い。窓は高い位置にあって、外からは中が見えない。
リナは立ち上がる。
剣を抜かない日、というより、剣の意味が変わる日だった。剣は守るためのものではなく、歩くための重りになっている。重りがあると足が安定する。だから背負っている。抜かないために結んでいる。
子どもが走り出そうとする。リナは短く言った。
「走るな」
子どもは足を引きずりながら、少し照れた顔で歩いていった。
リナは医務室の方へは向かわなかった。向かえるのに、向かわない。その選択が、自分にできることを確認したかった。
見つけたからといって、飛び込まない。戦場なら飛び込む。ここでは飛び込まない。それが、今日のやり方だ。
村を歩く。
畑では男たちが鍬を振るっている。女が苗を運ぶ。子どもが水を運ぶ。誰も叫ばない。誰も怒鳴らない。動きが揃っているのに、命令がない。こういう場所もあるのだと、リナは遅れて知る。
昼前、広場に人が増えた。
パンの匂い。煮た豆の匂い。乾いた草の匂い。小さな音が重なる。笑い声は大きくない。村の笑い声だ。
リナは端に立ち、必要以上に目立たないようにしていた。目立ちたくないのではない。目立つことが、ここでは役に立たないと知っている。
「旅の人、これ食べな」
老婆が小さな焼き菓子を差し出す。リナは一瞬迷って、受け取った。
甘い。強い甘さではない。小麦と蜂蜜。噛むとほろりと崩れる。食べ物を味わう時間が、戦場にはない。噛む回数が増えるほど、生きているという感覚が増える。
「ありがとう」
リナが言うと、老婆は「いい顔だね」とだけ言って去っていった。
いい顔、というのが何を指すのか分からない。健康そうという意味かもしれない。若いという意味かもしれない。あるいは、何かを隠している顔のことを言うのかもしれない。
リナは自分の顔がどう見えるかを、考えたことがなかった。
銀の髪は、いつも結んでいる。ほどくと邪魔になるからだ。黒い目は、相手の動きを見るためにある。背が低いのは、理由がない。弱点にも強みにもなる。小柄だから死んだこともある。小柄だから生き残ったこともある。
美しいと言われたこともある。だが、それは戦場では意味がなかった。意味がある場所に来たのかもしれない、と今になって思う。それが、少しだけ怖い。
午後、村の外れで物音がした。
男が一人、倒れている。顔を押さえ、肩で息をしている。傍らに薪が散らばっている。滑ったのだろう。額が切れている。血は出ているが深くない。意識はある。
「大丈夫か」
リナが声をかけると、男は目だけでこちらを見る。返事が遅い。痛みで呼吸が乱れている。
リナは膝をつき、額の傷を見た。洗えばよい。縫うほどではない。だが、土が入っている。放置すると膿む。
「先生のところへ行けるか」
男は首を横に振った。
「歩くと、ふらつく」
リナは周囲を見て、薪をまとめる紐を拾った。男の上着を裂くのではなく、薪束用の紐を使う。布は貴重だ。村の生活が見えてきている。
「ここで押さえる」
額に清潔そうな布を当て、圧迫する。血の量は減る。
「水は」
男が指をさす。井戸は少し遠い。
リナは走らない。走る必要がない。近くの家に声をかけ、水を借りた。陶器の椀に水。布も一枚。事情を言えば、皆が動く。誰も大声を出さない。だが、手は早い。
リナは傷口を洗い、土を落とした。男は歯を食いしばる。呻き声を出さない。村の男の我慢だ。戦場の我慢とは違う。戦場の我慢は死ぬのを遅らせるだけだ。村の我慢は、明日も畑に出るためにある。
「今日は寝ろ」
リナが言うと、男が少しだけ笑った。
「先生みたいだな」
その言葉に、リナの胸の奥がわずかに動いた。
先生みたい。
似ているはずがない。自分は医者ではない。ただ、戦場で生き残るために、こういうことを覚えただけだ。だが、似ていると言われて嫌ではなかった。嫌ではない理由が、もう分かり始めている。
「先生は、どういう人だ」
リナが聞くと、男は目を細めた。
「余計なことを言わねえ」
「でも、必要なことはちゃんと言う」
「腕がいい」
「……安心する」
言葉を選んでいるのが分かる。評価を盛らないようにしている。村の人間は、誇張を嫌う。誇張すると、明日困るからだ。
それでも出てきた言葉が、安心する、だった。
リナはそれ以上聞かなかった。
聞けば、ここへ来た理由が形になりすぎる。形になると、触れたくなる。触れると、壊れる。壊したくないものがあると知ってしまった自分が、少しだけ面倒だ。
男を家まで支え、床に寝かせる。水を飲ませ、布を替える。家族が礼を言う。リナは頭を下げ、外へ出た。
夕方、村の空気が少し冷える。
畑から人が戻ってくる。荷車が軋む。子どもが駆けようとして叱られる。煙が立つ。匂いが増える。生活が重なる。
医務室の窓に、灯りがついた。
ただの灯りだ。油の灯り。特別な色ではない。
それでも、リナの足は止まった。
窓は高い。中は見えない。声も聞こえない。誰がいるのかも分からない。
なのに、胸が静かになる。
戦場で剣を握るときの静けさとは違う。何も考えなくていい静けさだ。息を整えなくていい静けさだ。
リナは、医務室へ向かう道の端に立ったまま、しばらく動かなかった。
剣は背中にある。結び目はほどけていない。
今日は、抜かない。
今日は、会わない。
会ってしまえば、また戦場と同じやり方で突っ込んでしまう気がした。自分の中の癖が、それを知っている。だから、今日は待つ。待つという行為を選ぶ。
村の誰かが医務室へ入っていく。老人だ。足を引きずっている。扉が開き、閉まる。灯りは消えない。
しばらくして、老人が出てくる。歩き方が少しだけ変わっている。痛みが消えたわけではない。だが、先ほどよりも呼吸が落ち着いている。
老人はリナに気づかずに通り過ぎた。
それでいい。
リナは医務室の前まで行かない。行けるのに行かない。扉を叩かない。叩けるのに叩かない。
自分の中にあるものが、どんな形をしているのか。まだ確かめきれていない。
命の恩人。初恋。そういう言葉は、戦場では役に立たない。だが、戦場以外の場所では、役に立つのかもしれない。役に立つからといって、使っていいとは限らない。
リナは背中の結び目を指でなぞった。
ほどかない。
ほどかないことで、今日の自分を守る。
夜が深まる。
村の灯りが一つずつ消える。犬が一度だけ吠え、すぐに静かになる。川の音が遠くなる。風が増える。
医務室の灯りだけが残る。
誰かのための灯りだ。誰かが痛みを抱えている夜の灯りだ。英雄の名とは関係のない灯りだ。
リナはそれを見ている。
戦場で敵国の兵を退けた手で。
子どもの足首を確かめた指で。
男の額の血を洗った掌で。
そして、まだ扉を叩かないまま。
胸の奥にあるものは、甘くはなっていない。甘くするには、まだ怖さが残っている。怖さの正体は、拒絶ではない。記憶が違っていることだ。自分は覚えている。相手は覚えていない。その非対称を、どう扱えばいいのか分からない。
それでも、ここに来た。
ここに来ることを選んだ。
剣を使わずに。
リナはゆっくりと息を吐く。
明日、扉を叩くかどうかは、明日の自分が決めればいい。
今日はただ、灯りを見ている。
それで十分だと思えた。
医務室の窓の灯りが、風で一度だけ揺れた。
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